只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

必要以外に思いださないことですね、“無い”からです。

2017-02-08 08:34:40 | 日記

頭の中で勝手に浮かんで来る雑念、いわゆる念が出るのを
恐れたり止めようとしたりしないことです。

心が動かなくなったら人間として意味がないからです。

必要なとき判断する、危ない時は逃げるまたは戦う、
計算するときは心を使うのです。

そういった以外は必要ありませんので
忘れ去って置けばいいのです。

必要なときは間髪置かず現れるからです。

問題は必要ない時にでも現れて
心を連れ去っていくからです。

そして迷い苦悩となっていくのですね。

この“只なる実践”は心を掻き乱している
「思考癖」を捨て去るのを目的として行じています。

ですから心を動かさない。動かないように守りきる、
“今”に居る、“今”を離さない“実践”です。

そうすれば自ずと“一心、無心”に落ち着いてくるのです。
これが本来の姿ですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


只管打坐と一口に言うことは簡単ですが、その内容は
「完全空っぽ」の心ですから、仏の心そのものの事です。
 ですから真実の只管打坐をすることは容易なことでありません。
 いきなり只管打坐出来るものではありませんから、
 初めには初めの修行があり只管功夫があるのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
頭の中が“空っぽ”とは、仏教において
仏の心そのものと仰っています。

“空”であり“無”であり“神仏”そのもの
とも言えるのですね。

それが、人間の本来の存在“真の自分”ということです。

真の自分”そのものは、身体の目には見えませんが
身体に感じるということです。

言葉にすると一般的に“感覚”と言いますが、
それを“体得”とも言えるのです。

勉学において、それを“体得”することは
出来ませんが、ひたすら“一心”に置くことで
「思考癖」が剥がれ落ち、本来の“真の自分”が甦ってきます。