あなたと夜と音楽と

まあ、せっかくですから、お座りください。真夜中のつれづれにでも。
( by 後藤 純一/めるがっぱ )

映画「将軍たちの夜」を見て

2017年08月24日 12時38分59秒 | Weblog
 Amazonで「将軍たちの夜」を見た。
アナトール・リトヴァク監督。
1967年作品。
 
 
 
 1942年、ナチ占領下のワルシャワで娼婦の猟奇殺人が起こった。
容疑者として疑われたのは、当時ポーランドにいた将軍3人の誰かだった。
その2年後、今度は占領下のパリで同じ手口の殺人があり、偶然にも
ワルシャワの3人の将軍がいずれもパリにいた(その日は
ヒットラー暗殺計画の日でもあった)。
そして、戦争が終わって10年が経つ1956年、また同じ手口の
事件が今度はベルリンで起こるーー。
 3人の将軍の一人であるタンツ将軍がワルシャワのアパートを
機甲師団で破壊するシーンが強い印象を残す。セットとは
思えない街の一角がそのまま壊されていく。
 
 
 
 

このタンツ将軍がピーター・オトゥール演じる猟奇殺人の犯人だった。
極端な潔癖症、完璧主義者、命令には徹底的に従い、また部下に絶対的な
服従を求める人物。
ゴッホの自画像を吸い込まれるように見入るシーンが独特だ。
オトゥールの演技が強烈で、将軍の「異常」ぶり」が映画の前面に
出ている。
映画はタンツの「異常さ」にドイツという国の「怖さ」を見ているのだろう。
ヒトラー暗殺計画と猟奇事件をからませ、戦後ドイツの国粋主義復活までを
描いている。
「アラビアのロレンス」が1962年公開、「将軍たちの夜」が67年と続き、
ロレンスのエキセントリックな個性がクンツ将軍の「変質者」に拡大し、
オトゥール個人と重なるほどの印象を作っている。
 
 
 
 H・M・キルストの原作(角川文庫)を読んで見た。
原作はドイツ軍上層部の傲慢なほどの特権意識とその
命令に唯々諾々と従う兵隊を批判的に浮かび上がらせていた。
映画は原作をたくみに脚色しながら、オトゥールの「一人舞台」が
際立っている。
 猟奇事件を捜査するドイツ軍諜報部の大佐にオマー・シャリフ、
ほかはほとんどのドイツ軍人をイギリス人俳優が演じている。、
(ヒットラー暗殺に関わる将軍にドナルド・プリーゼンス。
トム・コートノイがタンツ将軍の従卒)、
ドイツ人をイギリス人が演じる違和感は、オトゥールの演技に
引き込まれてどこかに消えていった
オトゥールの映画である。
 
 制作は「アラビアのロレンス」のサム・スピーゲル。
監督のアナトール・リトヴァクの映画を見るのはこれが初めて。
この作品の数年前に「さよならをもう一度」を撮っているが見ていない。
脚本が「昼顔」「影の軍隊」のジョゼフ・ケッセルと「オリエント急行」の
ポール・デーン。
撮影は「太陽がいっぱい」のアンリ・ドカエ。
音楽:モーリス・ジャール。
豪華メンバーである。
 
 

映画「ソール・ライター」を見て

2017年07月01日 10時19分19秒 | Weblog
  「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」という
ドキュメンタリー映画をAmazonで見た。
トーマス・リーチ監督、78 分、2014年。
ソール・ライターはカラー写真のパイオニアと称賛されたニューヨークの写真家。
2013年に89歳で亡くなった。
1960年前後をピークに世間から忘れ去られていたが、21世紀に入って
再評価が起こり、先日日本でも個展が開かれた(2017/4/29-6/25:BUNKAMURA)。
 
 

 その個展が面白かったのでライターの色彩感覚や構図を取り上げた内容を期待して
いたが、監督がインタビューをして写真家の晩年からその人生を振り返る
という映画だった。
撮影も兼ねた監督はこれが初めての作品。
ライターは自分を売り込むことをしない人だったという。監督はそんな
ライターの生き方に意味を見つける「ストーリー」をインタビューから作り
たかったようだが、その意図はやや空回りをしていて、退屈で眠気を誘われる
ところもある。
映画はむしろNYの独居老人の日々という印象を残している。
 一人暮らしの部屋の中で、また60年近く住み続けているという近所を
歩くライターを、カメラは撮っていく。
2002年に伴侶であった女性を喪い、映画の撮られた2011年までの間、
NYのアパートはフィルムをいれたボックスの山や遺品に埋没していたようだ。
近所の人とのやりとりが出てくるのは一か所だけで、仕事上の知人を除けば、
映画でライナーが話をする相手はいない。
映画は、アシスタントが部屋にうずたかく積まれたボックスや本を整理する
場面から始まり、写真家自身も「こんなものがあったのか」とか、
「ああ、あの時のだ」等と「再発見」しながら、カメラに独り言のように話し
かける様子を撮っている。
ライターは自分は映画になるような重要な人物ではないと、繰り返し呟く。
写真家として少しは仕事をしたが、映画になるような「巨人」ではないと。
自分の暮らしを撮影され監督からのいろいろな質問に戸惑いながら、
時にまんざらでもない表情が浮かぶ。
 
 
 
 
 
 ライターはお喋り好きである。さかんに監督の持つカメラに向かって
話しかけ、ご機嫌に話を続ける。人生の終端が近づく時期に世間が自分に
関心を見せるのだから、悪い気分のはずがない。時に意地が悪いほどの
皮肉屋の一面を見せながら、さほど面白くない話に一人で笑い興じている。
 
「君はこの写真が良いと言ったが、それは君がなにもわかっていないことを意味する。
でも、わたしは君にも知恵があることにして、君の意見を尊重する。」
 
後半になって、ライターは老年の悩みを語る。
その言葉はしばしば老人の「愚痴」とも聞こえる。
 
「自分は途方にくれて戸惑っているんだ。」
 
「年を取ると物のように扱われる。人に言えることもあまりない。
いろんな人がやってきて、いろいろ画策する。
楽しい?とんでもない。」
 
「映画に撮られるのが嫌なのは、自分の姿を見せられるのが嫌だからだ、
若い頃はもうすこしましな姿だったと思うからね。」
 
「80歳を過ぎて町を歩くと、ふと窓に老人が一緒に歩いている、
それが自分だと悟るのさ。」

映画が感動を覚えるのは、ライターが自分がまだ生きていることに
困惑しながらも、いつもユーモアを大事にする強さがあるからだ。
深刻な話題を口にしながら映画は暗くならず最後まで笑いを残している。
 
 
(引用したライターの語る言葉は、印象に基づくもので字幕どおりではありません)
 

「ソール・ライター展」を見て

2017年06月28日 08時52分37秒 | Weblog
 北国で育ったせいか、雪に敏感だ。
絵を見ても、そこに雪が描かれていると、つい立ち止まる。
写真家ソール・ライターの展示を見に行こうとしたのも、
そのポスターに雪景色が使われていたからだ。
雪にはいろいろな種類と表情があるが、その写真の雪道はぬかるみの冷たさを
感じさせるものがあった。それだけにその雪道を通り過ぎる人の
持つ傘の鮮やかな赤が強い印象を作っている。
 
 

 ソール・ライターは1923年生まれで2013年に89歳で亡くなるまで
活躍したニューヨークの写真家で、カラー写真の先駆者と言われた人なのだとか。
今回の展示は1950年前後から1960年までのものだった。
展示のカラー作品はファッシヨン雑誌向けに撮ったものが中心らしいが、
正直に言えば、カラーで撮った写真はどれも「ファッショナブル」で、
商業誌用なのか写真家個人で撮ったものか、区別がつかなかった。
展示作品の中ではやはりカラー写真が抜きんでて良いと感じさせた。
ガラスに写った映像で現実を二重化して見せるのはこの人が開発した
技法なのかもしれないが、カラーによって現実が模様の素材になって
精緻な織物のように見せている。
黒い窓の覆いが縦画面のほとんどを暗く切り取った下から覗く狭い
空間が外の通りを見せたり、冷気で白くなった窓ガラスからすぐ外を
歩く人物が太い直線になってジャコメッテイを思わせるなど、
遊び心を感じさせる。
一見すると、白黒写真の仕事はカラーとは随分違う。
白黒写真はスナップに似た通りがかりの人物を撮ったものが目につく。
画面は暗く、輪郭はぼやけている。
どの人物も黒いコート姿で、周囲とのふれあいのない暮らしの中で
酸素不足に似た切迫感の中にいる気配がある。
街をいく人々の現実的な表情をとらえた白黒写真は悪くはないが、
カラー作品ほどのインパクトは感じさせない(プライベート写真というべき
恋人のヌードは別格だ)。
 ポスターの「足跡」という写真がやはり良かった。
対角線上に一つ一つの足跡が続くぬかるんだ雪と傘の赤の
鮮やかなコントラストがいたずら心に似た詩を写真に作っている。
雪のぬかるみを写したからその写真からぬかるみの冷たさが
感じられるというものではない。
斜め上からの構図を好んだこの人は、同じ構図で撮った多くの
写真の中にはもっと美しい雪もあったはずだ。
足跡がぽつりぽつりと人の後を追いかけるような白さが道を覆っている
きれいな雪とか、道のぬかるんだ跡を覆い消すように多くの雪が降り
こんでいる抒情的な写真など様々な写真があったはずだ。
その中からこの人が自分の写真として選んだのが、ぬかるみの
冷たさを感じさせる1枚なのだ。カラーの「ファッショナブル」な
世界と白黒の現実社会が「ぬかるみの冷たさ」で繋がっている。
 もっと早くにみていたら、と悔やまれる展示だった
(2017/4/29-6/25:渋谷・Bunkamuraミュージアム)
 
              *
 
そのカラー写真の鮮やかな赤や黄色に映画「キャロル」を思い出した。
トッド・ヘインズ監督でケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが恋人同士を
演じた美しい映画だった。

面白いことに、これは逆だった。
「キャロル」がソール・ライターを意識していたのだ。
IMDbにこう書いてあった。

「『キャロル』は1940年代末から1950年代初めの写真術が持っていた
視覚と感触に影響を受けている。カメラは当時のヴィヴィアン・マイヤーや
ルース・オーキンらのフォトジャーナリズムを意識して撮影された。
特に、窓越しやガラスに写った像を写す手法で知られるソール・ライターの
影響が決定的だ。」(IMDb「Carol」triviaより)

「キャロル」では主人公テレーズやキャロルのアップを車の窓からガラス越しに
撮るシーンが繰り返し出てくる。時に小雨がガラスをぬらし、ぼんやりとした映像が
いっそう女性を美しく見せていた。言われてみれば、ソール・ライターの
カラー写真のイメージが映画の「視覚と感触」に見事に再構成されていたという
訳だ。
そう言えば、テレーズは写真が専攻だった。
テレーズがキャロルといったん別れた後、働く先がNYタイムズのカメラ班だった。
映画を見ながら面白い設定だと思った。原作ではテレーズの仕事は舞台美術の
模型作りだったから、あの設定にも監督の写真家たちへのオマージュが
織り込まれていたのだろう。

映画「朱鞘罷り通る」を見て

2017年06月05日 03時27分54秒 | Weblog
 
  ここ1、2か月ほど、毎日、落語を聞いている。それも「中村仲蔵」だけを
くり返し聴いている。
最初、圓生で聴いて志ん生、正蔵、圓楽、志ん朝、馬生、歌丸と
 CDやネットで聴いて、志の輔を聴きに赤坂まで出かけた。
自分でも訳が分からない。「はまった」というしかない。

               *
 
  中村仲蔵は江戸中期の実在の役者で、歌舞伎の歴史では
大きく取り上げられる人物だ。
「仮名手本忠臣蔵」でほんの端役であった五段目の「定九郎」を華のある役柄に
作り変え、江戸中の評判を取ったという伝説的なエピソードが知られている。
明治になって三代目の仲蔵が初代の伝記を書いた「手前味噌」にも
この話が出てくる。
 
 この歌舞伎役者中村仲蔵に大川橋蔵が扮した「朱鞘罷り通る」という東映映画を
ネット(DMM)で見た(1956年公開 監督:河野寿一 脚本:三村伸太郎)。
この映画、原作は山中貞夫となっており、戦死した山中が徴兵される前に
作成した脚本がもとになっている。
(題名の「朱鞘(しゅざや)」は「定九郎」の刀の鞘の色)

 もともと女形出身で体つきの華奢な二枚目の大川橋蔵に「定九郎」役は不似合いだが、
芝居小屋のセットは立派なもので、橋蔵が破れ傘をかざして花道で見栄を切る舞台は
興味深く、面白かった。
映画は「此村大吉」なる旗本崩れが「定九郎」のモデルとして江戸で評判になるという
いわば「伝説」からのスピンオフ作品で、市川歌右衛門がこの「此村大吉」を
演じていた。
橋蔵の中村仲蔵は仲間のいじめから「定九郎」役を降られ、
良い趣向の得られないまま、このままでは笑いものだと恋人と駆け落ちをしようとするが、
雨の中で市川歌右衛門扮する「此村大吉」とぶつかり、その黒羽二重の姿に
「定九郎」の着想を得るというストーリーだ(歌右衛門はさすがの貫禄である)。

 原作?の「手前味噌」に「此村大吉」なる人物は出てこない。
役柄の着想を得る雨の蕎麦屋では仲蔵は侍の姿を目にするだけで、
映画や落語のように言葉を交わしたり付き合ったりはしない。
この映画の創作かとおもったら、実は戦前に「此村大吉」という映画が1929年
(監督:山口鉄平:主演:坂東妻三郎)、1933年(監督:井上金太郎 主演:坂東好太郎)と
二度も作られていた。
戦後の1954年にも大映で鶴田浩二主演で「此村大吉」という映画になり、
(監督:マキノ雅弘)、1963年には高田浩吉が仲蔵、片岡知恵蔵が
大吉という「五人のあばれ者」という映画が作られている(監督:小沢茂弘)。
「此村大吉」という人物は(山中の創作ではなく)講談から生まれたキャラクター
らしい。。
時代劇の人気が高かった当時は、中村仲蔵よりもスピンオフした
「此村大吉」の方が人気だったのだ。
 
 
 
 

映画「警視庁物語」シリーズを見て

2017年05月30日 07時13分19秒 | Weblog
 
 
 東映の「警視庁物語」シリーズをネット配信(DMM)で見た。
殺人事件を捜査する警視庁捜査1課の活躍を描いた、一話完結の
シリーズもので、昭和31年(1956)から38年(1963)まで24作が作られた。
寅さんの48作には遠く及ばないとはいえ、当時のヒットシリーズだ。
今回、24作のうち23作を見た(「謎の赤電話」が未見)。
全作白黒で、前半の半数はスタンダードサイズ、後半が「東映スコープ」。
まだシネマスコープが新しかった。
幾つかは子供のころに見た記憶がある。
 

 昨今の刑事ドラマのような謎のトリックはなく、国家天下、組織を
論じる人物も出てこない。
被害者も加害者も庶民、刑事たちもどこにでもいる普通の人だ。
被害者の身元調べから始まり地道な聞き込みで関係者の周辺から
浮かんだ容疑者は一転アリバイが成立、捜査は振り出しに戻るの繰り返し。
1-2作目は今から見ると粗い演出だが、他は緻密な展開で楽しめる。
 ひょっとしたら、チームでの捜査を描いた最初の日本映画だろうか?
7人のうち、神田隆、堀雄二、花沢徳衛、山本麟一の4人がほぼ
固定で、あとのメンバーは回によって入れ替わっている。
7人のチームには親分、子分のつながりはない。
「長田警部」や「林刑事」らそれぞれがチーム内で自分はなにをやるかと
役割を自覚して動いている。縦社会の上下関係ではなく、
神田隆の「主任」を中心にした職能集団である。
7人は個性的だが、人間関係はあまり描かず、捜査の過程での屈折や
感情をさりげなく映している。
どの刑事も紳士として描かれるが、初期の数本では庶民が刑事にぺこぺこし、
刑事も、ポケットに手を入れたまま、胸をそらして応対する。
この方が実態に近かったのかもしれない。
 
 背景となっている昭和の雑然とした風景が面白い。
都内なのに石ころだらけの道に長屋のような安アパートばかり。
屋台の焼きそばが一皿30円で、リヤカーが活躍し、三輪トラックが走る。
夜道が暗い。
新幹線ができる前だから、大阪出張も東海道線の夜行列車である。
木造の椅子の車内は客でいっぱいだ。
犯人の仲間が連絡をとりあう上野駅の伝言板が当時の世相を感じさせる。
事件に関係して踊り子やストリッパーが多く登場し昼でも
タオル一枚で姿を現すのは(観客へのサービスと)時代の偏見だろう。
パトカーにこそ無線はあるが、携帯のない時代だから
警官が自転車で走り周って連絡をする。
死体を発見した警官が「近くに公衆電話はありませんか」と聞いている。
端役のアパートの大家や犯人まで生活感の濃い顔をしている。
「昭和」の顔だ。
 
 
 

*花沢徳衛
 
子供のころに数本を見ていて、花沢徳衛だけはよく覚えていた。
戦前からの叩き上げの林刑事役はこのヴェテラン俳優の
代表作と言っていいのでは。
当時、まだ40代の花沢はまだ小さな娘の父でもある刑事の
生活感を身体から匂わせていた。
煙草を吸わず、代わりにキャラメルを食べている。
 
 
*神田隆

捜査一課の司令塔である主任は、捜査の進め方や刑事たちへの仕事の割り振りに
説得力がある。常に「主任」と呼ばれ、名前で呼ばれることがない。
神田隆は安定感があり優し気で、好きな俳優だった。
滑舌がよく、きれいなよく通る声をしている。
後に時代劇で悪役になったのが子供心にはイヤだった。
 
 
*堀雄二
 
今度見て初めて知ったのだが、シリーズの多くはクレジットのトップに
この人の名前が来ている。子供のころ好きだった神田、花沢がずっと後ろ
なのは意外である。
堀、神田、花沢の3人がこのシリーズの基調を作っていた。
 
 
 
*山本麟一
 
後にやくざ映画の悪役で鳴らした山本がこのシリーズでは
若手の金子刑事でレギュラーになっている。
 
 
 

月形、萬屋、辰巳

2017年05月26日 09時49分13秒 | Weblog
 昔、やくざ映画が人気だった頃がある。
特に学生に人気で、映画好きなら誰もが見ていた。
へそ曲がりのわたしは他の人が騒ぐなら見ないと
決めて、一本も見なかった。
単細胞である。
半世紀経って、当時の映画を幾つか見てみた。
 

*「人生劇場 飛車角」
(監督:沢島忠、脚本:直居欽哉 1963)
 
 シリーズ化された「人生劇場」の第1作。
鶴田浩二はこの映画で初めて飛車角を演じた。
恋人のおとよは佐久間良子、吉良常は月形龍之介である。
 月形龍之介は水戸黄門のシリーズで子供のころ見たはずだ。
昭和30年代の東映時代劇といえば市川歌右衛門と片岡知恵蔵が
二大看板で、月形は一歩退いていたような印象がある。
月形龍之介が本格的に演じた映画を見るのはこれが初めて
だった。
硬い個性である。硬さがそのまま人柄となって風格のある俳優となっている。
一本調子の演技だが、細い眼の奥に鋭いものがある。
今の時代には比べる俳優が思い当たらない。
こんな人だったのかと、新鮮であった。
 
 
*「日本侠客伝」
(監督:マキノ雅弘、脚本:笠原和夫、村尾昭、野上龍雄 1964)
 

 高倉健が本格的な主演俳優になるきっかけになった作と何かで読んだ。
監督が今ひとつ高倉の個性を作り出せていない感じなのは、いわば
「健さん」映画の「走り」だからだろう。
意外だったのは、萬屋錦之助が助演で見事な存在感を見せていたことだ。
主演の高倉を「食う」のではなく、脇役としての「芯」を感じさえる演技だった。
抑えているオーラがおのずとスクリーンを光らせていた。
 実は錦之助の主役で企画された映画なのだという。
いろいろな事情で都合が付かず、では高倉を売り出そうということになり、
錦之助が脇役の「特別出演」を買って出たのだとか。結果として、
その後錦之助は古巣の東映を離れることになる。
撮影当時意識していたとは思わないが、見終わってみれば、画面の中の
錦之助はいわば「覚悟」を感じていた気がする。
錦之助の出た唯一の「やくざ映画」だという。
 
 

*「人生劇場 飛車角と吉良常」
(監督:内田吐夢、脚本:棚田吾郎 1968)
 
 内田吐夢が撮った唯一の「やくざ映画」とか。
鶴田浩二が主役の飛車角だが、吉良常を演じた辰巳柳太郎が
画面を圧倒していた。事実上、辰巳の映画になっている。
上海から何年ぶりかで帰ってきた年老いた侠客という役が、
辰巳の無精ひげによく似合っている。
 
 鶴田が警察の手を逃れて入り込んだのが辰巳のいる家の庭であった。
「誰だい、お前さんは?」
「切迫してるんで、かくまってもらえませんか」
「切迫? あんた人を殺してきたね」
じっと飛車角の顔を見つめ、その人物を吉良常は信じる。
映画は飛車角が恋人の藤純子とすれ違いを重ねる恋物語だが、
吉良常の辰巳が二人を手助けする脇筋のほうが太い線を作っている。
辰巳柳太郎は島田省吾と並ぶ新派の俳優とは知っているが、
じっくりと見たのは初めてだった。
若い頃はさぞかし暴れ者だったのだろうと思わせる飄々とした個性だ
(月形龍之介とは対照的だ)。
ちょっとくぐもった声でささやくような話し方が、渋く魅力的である。
 
 三作とも、古くからのやくざが新興勢力の横暴に我慢を強いられ最後に
殴り込みをかけるという「やくざ映画」のパターンがすでにある。
悪くはないが、今の時代からは飽きが来る。
そんな映画の画面を締めているのは、脇役の層の厚さだ。
水島道太郎、大木実、山本麟一、加藤嘉、曽根晴美、八名信夫等々。
この人たちを見ているだけでも面白い。
 
 
 
 
 

「燕子花図屛風」

2017年05月13日 08時00分35秒 | Weblog
  表参道の根津美術館を訪ねた。
この美術館に初めて来たのは1999年だから、20年近く前になる。
以降、毎年のように「燕子花図屏風」が公開されるこの時期に訪れていた。
今回は何年ぶりかである。

 この屏風絵を初めて見た時の感動をよく覚えている。
いわばモーツアルトのジュピター交響曲をおもわせた。
気宇壮大というべきか、威風堂々というべきか。
見上げるような「高さ」とエネルギー、そして存在感だと思った。
その後、しかし、この絵に躓くことになる。
毎年、見ていくと、ジュピターを連想する向こうに、なにか
違うものが感じられてきた。
MOA美術館の「紅白梅図屏風」やボストンの「松島図」を見て、
メトロポリタンの「八橋図」などと比べると、「燕子花図」の
思い切った単純化に、見ていてなにかひっかかるのだった。
根津美術館には光琳の「夏草図」という屏風絵もあり、大胆な構図は一緒だが、
こちらのほうは、細かすぎるほど細かく精緻な技法で草花が描写されている。
両者に共通なのは現実の草花を幻想の中に再構成しながら、
その現実と幻想とが表裏一体になっていることだ。
デザイン的とよく言われるのは「紅白梅図屏風」や「八橋図」、
「松島図」に描かれている大胆に幻想化し単純化した図案によるものだが、
「燕子花図」や「夏草図」はそれらほどの幻想化でも単純化でもない。
ちょっと見には現実をリアリズムに精緻に描いたのかとさえ思えるが、
よく見れば、絵は大きな幻想の中にあることは変わりない。
 この絵の何に引っかかるのか、よく分からないままに来た。
今年、久しぶりに訪ねて、今までとは少し違って見えてくるものがあった。
同じ燕子花を描いた「八橋図」と比べてみると、作者は
現実と幻想のはざまにあって、より現実に押しだされている。
同じような単純化にあって、作者は自分の幻想をそのままでは
信じられなくなっているのだ。「八橋図」の板道が屏風をななめに
走るような思い切った工夫を幻想の中で展開するのを「燕子花図」は避けている。
自分の幻想を抑え現実に身を置きながら、しかし全体は大きな幻想の中に沈めている。
今回、すこし違って見える中に浮かんできたのは、この違いをもたらしたものを
言葉で言えば「喪失」なのではということだった。
むろん、それがなにかはわからないが、現実と幻想のはざまに生きたこの画家に
あって、なにかが決定的に変わったのだ。
 
ーーーーと、ここまで考えて、春日井に帰った。
光琳の図録を手に調べたら、この見方は成り立たないのが、分かった。
わたしは「燕子花図」が作者の晩年、あるいは後半生の作と思っていた。
もまれて生きた人生の果てに辿り着いたのが、あの単純化された図柄なのだと
思い込んでいた。
「燕子花図」がいつ作られたのかはっきりした年代は分かっていないが、恐らく
元禄14年(1701)頃だろうという。1658年生まれの光琳は43歳の頃だ。
人生50年と言われた当時、決して若くはないが、58歳(1716年)まで生きたなかで
晩年とは言えない。
しかも「八橋図」や「紅白梅図屏風」などは「燕子花図」以降の晩年に近い頃の作と
図録にあった。
これでは、わたしの勝手な夢想は大間違いである。
時系列が逆なのだ。
わたしにはそうは思えないのだが。
それでは、「燕子花図」のあの単純化は何なのだろう?
これからまた毎年5月に表参道を訪ね、あらためて考えることにしよう。
新しい考えに辿り着くのはまた20年後だろうか。
 
 根津美術館は庭を歩くのも楽しみだった。
すり鉢状の庭の底にある池にカキツバタが咲いている。
おかしなことにこれまでカキツバタがきれいに咲いているタイミングに
あうことがなかった。毎年同じ五月のこの時期に来ているのに、
カキツバタは大概しぼんでしまっていた。いつもおやおやと
呟いていたが、今年は違った。
びっくりするほど満開に咲き誇っていた。
こんな年もあるものかと、面白かった。
 
 

*資料
「琳派と伊勢絵」(根津美術館 1999)
「国宝 燕子花図」(根津美術館 2005)
(根津美術館サイト)
http://www.nezu-muse.or.jp/
 
 
 
 
 

「南国土佐を後にして」

2017年04月21日 08時30分23秒 | Weblog
 先日亡くなったペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」がヒットしたのは
昭和34年だった(1959年)。
「はりまや橋で坊さん、かんざし買うを見た」というサビに当時小学生だったわたしも、
胸がキュンとなった。
「都に来てから幾年(いくとせ)ぞ」という歌詞は、都会に出た地方出身者の
望郷を歌ったこの時代のヒット曲の特徴をよく表している。
三橋美智也の「りんご村から」(昭和31年)や春日八郎の「別れの一本杉」(昭和30年)も、
歌詞は地方にいる目線で書かれているが、実は田舎から出てきてまだなじめない都会から
地方を振り返った歌だった。
一方、「南国土佐を後にして」は、ようやく住みなじんだ都会から地方を見た歌だ。
歌手が民謡出身の三橋や演歌の春日と違い、ポップスを歌うペギー葉山だったせいもあるが、
高度成長期にあって、日本人の軸足が地方から都会へと移っていったせいでもあったのかと、
今になって思う。

 「南国土佐を後にして」は大ヒットして、映画になった。
日活が小林旭主演で撮って、これもヒットした。
前科のある小林が地元の高知に帰ってきて、どこへ行っても就職を断られ
苦労するというストーリーがいかにも昭和の世相を思わせた。
知らなかったが、日活が小林旭の「渡り鳥シリーズ」を作ったのは
この映画が契機だったのだとか。
鹿児島、佐渡、函館など地方の町を舞台に、ギターを持った
「流れ者」が悪をくじき美女に惚れられまた去っていくという
ヒーローのシリーズだ。
小林旭が輝いていた。
定職を求める地元出身者から、地元に根のない「流れ者」へと
変わった背景には、西部劇「シェーン」の日活版を作ろうという
狙いがあったはずだ。主人公がわずかな接点でしか地元と
触れ合えずまた土地を去るという設定が、都会の映画ファンを
魅了したのだろう。
(小学生のわたしは夢中になって見に行ったが、
今となってはなつかしさよりも気恥ずかしさが先に立つ。)

 年譜を振り返ると、昭和34年はいろいろな出来事があった年だ。
皇太子のご成婚に日本中が湧き、王、長嶋が活躍し、南極の昭和基地で
生きていたタロー、ジローに感激した。
忘れられないのは、「少年サンデー」「少年マガジン」が創刊したことだ。
本屋に買いに行き、なにか誇らしい気持ちで手にしたことを覚えている。
「海の王子」(藤子不二雄)や「スポーツマン金太郎」(寺田ヒロオ)といった
連載漫画がなつかしい。
定価は30円だった。
 

「常連」

2017年03月30日 10時04分08秒 | Weblog

 「常連(じょうれん)」を手元の辞書は「常にその飲食店・興行場等に来る客」
「いつもつれだっている連中」と書いてある(岩波国語辞典)。
三遊亭圓生の「寄席育ち」(青蛙房)にこんなことが書いてあった。
昔の寄席には「常連」という客と席があったのだとか。

「あたくしの子どもの時分には、どの寄席にもたいてい常連というものがありました。
月ぎめでいくらというものを払って、毎晩来てもいいが、その代わり来なくても
それだけは払わなくちゃいけない。」
 
「常連が最もうるさかったのは神田の白梅という席。ここへは
(-)青物問屋の旦那方が来るんです。
畳六畳か八畳ぐらいの広さのところが帳場格子みたいなやつで
仕切ってあって、鉄(かね)の大きな火鉢が出ていて、これへ
やかんがかかってお茶の道具がそばに置いてあって、おまけに
木の枕がある。それで(前座の)我々があがる時分には
まだ寝てるんです。舞台に足を向けてね。」
「(噺家が高座に出てくると)<常連>のながながと寝てたのが
起き上がって、あがった噺家の顔をじろっと見て、
こっちが座って「エエっ」と言う時分にまたごろっと横になって
寝ちゃうんです。」
 
「これが実にしゃくにさわるんです。七、八人そろってみんな
寝ちゃうんですからね。
これは、という噺家があがってくるとちゃんと起きるんです。
うちの先代なんぞァよくそう言ってました。
『畜生め、なんとかして、今に坐らして聞かしてやりてい』ってね。」
 
「だから(常連の客が)寝るか寝ないかってのが、うまくなったか
ならないかの標準になるんです。」
 
常連という言葉がこの寄席の「常連」衆から生まれたのかどうかは
分からないが、このエピソードがそのまま落語のような話だ。
 
 
 

「手前味噌」

2017年03月25日 12時41分43秒 | Weblog
 「手前味噌」(角川選書 1972)。
 幕末の歌舞伎役者、三代目中村仲蔵の自伝。
先輩役者の伝記なども含んだ原本から自伝部分を編集し
口語訳にしたもの(小池章太郎訳)。
 踊りの名取である母から棒で叩かれながら踊りを習い、11才で歌舞伎の
初舞台を踏む。「切られ与三」の蝙蝠安などの敵役や老け役で絶妙な
演技力をみせたという。
著者(1809-1886)は下唇が分厚く「わに口」と陰口を言われながら、
正直な人柄とユーモアで人望があったらしい。
 
 舞台の演目の記述や少しでも身分や給金が上にと気遣う役者としての
苦労話や各地を興行する旅廻りの話を通して、当時の庶民の暮らしぶりが
生き生きと語られている。
特に文政の大火(1829)で江戸が焼けて大阪に出向く道中が膝栗毛のように
語られている。富士川の川越えに難儀し、名物の鰻がまずいと文句を言い、
知り合いの芝居一座に挨拶に行くと舞台に出され、そのまま一座と旅をすることに。
水野忠邦の天保の改革では歌舞伎界が大騒ぎになった。
 「せっかく以前は(年)百両までになっていたのが六十両に落とされて、こりゃあ悲しかった」。
役者は編み笠をかぶって歩けとされ、座頭(役者の長)が手錠(てがね)をかけられたり、
芝居小屋がすべて浅草へ移動になったりと。
大阪では大塩平八郎の乱に遭遇している。
天保8年2月19日朝五ッ時(8時)、「突然天満辺から火事が出たとかで、
見物は総立ちになって、 なんとなくものさわがしく、「ただの火事じゃないらしいぞ」と
の噂もとりどり。」
「町奉行天満組の与力、大塩平八郎・格之助親子が徒党をくんで近在の
百姓たちを集め、その勢二百三十余人、豪商、鴻ノ池の土蔵に石火矢を
打ちこみ、米や銭を掠奪して貧民に施すってえわけで、乱暴なことァ話に
ならねえ。」

「食乱」を自認する食いしん坊で、旅先での食べ物の記述が楽しめる。
「(富山への途中)
蕎麦は名物だからうまいけれど、汁のだしが鰹節じゃなくって
その辺の川でとれる雑魚のだしだから、これが頬っぺたや
上顎をつっついて痛くって、邪魔になってくえたしろもんじゃ
ありませんや」(p192)
 
「(高田にて)この時のお菜に、烏賊の丸煮を二つ皿に入れたのが
出ましてす。烏賊の丸煮たァめずらしいってんで食ってみると、
嚙むたんびに腸墨(わたずみ)がとびだして、口のまありが真っ黒になるけれど、
味はめっぽううめえ。値段をきけば一皿十二銭。」(p193)
 
「(糸魚川で)居酒屋みたいな家の軒に、有名な大蛸の足が
吊ってありますから(-)、飯を食おうとさそって中へ入った。
鯛の刺身と潮煮をあつらえると、やがて膳がくる。(-)大椀へ
鯛のあらを山盛りにして葉山椒をのせ、石皿へ鯛の身を
切り散らして(-)盛りあげ、酢醤油を猪口にいれて摺生姜を
つけて出す。魚はみんな新しく、すこぶるつきのうまさなんでさ。」(p194)
 
「柏原まで来ると、向こうのほうにポッと煙の上がっている家が
ある。「ありゃ、なんだえ?」「あれは焼芋屋で--」」
「名物ときいちゃ逃すこっちゃねえ、(-)やがて馬子が
買ってきたのをみると、長さ八寸ばかりのやつが縦に
二つ割りになっていて、幅が二寸五分もあろうてえ大芋が、
ポッポと煙を出している。値段がこれで十二文。食べて
みると、その甘いことは江戸で売ってる川越芋いじょうで、
それがいまもって忘れられねえくらいで。」(p141)

 盛りだくさんな内容を語り口で面白おかしく読ませる。