今から60年ほど前の美術全集の一冊に、「法観寺塔婆」の
解説が載っている。
「聳え立つ樹木の垂直線の林立する画面に、
わずかにそりをもった塔の屋根の水平線が
重ねられ、曲線は一本の枝のうねりに
効かせているだけであって、全体が黒褐色の
静かな深い調子の中にあって、色彩は
きわめて寡黙をまもっている。」
格調の高い文章だが、この中には致命的な間違いがある。
お分かりだろうか。
「法観寺塔婆」には「樹木」は一本も描かれておらず、
「枝」も画面には見当たらない。垂直線を乱立して
描かれているのは電信柱であり、曲線をうねらせているのは
電灯の金具なのだ。
筆者は文章を書く際、印象の記憶だけに頼って、
画面を確認しなかったのだろう。印象は時に
自分の見たい画面を作ってしまう。絵から受ける
印象を大事にしながら、画面への視線との
キャッチボールを繰り返すことが大事だという、
良い例である。
「須田国太郎」を書いて、同じ間違いをしていないだろうか。
以って他山の石とすべきだろう。
解説が載っている。
「聳え立つ樹木の垂直線の林立する画面に、
わずかにそりをもった塔の屋根の水平線が
重ねられ、曲線は一本の枝のうねりに
効かせているだけであって、全体が黒褐色の
静かな深い調子の中にあって、色彩は
きわめて寡黙をまもっている。」
格調の高い文章だが、この中には致命的な間違いがある。
お分かりだろうか。
「法観寺塔婆」には「樹木」は一本も描かれておらず、
「枝」も画面には見当たらない。垂直線を乱立して
描かれているのは電信柱であり、曲線をうねらせているのは
電灯の金具なのだ。
筆者は文章を書く際、印象の記憶だけに頼って、
画面を確認しなかったのだろう。印象は時に
自分の見たい画面を作ってしまう。絵から受ける
印象を大事にしながら、画面への視線との
キャッチボールを繰り返すことが大事だという、
良い例である。
「須田国太郎」を書いて、同じ間違いをしていないだろうか。
以って他山の石とすべきだろう。