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支倉常長の実父の終息地

2018-02-01 21:31:04 | キリスト教

      ↑ 支倉常長の実父の終息地と思われる宮城県富谷市富谷の奈良木城跡 

        

   ↑地図記号:高等学校は富谷市立富谷中学校  赤印のところが奈良木城跡

        宮城県富谷市富谷の奈良木の地図  

 「支倉家譜」によると、その遠祖は、天喜四年(1056)に伊勢国司に任じられた伊藤孫右衛門尉景常です。その曾孫・伊藤常久は、平清盛に仕えて従六位下壱岐(いきの)守(かみ)に任じられた。その後、常久はその地位を失い、文治元年(1185)、伊達氏の元祖である常陸国奉行朝宗(ともむね)(伊達郡に住む)に仕え、筑波郡中村に住むようになった。

   文治五年(1189)、源頼朝が平泉の藤原泰衡兄弟を攻めにやって来たとき、常久は源氏方に廻って先陣を切り藤原方を討った。その戦功により頼朝から、信夫(しのぶ)郡山口村、伊達郡梁川村、そして柴田郡支倉村の計五百余丁の土地を賜り、支倉と称した。

  その後、この土地へ伊達氏が進出して支配した。十六世紀中ごろの支倉家の十四代の常正は上盾城を築城し、千二百石の土地を保っていた。この支倉常正の子が時正で、その養子が支倉常長である。

   支倉常長は、時正の弟、山口飛騨守常(つね)成(なり)の次男として、元亀二年(1571)に信夫郡山口村で生まれた。山口の姓は、常成が信夫郡山口村に住んでいたために与えられたことによる。常成の兄、支倉時正に子供がなかなか生まれなかったので、常長は七歳のときにその養子になった。

  慶長元年(1596)に、時正に実子ができたことで、政宗の采配により、当時26歳の常長は分家し、千二百石を二分し、六百石を与えられ、柴田郡支倉村(現宮城県川崎町)に住んだ。この頃、結婚し一男一女をもうけた。その長男が勘三郎で、慶長三年頃に生まれている。常長が二十八歳頃のことである。この勘三郎は、寛永十七年(1640)四十一歳頃、キリシタンとして死んでいる。

  支倉家の系図のうち、常長の実父である山口常成のくだりに次のような記述がある。

 天正十九年(1591)春、政宗が葛西、大崎一揆を征伐の後、御領地替の時、山口常成に黒川郡に五十余町の知行地を与えている。常成は同郡大森邑(村)に住んだが、後に同郡富谷村下の原に移住している。常成は慶長五年八月十二日に没した、享年六十一歳であった。

 新訂富谷町誌によれば、常成の「領地の一部が富谷原区の奈良木付近にあったことがわかる」と記している(p.817)。しかるに今日まで、奈良木付近のどの場所が常成の領地であるか解明されていない。

 宮城県富谷市富谷奈良木には、城主不明の陸奥・奈良木城跡がある。60m×40mの丘城である。城山の南麓にある案内の標柱には次のように書かれている。

「この館跡は、仙台藩から江戸幕府へ書き上げた「仙台領古城書上」等の文献や伝承によれば、東西六間、南北十間の規模で、城主は不明。中世の館跡とみられ、江戸後期の絵師、吉川十兵衛が文政六年(1823)に描いた大童(おおわら)村や富谷村の絵図にも「サクラタテ」として描かれいる。山頂部には本丸跡がみられる比較的狭い平場があり、北方の鶴巣城へ通じる道が山中にあったとされる。」

 筆者は、この館跡が、支倉常長の実父、山口飛騨守常成(支倉飛騨)の居住地、終の棲家であったと思われる。昭和六十年に発見された年代不明の伊達政宗の常成に対する不届きの義」の書状がある。一説には「慶長四年(1599)、罪を犯し、閉門となる。慶長五年死罪となり自刃」とある。しかし、政宗書状の自筆と花押が慶長十五年(1610)のものと近似しているとも言われている。書状によると、資産に関する数々の詐欺と思われる常成の不届に対して、政宗は腹を切らせることを命じている。飛騨の子に当たる者は決所(知行地没収)の罪とし、女子については追放だけにとどめることとある。その実子常長も親子の関係から追放されるところであったが、罰則の意味で遣欧使節にしたとも言われている。

 【現代語訳】「支倉飛騨については去年以来拘禁・謹慎の身に処置しておいたところを最近不届きな行いが明らかになったため、ただ今切腹の指示を出した。これを執り行う奉行に四竃新介、中村備前の二人を充て、また、早々に油断なく実行するように命じる。飛騨の子である六右衛門も親子の間柄にあるため、命は助けるが追放の処分を申し付ける。 子細な点は石見に直接伝えることにする。飛騨の子に当たる者は決所(知行地没収)の罪とし、女子については追放だけにとどめること。」 

  このような飛騨守常成の切腹事件と領地没収等から、奈良木城跡は城主不明、歴史詳細不明として扱われ、今日に至ったと思われる。人は財産目当てで罪を犯すものである。常成は、その罰を受けて自刃した。しかし、常長のような立派な侍を生んだ父である。その父の罪を赦し、常長の実父として尊ぶべきではなからうか。富谷市も、常成の敷地を確かめ、大切な遺跡として世に知らすべきではなかろうか。」

 富谷町誌によれば、昭和三十八年(1963)六月、東京の聖三木修道院長チークリス神父によって、ローマ博物館からの新発見史料が届けられた。これによって黒川地方にかなり多数のキリシタンが元和(1615~24)のころ存在していたことが証明された。「元和三年(1617)十月十八日、富谷の一関村・三関村・石積村三村に教会があり、キリシタン数三百五十余名」がいたことがバチカンに報告されている。各村の信徒名もしるされている。

一関村=大谷石菴・佐久間二郎兵衛・津田清右衛門・大谷六右衛門・斎木新平衛

三関村=鈴木離菴、藤田長斎、四保助兵衛、熊谷喜右衛門・鈴木加賀

石積村=椎名主計、鈴美濃、安藤与助、相澤内蔵助、伊藤縫助

 なお、伊達家の史料の中で石積村のキリシタンで霊名をしいなという女性に関するくだりがあります。この女性は支倉六右衛門(おそらく常長)の家に奉公し、常長の娘の乳母となっている記述がある。

 このような富谷市のキリシタンについて知らない市民は多い。常長の実父常成の居城の確認と共に、過去の尊い歴史的遺産を広く知らしめて欲しいものである。

              2018年2月2日 富谷教会牧師 辺見宗邦

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