富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

フィリポ、エチオピアの高官に福音を伝える

2015-06-21 15:22:39 | 説教

     ↑  フィリポの宣教 (聖書大百科 p.297 より)

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

    日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

聖霊降臨節第5主日 2015年6月21日(日)  5時~5時50分 

     礼   拝  

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  402(いともとうとき )

交読詩編    67( 神がわたしたちを憐れみ、祝福し)   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  使徒言行録8章26~38節(共同訳[新]p.228)     

説 教   「エチオピアの高官の洗礼」辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  405( すべての人に)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

           次週礼拝 6月28日(日)午後5時~5時50分

          聖 書  使徒行伝11章4~18節

          説 教  「異邦人にも聖霊が降る」  

          讃美歌(21) 6 405 24

  本日の説教

  本日の聖書の個所は、キリストの使徒たちの補助者として選ばれたフィリポが、エチオピア人に福音を伝える話しです。フィリポの名が出てくる使徒言行録6章から、かいつまんでお話しいたします。

 6章には、霊と知恵に満ちた評判の良い人たち七人が、使徒たちの補助者として選ばれたことが記されています。その中に、信仰と聖霊に満ちている人ステファノフィリポがいます。

 ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました。外国生まれのユダヤ教徒がステファノのと議論しましたが、歯が立ちませんでした。そこで、人々を唆し、また民衆、長老たち、律法学者を扇動して、ステファノを捕らえさせ、最高法院に引いて行きました。そして偽証人を立てて、訴えました。大祭司が「訴えのとおりか」と尋ねたので、ステファノは長い答弁をしました。7章2節から53節までが、ステファが語った説教です。

 人々はこれを聞いて激しく怒り一斉に襲いかかり、石を投げつけました。ステファノは教会の最初の殉教者となりました。ステファノの殉教の場に、サウロがいました。サウロは、回心した後は、ローマ名のパウロで呼ばれ、キリストの大使徒となった人です。

 8章には、その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、12使徒たちの他は皆、ユダヤとサマリア地方に散っていったことが記されています。フィリポサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えました。汚れた霊に取りつかれた多くの人たちや、多くの中風患者や足の不自由な人もフィリポに癒してもらいました。

 この町に以前からシモンという魔術を使う人がいましたが、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせたのを人々は信じて洗礼を受け、シモン自身も信じて洗礼を受けました。

 12人の使徒の中で、中心的な人物のペトロヨハネはサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにその人々のために祈りました。シモンは、使徒たちが手を置くことで、霊が与えられるのを見て、金を持って来て、わたしにもその力を授けてくださいと言いました。ペトロは、「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手にいれられると思っているからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ」と言いました。シモンは、悔いて、主に祈ってください、とペトロに懇願しました。ペトロとヨハネはサマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行きました。

 ここまでが、今日の聖書の個所の前に書かれている記事です。

 神の御使いはフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と命じました。<ガザ>はエルサレムの南西にある地中海に面した町です。(現代のパレスチナ人の自治区のガザです。)エルサレムからガザに向かう道はさびしい、荒れ果てた道でした。どうしてそんなところに行けと天使は命じたのでしょうか。それは、たった一人の人を救うためです。旅の途中のエチオピアの宦官を救うために、フィリポはそこへと遣わされたのです。この宦官はエチオピアから遠いエルサレムまで神の恵みを求めて礼拝に来て、礼拝を終えて帰る途中でした。彼はエチオピアの女王カンダケの宦官で、女王の全財産の管理をしている高官でした。 

 <エチオピア>は現代のエチオピアのことではなく、エジプトのナイル川上流の流域、現代のスーダンにあった、メロエを首都とするヌビア王国のことです。ヌビア人は一時期クシュ王国を建国し、古代エジプトを支配し、エジプト第25王朝、別名ヌビア王朝を起した人達です。古代ギリシア人やローマ人は黒人のヌビア人を「日に焼けた顔を持つ人」という意味で「エチオピア人」と呼びました。

 (ちなみに、現代のエチオピアは、スーダンの南にあります。ヴェルディのオペラ<アイーダ>は、ヌビアの王女の名前で、エジプトの将軍との恋愛を題材にした歌劇です。)

 <カンダケ>は、ヌビア王国の王妃や皇太后の称号です。<宦官>は女王に仕える役人です。女王に仕えるために男性の機能を切除した人で、王宮の大切な働きを委ねられた高官です。旧約聖書の申命記には、宦官や去勢された者はイスラエルの会衆に加わることはできないとされています(申命記23・2、旧p.316)。しかし、後の時代に現れたイザヤは、宦官は最初の救われる異邦人として預言しているのです。次のように預言しています。

 「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ書56章3~5節、旧p.1153)

 このエチオピアの宦官は、ユダヤ教に強く心をひかれた神を敬う人でした。それで、はるばる千数百キロ以上もあるエルサレム神殿まで巡礼の旅に出たのでしたが、しかし、救いの確信が得られないまま帰途についたようです。

 宦官は、恐らく高価な代価を払ってイザヤ書の写本を買い求めたのか、馬車に乗ってその預言者イザヤの書を朗読していました。神はこの宦官をお見捨てにはなさいませんでした。その熱心な求めに応えられるのです。聖霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねました。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みました。宦官は次のような聖書の言葉を朗読していました。

  

 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。

 これは、宦官の救いが書かれている預言56章より前のイザヤ書53章7,8節の言葉です。主の僕の苦難と死が書かれている書です。宦官はフィリポに、「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と言いました。イザヤ書の書かれている苦難を受け、殺される<>とは、だれのことを言っているのかという質問でした。イザヤ書53章には、<彼>という言葉が何度も出てきます。「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53・6)このようにして「彼」という言葉が何度も出てきます。この「彼」とは一体誰なのか。宦官の最大の疑問はそこにありました。

 そこで、フィリポは聖書のこの個所から説きおこして、<>とは、十字架に架かって殺されたイエスことであり、イエスは神から遣わされて世の来られた神の子であり、神によって復活させられ、天に上り、神の右に座し、天地を支配する方となられたイエス・キリストである。このキリストによって、信じる者は一切の罪を赦され、神の子とされ、救われるという福音を、フィリポは告げ知らせました。イエス誕生の約五百年も前に、イザヤは、苦難のしもべとしてのキリストを預言していたことを告げたのです。

  フィリポの説教を聴いて、宦官は、「彼」が私のために十字架に架かり、「彼」が受けた懲らしめによって、私の罪が赦され、救われることが分かったのです。それは聖霊による恵みによって起こった出来事でした。だれも聖霊によらなければイエスを主と告白することは出来ないからです(コリント一12・3新p.315)。

 宦官はイエス・キリストを信じる思いが与えられ、洗礼へと導かれました。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来ました。宦官は、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言いました。37節が欠けています。†(短剣符)は別の写本にあることを示しています。使徒言行録の最後のページ(p.272)に、37節の言葉があります。【フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。】とあります。

 宦官は車を止めさせました。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。

 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去りました。宦官はもはやフィリポの姿を見ることは出来なかったが、喜びにあふれて旅を続けました。フィリポはアゾトに姿を現し、町々を巡りながら福音を宣べ伝え、カイサリアまで行きました。

 このエチオピア人の入信では、まず<主の天使>が、フィリポに、ガザに行けと命じたところから始まっています。そして、<霊>がフィリポに追いかけて、あの馬車と一緒に行け、と命じています。フィリポが宦官に洗礼を授け、水の中から上がると、<主の霊>がフィリポを連れ去りました。神が主体になっています。これは、この異邦人の救いが人間の業によるのではなく、神の業、神の計画だったことが示されています。神は救いを求める者を、お見捨てになりません。必ず救ってくださる方なのです。

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