無門塾

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細川ガラシャ…№2

2012年04月27日 | Weblog
 小生の常で、下手の長話の典型でついつい長くなる。 そこで、数回に分け記すことにした。

 本能寺の変の節、明智光秀からすれば当然のことであろうが、娘の嫁ぎ先でる細川家に援助を要請するのである。 ところが、細川家では光秀の統治能力を見越しての故か、それには従わなかった。 この論について今回は深入りしない。

 さて、美土野隠棲の時、玉はは20歳であった。 我が身に置き換えれば思い及ばず、果して平穏に過ごせたのであろうか。
 不憫な彼女を支えたのは、結婚時から仕えた小侍従や 「清原マリア」(公家清原枝賢の娘) の存在が大きかった様である。 マリアは洗礼名であろうし、彼女を通じこの頃からキリストの教えについての感化を受けていたのかも知れない。

 苦難の時2年も過ぎ、信長の後継の地位を獲得した 「豊臣秀吉」 の取り成しを得て、大阪の玉造屋敷に居を移した。 ところが、好色の秀吉の事を思ってのことか、はたまた美人のガラシャを愛する故か、忠興は厳しく彼女の行動を制限し一種の幽閉状態の生活を強いた。
 
 一方忠興には側室が仕えていることを知り、彼女の心は一層キリストの教えに傾倒する様になってくる。 この時、先のマリアやクリスチャン大名である 「高山右近」 の存在が大きかった様である。

 時は1586年、秀吉の島津成敗 即ち 「九州の役」 に随行した忠興の留守に、身を隠して教会へ足を運んだ。 彼女はゴメス神父(日本人)に教義の真意を真摯に訊ねたといわれる。 神父の論に、「これほど明晰で的確な判断が出来る日本人と話したことがなかった…」 と言わしめたほどであったと伝わる。

 その節、玉は即座に洗礼を望んだものの、教会側は彼女の身分が分からず特に高潔な身なりや教養からして、洗礼は見合されたと言われる。 また、細川家では外出した玉の帰りが遅いことから、駕籠で迎えに行き連れ帰った…と。 これを尾行した協会は、彼女が細川家の奥方である事を知るのである。

 再度外出の見込みのない玉は、侍女等を通じて教会とやり取りをし、聖書類を拝読して信仰を確かなものにしていったと言う。
 また、秀吉のバテレン追放令を知った玉は、宣教師が大阪を離れる前に洗礼を希求した。 そこで、イエズス会士グレゴリオ神父の計らいで、清原マリアを通じて自邸に於いて密かに洗礼を受け 「ガラシャ」 の名を授けられたのである。
 「ガラシャ」 とは、ラテン語で 「恩寵」 即ち 「神の恵み」 の意と言う。      合掌