あなたと夜と音楽と

まあ、せっかくですから、お座りください。真夜中のつれづれにでも。
( by 後藤 純一/めるがっぱ )

須田ノート:粟津則雄

2010年05月29日 18時29分17秒 | Weblog
 本屋で手にとった本に、粟津則雄が須田の絵に
ついて書いた短文が載っているのを見つけた。
「美のおもちゃ箱 partⅡ」(芸術現代社)という
本に、「華北大同 善化寺」という絵について
書いている。須田が戦争時、国の依頼で満州を
訪ねた際に描かれた墨絵である。

 粟津が須田について書いた文章を初めて眼にした。
違っているかもしれないが、知る限り、粟津が須田に
ついて書いているのは(現在のところ)この一文だけ
かと思う。
 この本は先年閉館した「百点美術館」という美術館が
所蔵していた作品について、一点ずつ、作家が文章を
寄せているもの。

 粟津は古今東西の画家を取り上げ論じている。
これもよく知らないで言うようだが、恐らく日本の
作家で粟津ほど幅広く多くの画家を論じている
人は少ないと思う。それだけに、粟津が須田を
取り上げないのが、以前から不思議だった。
粟津の粘液質な気分は須田の個性に響くものが
ある気がするのだが、近く見える個性であるほど、
噛みあわないものが見えやすいということもあるの
だろう。上記の一文でも軽く触れて終わっている
ように(わたしには)見える。




「才能」

2010年05月01日 20時49分42秒 | Weblog
 
 「才能」という言葉は使い方の難しい言葉だ。
あると言っても、ないと言っても、傲慢の謗りを
免れにくい。
それを承知の上で、まとまった原稿を書き終えた機会に、
少しだけ才能ということについて書いてみたい。

 以前は漠然と、文章を書いてお金をもらえたら
いいなと思っていた。
文章で生活したいというほど大それた願いではない。
お金は、その文章あるいはその文章を書く労力に
価値があると認めた証拠だと思うからだ。
今回の原稿を書いていて、なるほど、自分は
職業としてのもの書きには縁遠いと納得するものが
あった。
 まず、言葉が容易に出てこない。
イメージや気持ちは獏としながら確かに胸の
うちにあるのだが、それを表に出す言葉が
なかなか出てこない。
漱石を引き合いに出すのは気が引けるけども、
漱石の書簡集を読むと、その言葉が次々と沸いてくる
勢いに、なるほど作家と言われる人は違うものだと
おもった。
言葉が出てくるのに時間がかかるだけではない、
自分が何を書こうとしているかを理解するのも
時間がかかる。
手探りに書いていって初めてああ、そういうことかと
分かったり、何度も書き続けて、ようやく自分の書き
たいものが見えてくる。
こんな具合だから、行き詰って書けないとなると
ちょっとしたパニックになる。
他にしたいことも手につかず、足元が沈んでいく
ような気持ちに陥る。
書けない状態が続くと、気持ちの視野が狭まり、
肩がこわばり、そのうち、後頭部が重くなって
鈍痛が始まり、何日も続く。
締め切りのない中で書いていてこうだから、
締め切りに合わせて原稿を書くことはとても
出来ない。

 こういう状態を日常的に経験すると、僭越ながら
わたしも少しは「才能」という言葉を使っても
傲慢さの謗りから逃れられるのではと思えてくる。
「才能」というのは自分の限界のことなのだ。
後頭部の頭痛に自分の限界を垣間見る思いだった。