いとうな日々

MLB、プロ野球他野球全般、ニュースなどについて、勝手にコメントさせて頂いてます!

友人にもつなら、こういう男を持ちたい

2010-01-24 | WEBLOG

今考えてみると、なぜあの時「播磨灘物語」を手にとったのか? 不思議な気がする。確かに、いろいろと結論を迫られたことがあった。そんな事態を見るに見かねた神から与えられたのだと考えることが妥当である。

いまよりはなるにまかせて行末の春をかぞへよ人の心に

連歌師の昌啄が官兵衛(如水)の通夜の席で読んだ歌だと司馬遼太郎は「播磨灘物語」の最後を結んでいる。官兵衛という人間には、欲というものはほとんどなく、ただ自分の嗜好する芸をこの世でやってみたかっただけな存在であったという。

作中では竹中半兵衛が同じタイプの人間として出会うことになった、人の縁の奇怪さも語られていた。この出会いがなかったら、黒田五十二万石はなかったのであるから。


自分を水の如しと称した黒田官兵衛は、人生、人のかかわり、この世のことは全て水に描いた絵のようなものだと思っていたのではないかと思われる。司馬はあとがきの中で言う『官兵衛はなるほど生涯、時代の点景にすぎなかったが、しかしその意味でえもいえぬおかしみを感じさせる点、街角で別れたあとも余韻ののこる感じの存在である。友人にもつなら、こういう男を持ちたい』と。 
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隔世の感

2010-01-19 | プロ野球
巨人、阪神で投手として活躍した小林茂氏が17日急逝した。奇しくも阪神淡路大震災の15年目の日であった。小林氏はサイドハンドのピッチャーとしてその投球スタイルは、多くのその種のピッチャーが技巧的投球を行う中、闘志を体全体で表現する熱血派であった。

小林氏といえば江川氏との運命的な係わりを思い出さずにはいられない。「巨人・大鵬・玉子焼き」といわれた巨人人気の陰りとなった事件である。「空白の一日」で巨人と契約した江川氏の身代わり?として小林氏が阪神に電撃トレードとなった事件である。

その後小林氏はその投球スタイルそのままに闘志むき出しのピッチングで、巨人戦では連勝を重ねた。その端正な顔立ちからは想像もできないファイトであった。

しかし、この世の中は無常なものである。日本ハムの一軍のピッチングコーチとしてこれからますますの能力が発揮されようとするとき他界してしまった。江川氏や長嶋巨人名誉監督のコメントを見てみると、人の係わりの数奇さを感じざるを得ない。これでまた、ひとつの時代に終止符が打たれることとなった。
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▼巨人長嶋終身名誉監督 

突然の訃報に大きなショックを受けています。1976、77年のリーグ優勝に大きく貢献してくれたことを鮮明に覚えています。細身の体からは想像もつかないくらいスタミナがあり、ベンチにとって本当に頼りがいのある投手でした。正直に言うと、阪神へトレードになったことは残念な思いでいっぱいです。現場の監督として悪いことをしてしまったという気持ちがいまだに残っています。若すぎる、早すぎる最期です。

江川氏「僕の中ではまだ終わっていない

沈痛な面持ち。目には涙をためていた。午後10時。日本テレビ内で会見した元巨人の江川卓氏(54)は時折、声を詰まらせて言った。

 「突然の死でびっくりしました。今年から日本ハムで1軍のコーチになられるということで、また球場に行ったら、お会いするんだろうなとは思っていたんですけど……。大変残念です」

 プロ野球界を揺るがした江川事件。当事者として小林氏を巻き込んだ責任は忘れたことはない。電撃トレードから1年後の80年1月だった。東京・飯倉のステーキ店で偶然顔を合わせ、あいさつしようとしたが手で制された。そして同年8月16日の初対決。雨の後楽園で完投勝利を収めた。

 「一生の中で負けるわけにはいかない試合は2つ、3つある。そういう試合で勝つことができて小林さんに恩返しできたと思う」。直接対決は7勝2敗。一方で通算成績は自身の135勝に対し、小林氏は139勝。「入団の時から小林さんの成績を抜かないといけないという思いでやってきましたが、抜けなかった」と振り返った。

 現役時代2人だけで言葉を交わすことはなかったが、07年9月に酒造メーカー「黄桜」のCMで共演。トレードから28年後の和解だった。「その時におわびしました。“お互い大変だったな”という言葉をもらい、凄くホッとした」。結局、それ以来再会を果たせず、小林氏は逝った。

 江川氏は唇をかみしめながら言った。「僕の中では(江川事件は)まだ終わっていない。原因はこちらにある。小林さんが亡くなったからといって、申し訳ないという気持ちは一生なくならない」。小林氏のために何ができるか。自問自答した。「小林さんが残したプロ野球の実績、気持ちが凄く強い方だったので、そういうものは伝えていけたらと思います」

 夜には自身がキャスターを務める日本テレビ「SUPERうるぐす」で天国の小林氏へメッセージを送った。「もう1回投げ合ってみたいですね。全力で」。54歳。江川氏は小林氏の生きざまも背負い、生きていく。

 ≪07年9月CMで再会≫2人が再会した酒造メーカー「黄桜」のCM撮影は、07年9月に都内で行われた。台本は一切なし。4台のカメラの前で、それぞれの思いを語り合った。「お互いきっかけを探していた。憎しみはもうないよ」と小林氏。撮影は66分間におよび「これからは会ったらオレから声を掛けるよ」とも話した。一方、江川氏は再会の際に「長い間、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪。テレビ番組内で撮影を振り返った時には「大変緊張した。会えてよかった…」と涙した。

スポニチ

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伯母の五十日祭で

2010-01-17 | WEBLOG
昨日と今日はこの季節には珍しく穏やかな日和となった。筑肥線・波多江駅で下車し、昔のように泊まで歩いてゆくことにした。伯母の五十日祭に出席するためである。昔は何もないところであったが最近「糸島ハム」でその地名を知る人も増えたとは聞いている。

歩き始めてしばらくすると、眼前の田園風景とともに視界が開けた。左手前方には「筑紫富士」や「糸島富士」とも呼ばれる可也山の美しい姿が見える。目指す泊は正面の小高い森が見えるあたりである。

事前に予定したとおりの時刻に到着である。昔、祖母に連れられて何度も今日のルートで母の実家を訪ねたときの記憶が生きていたということなのであろう。宗旨が「神道」なので今日の五十日祭で忌明け、納骨ということになるのである。

会場に入ると懐かしい顔が並んでいる。みんな年をとってはいるが、以前の面影はそのままである。儀式が終わると、昔の話でもちきりとなった。改めて親戚とはよきものであると思う。生んでくれた母に心の底から感謝したい気持ちで一杯であった。
幽世の大神 憐み給ひ 恵み給へ 幸魂 奇魂 守り給へ 幸へ給へ
(かくりよのおほかみ あはれみたまひ めぐみたまへ
さきみたま くしみたま まもりたまへ さきはへたまへ)

幽世の大神 憐み給ひ 恵み給へ 幸魂 奇魂 守り給へ 幸へ給へ

幽世の大神 憐み給ひ 恵み給へ 幸魂 奇魂 守り給へ 幸へ給へ

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似たもの同士が運命の出会い

2010-01-14 | WEBLOG

前、播磨灘物語(二)は黒田官兵衛が織田信長に傾倒してゆくさまが描かれている。信長に拝謁した官兵衛は、「播州のことは秀吉に相談せよ」と言われ秀吉に会う。秀吉は官兵衛の才を認め、官兵衛も「この男のために何かせねばなるまい」と感じた。ふたりの濃密な関係が始まった。

ここで、黒田官兵衛は秀吉の軍師である竹中半兵衛と出会うこととなるのである。このことを司馬遼太郎は趣のある筆遣いで物語っている。

竹中半兵衛は、播州姫路において、官兵衛とはじめて会った。
(なるほど、似た者だ)
と、半兵衛が何より感じ入ったのは、官兵衛が自分の姫路城を清めて城下の武家屋敷ぐるみ、秀吉に提供してしまったことである。
――利のために武道をおこなうのではない。
ということは半兵衛の信条のようなもので、自分の利を中心に思考をめぐらせばかならず眼識が曇る、武道の面白味はおのれの利や立場を抜いて物事を考えるところにある、と思っているだけに、官兵衛のやり方がいかにもそれに相応していると思った。

(似たような者が、やはり居たのか)
という感動は、半兵衛において大きい。人は自分の欲得を追及するのあまり、頭をひねって手練手管を考えるものなのだが、この手練手管だけを独立させてそれをのみ考えるなど、いわば奇人の世界の精神作業といえるだけに、半兵衛は自分の存在に不安を抱き、孤独の思いも多少あった。ここで、同行の者を見出したということは、美酒が臓腑にしみわたるようなよろこびにひとしい。というより、おなじ道において倶に酔える相手を見出したということであり、さらに平たくいえば、はじめて友人をもつことができたということでもあったろう。

官兵衛のほうも、内心おどろいている。
かれは武道において利己心を除くということでは、半兵衛ほどに徹底して自覚した精神をもっていたわけではない。たとえば姫路城をさっさと空けて秀吉に呉れてやったという放れわざも、官兵衛のもつより大きな構想のためのものにすぎず、その点では半兵衛より俗っ気が多少多いといえるであろう。
もし設問できるとすれば、竹中半兵衛に対し、天下がほしいか、と問いかければ、かれは即座に欲しくないと答えるにちがいない。官兵衛はこの点、違っているであろう。かれはしばらく考えて、なによりも自然にまかせる、自分に稀有な運があり、それが自然にめぐってくるとすれば天下人になってもかまわない、と答えるにちがいなかった。両者の相違は、その程度といっていい。

さらに官兵衛のために言葉を費やせば、天下構想にいたるまでの大小の芸を自分は生涯をかけてしてみたいだけであり、それが自分の目的である。そのあげくのはてに天下が自分の足もとにころがりこんでくれば拾ってもよく、無論ころがりこんで来なくてももともとであり、自分の人生はそれなりに充足している、元来、天下の主になれるというのは天の意志としか言いようのない無数の条件の積みかさなりがなければならないが、その天の意志までは自分は足掻いてもとめようとしない、というところであるであろう。

ともあれ、それとは別に、羽柴秀吉はおそろしいばかりに幸運な男といわねばならなかった。この播州平定を目的とする信長の部将は、それまでの歴史のなかで幾人もいない天才的戦術家を、同時に二人もその帷幕において所有したのである。

豊臣秀吉の天下統一。名軍師と言われた、竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高を抜きにして語ることは出来ない。この二人は、互いの才を認め合い、相手を信頼し合って、秀吉の天下取りを補佐したのである。二人の出発点がこの本で描かれている。秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられた播州でのこの出来事からなのである。
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ちあきなおみの歌で酔う

2010-01-05 | WEBLOG


毎年、年末は恒例の歌番組がテレビを席巻する。「日本レコード大賞」「NHK紅白歌合戦」等々である。そんな中、NHK・BS2で2009年12月31日にちあきなおみの「歌伝説 ちあきなおみの世界」の再々?放送が放映された。

ちあきなおみが放送に出演しなくなって久しい。そんな彼女の貴重な映像が特集で放送されたのは05年11月6日であったらしいが、そのときは見逃してしまったので今回じっくり見ることにした。やはり歌の上手さは美空ひばりに匹敵する歌手であることを改めて確認できた。

彼女の歌で一番衝撃を受けたのは「霧笛」である。ポルトガルに生まれた民族歌謡である。ファドとは運命、または宿命を意味し、このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表すのは珍しいとされる。「霧笛」はまさにその歌なのである。ちあきなおみはこの歌においても自分の世界をみごとに演じ切っている。

演歌では船村徹が作曲家として主張したいことを見事に表現する。「さだめ川」、「酒場川」、「矢切の渡し」、個人的には「紅とんぼ」「歳月河」「昭和エレジー」「都の雨に」が好きである。ニューミュージックのアーティストに楽曲提供を受けたものでは、中島みゆきの「ルージュ」、友川かずきの「夜へ急ぐ人」、飛鳥涼の「伝わりますか」などがあり、どの曲も見事に演じきっている。それにしても「霧笛」は圧巻である。

ちあきなおみ/Naomi Chiaki - 霧笛


ちあきなおみ 非公認・私設ファンサイト ちあきの部屋

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御慶(ぎょけい)

2009-12-23 | WEBLOG

今年の年末ジャンボ宝くじの販売も昨日で終了した。後は晦日の抽選を待つばかりである。枝雀師匠のマクラではないが、「宝くじには買わないとあたらない・・・という法則」があるらしいのである。宝くじ売り場の行列を見れば、不況はどこ吹く風、一攫千金を夢見る人達で、順調な売り上げであったに違いない。

庶民の気持ちは昔も今もそう代わりのないものである。落語・「御慶」。『年の瀬も越しにくい貧乏所帯なのに、八五郎は今度こそ夢見がいいからと、女房の半纏《はんてん》を質入れして湯島天神へ出向き、夢で鶴が梯子の上に止まったというので、鶴とその寿命の千を入れた「鶴の千八百四十五番」の富くじを求めるが、あいにく売れてしまっていた。大道易者に呼び止められ、その夢判断は違う、梯子は登るための道具だから、逆に「鶴の千五百四十八番」にしろと教えられ、神社にとって返し、さいわいに売れ残っていたその札を買う。間もなくはじまった突き富で、八五郎は千両に当たる。』

ところでこの落語の落ちは、新年の挨拶として「御慶」と言いながら歩いていると、「どこへ(行ってたのか)」と聞き違えられるというもの。落語にはこの「御慶」以外にも、「富久」「宿屋の富」、「水屋の富」など、色々あります。「クジ」に対する考え方は、昔も今もあまり変わらないようです。

ともあれ、買わなかったのであるから当たることはないのである。買った人の誰かが当たるのである。宝くじが当たろうが、当たるまいが、新年はめでたいものなのである。そして、その新年まで一週間あまり、新しい仕事に全精力を傾け、来年3月頃迄にはある程度の確信が持てるようにしたいものである。

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結跏趺坐

2009-12-19 | WEBLOG

今年も残り僅かとなりました。時間の経過が年をとるにしたがって早くなっているように感じます。今年を振り返ってというには、まだちょっと・・・新しい事業に向けてじっくり結跏趺坐して構想してみたいと思っています。

司馬遼太郎は「播磨灘物語」で主人公・官兵衛を次のように表述しています。『かれは、二十歳のころにすでに後の官兵衛のかたちができていたが、それよりもおかしいのは、年を経るに従って若気のようなものが出てきて、晩年になると、青年のように颯爽としはじめ、しかも最後まで自分の成功に甘んじたことがなく、天下人を志す夢をすてなかった』と。

戦国末期の点景であった官兵衛の生き方は、以前より、私の目標でありました。細川藤孝の「今後、どこを頼ればよろしかろう」との問いかけに、官兵衛は「織田どのがよろしかろう」と即座に答える。勿論、直感的であったにせよ、自分の足で集めた情報に裏づけされてのことであったのである。

「門地門閥、生国によらず人材を登用する」「旧習にとらわれない兵法を用いる」等で「織田どのがよろしかろう」と答えたのである。構想に当たって、主観的要求に固執するあまり、客観的情勢への判断を誤ってはならないということである。全ては、人(駒)組みにかかっているという事なのであろう。
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平成8年以来だって・・・

2009-12-14 | WEBLOG
中学時代の同級生が久しぶりに集まりました。前回は平成8年であったというから、本当に久しぶりです。(平成8年9月28日:勝っ手同窓会

今回は、還暦を契機にあちこちで同窓会が開催されているのに、ポケモンクラブはその兆候さえない!ということで、近々同窓会をやろうではないかと有志が参集したのである。

集まってみれば4名(実際はドタキャンが一人)でしかなかったのはちょっと寂しかったかな。福岡・天神の「雑魚屋」に藤井さんの呼びかけで、小出(旧姓・川崎)さん、有吉(旧姓・島田)さんそれに不肖・伊藤が集まったという次第。

集まれば、そこは同窓生、話題に事欠くことはありません。欠席裁判?か、参加していない人のことを肴に延々2時間半、時のたつのも忘れて楽しいひと時を過ごしました。

ブログをあげるにあたって、自分のホームページを再確認してみたら、なんと平成16年9月8日のところに"NEW"のマーク! でも昔は一生懸命HP作りに励んでいたのに、今は頭が剥げただけとは情けなや!⇒(会員便り) 友泉中学・ポケモンクラブの紳士・淑女の皆さん昔の自分に出会えますぞ!
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昔の高校球児、今は?

2009-12-09 | アマチュア野球
1941年12月8日未明、休日の日曜日を狙って、日本海軍はハワイオアフ島真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊基地に対し奇襲攻撃を敢行した。この攻撃によって、日本は第二次世界大戦という暗黒の狭間に足を踏み入れる結果となったのである。

その12月8日に、福岡工業高校OBの西村、竹島、博多工業高校OBの高木、安芸、修猷館高校OBの田中、野口、伊藤の7名が西中洲の「上海餐室」に集合した。

昭和22年、23年生まれの所謂団塊の世代である。作家の堺屋太一氏が1976年に発表した小説「団塊の世代」で、この世代が日本社会に及ぼす大きな影響を指摘したのである。
第二次世界大戦の終結に伴って復員した旧日本兵、軍属が各々婚姻をなし、人口が爆発的に増大することとなったのである。1947年から1949年に生まれた人口が突出する結果となった。

この世代が2007年から2009年にかけて一斉に定年退職を迎えたのであり、我々はまさにその世代なのである。福岡市内の高校で白球と戯れた面々が思い出話に花を咲かせ、打解け合うには時間は必要なかった。各人の思い出は断片的ではあっても、会が終わる頃には一つの物語が出来上がっているのである。次回、参加者を増やそうということで散会となった。

子日(いわ)く、吾(われ)十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず。
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君たちがいて僕がいた

2009-12-06 | WEBLOG

明治・大正の頃、大変素人義太夫が盛んだったようである。落語・寝床では枝雀志ん朝もマクラではカラオケである。よくカラオケで歌われる、我々、団塊の世代の青春の一曲は「高校三年生」である。作詞・丘灯至夫、作曲・遠藤実、歌・舟木一夫である。

詞を作った丘氏、作曲の遠藤氏と相次いでこの世を去った。このコンビによる爽やかな青春歌謡は永久に歌い継がれるであろう。最近の流行歌は、歌詞に横文字が訳もなく入っていたり、言葉自体の趣もない。

CD・ドーナツ盤メモリー〜舟木一夫 / 舟木一夫 に収められている曲は、1.高校三年生、2.水色のひと、3.修学旅行、4.淋しい町、5.学園広場、6.只今授業中、7.仲間たち、8.はるかなる山、9.君たちがいて僕がいた、10.青春はぼくらのもの、11.花咲く乙女たち、12.若き旅情、13.北国の街、14.はやぶさの歌、である。

舟木一夫のCDを買うようになったのは、同居していた従兄弟がファンだったからである。それから現在まで、各曲にはいろいろな人との思い出がある。特に、【清らかな青春 爽やかな青春 大きな夢があり かぎりないよろこびがあった はかない希みがあり つらい別れもあった そんな時はいつも… 母にも似た 優しい 目差しの 君たちがいて そして 僕がいた】で始まる『君たちがいて僕がいた』を忘れられない。
清らかな青春 爽やかな青春
大きな夢があり
かぎりないよろこびがあった
はかない希みがあり
つらい別れもあった
そんな時はいつも…
母にも似た 優しい 目差しの
君たちがいて そして 僕がいた

心の悩みを うちあけ合って
眺めたはるかな 山や海
言葉はつきても 去りかねた
そんなときには いつの日も
ああ 君たちがいて 僕がいた

涙をこぶしで ぬぐっていたら
遠くでこっそり 見つめてた
あの娘の瞳も ぬれていた
そんな日昏れも あったけど
ああ 君たちがいて 僕がいた

さよならする日は 肩くみあって
しあわせ信じて うたおうよ
大人になるのは こわいけど
そんなときにも 離れずに
ああ 君たちがいて 僕がいた

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