無門塾

旅や山、人生を語り合いましょう。

「年内休筆」について

2009年12月27日 | Weblog
 「もう幾つ寝ると…」と歌の文句にもある如くに、愈々暮が迫って来た。マア、それはどうでも良いんだが、所属団体の事務所も来週から明けの3日迄は閉庁となるので行く必要もなく、当然その期間は我々の活動自体も休止となる。

 人間暇になると、良からぬ事を考え出すもので、当然の如く我が心に彷徨癖が湧き上がってくる。
 と言う訳で、明けの2日には生業時代の集まりがあるとかで出席したく、その間に於いて最短でも年内一杯は何処かへ彷徨の予定である。

 何処へ赴くか? これまた風まかせである。この始末記については、何れ書き留める積りではあるが、来年の事を言うと「鬼が笑う…」ともあり、また何時まで永らえる我が命かさえも判然としない次第とあって、幸運にも年を明かす事が出来たら…と言う程度に止めおく事とする。

風に吹かれて…鶴崎・肥後街道

2009年12月26日 | Weblog
 家の中で然も畳の上に休んだのは、何日振りであろう…? 御蔭で、すっかり疲れも取れ気分爽快である。

 今日は、以前から話の端々に出ていた近隣の「鶴崎」の地を、従妹とその長男の案内を受けて訪ねる事にした。
 鶴崎は、幕藩期に肥後の飛地であり、関連の遺跡・史跡が多数見受けられる所で、また参勤交代時の豊後街道の終着地でもあった。

 とは言え、日本でも有数の工業地域として変貌を遂げた所で、如何程に確認出来るか疑問に思っていたが、二人して事前に調査をしてくれていた御蔭で、諸々について予期以上に伺う事が出来た。

 加藤清正建立と云われる「法心寺」、肥後熊本藩御茶屋跡、天守閣1階に展示してある「御座船鶴崎入港図」の絵馬がある「剣八幡社」、工場敷地の一角にある「船着場跡」。横井小楠暗殺の後日談で敵討ちの行われた「龍興寺」など等、結構時間を要する事となった。

 この地区で最も力を入れているのが、毛利扶桑の顕彰である。儒学・尊王論者で、開塾し多くの子弟を育成しているが、その旧宅や塾舎・「知来館」が残されているし、立派な資料館が付設されいる。
 館長さんが非常に熱心な方で、長い時間をかけて話をして下さった。退館時、来館者名簿にに記帳したところ、何と、館長さんは以前に小生の案内で「熊本城」を御見学なさったとか…。正に一期一会で、何処で何方とご縁を結ぶか解らない事を肌身に感じ入った次第であった。

 前述の如く、予期以上に関連遺跡・史跡が存在していて時間が足りなかった。今一度、仲間にも呼びかけて再訪する必要がある。
 
 突然の訪問で諸々迷惑の掛けっぱなしであったが、更には由緒ある酒造家の蔵を解放した格調高いレストランに案内され、昼食迄ご馳走になった。
 その後に、肥後街道で野津原に至る道の解り易い地点まで誘導してもらい、その入り口で別れた。

 肥後街道? 肥後から豊後へ向かえば豊後街道で、逆の場合は肥後街道と称する。その街道筋を辿って熊本へ帰ることにし、肥後藩領の地であった「野津原宿」に到る。関連史跡で、御茶屋跡・野津原別名加藤神社・清正建立の法護寺etcを確認し、石畳道を抜けて更に先を辿るも、陽も落ち気味時刻で街道を走るには危うくなってきた。

 さればと、竹田方向へハンドルを切り替え、すっかり暗くなって竹田へ着いた。とは言え、せめて「岡城」は訪ねたい。そこで、誰も居なくなった城郭域を、照明施設が充分でなく足元が危うい中を歩き廻った。
 唯、上手い具合に月が昇ってきて、月明かりが助けてくれた。正に、「荒城の月」そのもので、我が流旅の極めつけともあって、暫し佇んでいた。

 その後は、R57号線をひたすら走って、22時前に無事ご帰還と相成った。
遅き夕食を摂って風呂へも入り、旅の思い出をたどる暇も無く眠りの道へと邁進した。

 ※旅の総括
   〇旅程
     全国大会2日を含め、14日間。
   〇走行距離
     1.700km
   〇費用
    ・ガソリン代
      16.700円
    ・交通…フェリーその他通行料
      13.000円
    ・駐車場
      3.500円
    ・入場券…大阪城他
      2.200円
    ・食費
      約6.000円
 

風に吹かれて…大分

2009年12月25日 | Weblog
 泊地は、豊前市に極近郊外であたが、非常に静かであった。時おり、泊地にあるスタンド売りを求めた時の音と、R10走行の車の音を夢心地に聞いた程度であった。R2号線路側帯を泊地にした場合etcに比べると、交通総量の少なさを実感する。何はともあれ、良く眠れた。

 さて、今日のスケジュールは? 大分県内にもう一泊するか、それとも一気に熊本まで飛ばして帰るか。何れにしても、風の吹き様次第であるが…。

 先ずは、中津城拝見であろうと、早々にハンドルを向けた。着いたはいいが、9時開城には時間があり過ぎる。そこで、城の駐車場にて本(夏目漱石夫人による『漱石の思い出』)を取り出し、読書タイムとなる。漱石の裏面・生育暦・生活環境etcがつぶさに窺えて、漱石文学を読む解く時の参考になる。

 人の動きが始まったところで本を閉じ、城外域を散策した。小学校の校門であろうか? 立派な武家門がある。説明板を読んでいたら、登校指導中の女先生が来られて話を伺った。学校敷地が武家屋敷跡で、その折の門であると。今では当校の基本教育の一環教材としての、シンボルとなっていて大切にし、卒業生の誇りともなっている由。
 城域散策で確認出来たのは、城の後背地を海洋面にして防禦体制を敷いた、構築であった有様である。斯様な構築の城は、高松城・今治城があって、「日本三水城」と称するそうである。

 ようやく開城時間となり入城して拝観したが、然程の時間を要しなかった。その後、前述の後背地に回って堀の端に車を止め、定番の麺鍋を作り朝・昼兼用の食事を作った。この所は、1日2食で推移している様であるが、基本的栄養素は必ず摂取している。メニュー? は、炭水化物・蛋白質・野菜(ビタミン)は鍋物で、牛乳(カルシューム)・果物(バナナetc)に脂質(ピーナッツetc)は食間(オヤツ)に摂っている。屁理屈はさておき、天守閣や黒田・細川時代の石垣工法の違いの天守台を眺めながら、美味しく食べた。

 次は「杵築城」の拝観である、R10へ合流して南下し宇佐神宮まで来た。何回か参拝しているのでとも思ったが、休息を兼ねて神域を散策した。

 癒されてすっきりした気分で、国東半島の基部を走るR10を更に南下し、杵築への方向で別れた。この道の途次に「阿蘇神社」の額を掲げた鳥居が目に入った。興味深々、早速に調べてみるが判明せず、宮司宅を訪ねるも留守。幸いに近くの畑で仕事をしておられた方に尋ねたら、詳しい事は…と前置きして「確かに阿蘇本社系で交流もあっている」との事であった。さあ、「杵築城」へ急ごう。

 「杵築城」へは何年振りか? 連れ合いの両親と共に訪ね、喜ばれた事が脳裏に浮かんだ。
 一通り拝観した後、またまた係りの方との話となったが、資料を見ながら一生懸命に説明して下さった。

 この頃4時過ぎで、大分泊に傾いたところで親類に電話してみたら「御出でよ」との事で、即「お邪魔シマース」と返事、申し訳なさと感謝と…。
 ならば、関が原の戦い時に「西の関が原」とも称され、大友勢と黒田勢の壮絶な戦いが繰り広げられた「石垣原の戦い」の地、別府の「石垣原」を訪ねたい。
 地図を頼りにその付近に着いたものの、それらしき物等一つも見当たらない。車を下り歩いていると、高齢の女性の方二人に出会った。尋ねると、面白い話が出始めて、幽霊が出るとか・うめき声が響きわたる等など…。記念碑etcの存在を聞くも? 唯、近くに石垣原薬局があると…。 訪ねてみると「確かにこの一帯のこと」との返事と共に、近くに碑もあるとの事で確認しに行った。所が、既に陽も落ちていて中々に見い出せずウロウロ、それでも執念で探して、道脇にひっそりと佇む碑を見い出した。今や、家並みの続く変容振りでその面影など一つも無いが、それなりに感慨し夕闇の中で一人合掌した。

 別府に所要があったとの事で高崎山の下で落ち合い、後を付いて走りラッシュの街中も抜け、ビッグアイ近くの親類宅に到着し、一夜をお邪魔する事となった。



風に吹かれて…山口・北九州

2009年12月24日 | Weblog
 本を閉じ、エンジン始動。今日は山口から愈々九州へ上陸?であろう。
山口は、彼方此方と訪ね廻っているが、必ず立ち寄るのが「瑠璃光寺・五重塔」である。当然の如くに当寺を目指した。

 全国に塔の建造物は数多くあるが、小生の最も愛でる塔が当寺の「五重塔」である。構造体そのもの威厳・風格に加え、気品が漂っている。何時まで見ていても尽きる事が無く、心が洗われる。

 サビエル記念堂にも立ち寄った。洗面もさせていただいたが、どうも変な匂いがする? 何と自分自身ではないか。それもその筈で、風呂にも縁が遠のいているのだった。あってはならじ事で、風呂を求め湯田温泉へ向かい、とあるホテルの浴場に浸った。昼前のせいであろうか、広い浴槽に小生一人であり、ついつい長湯になってしまった。

 昼時もとっくに過ぎている、食材を求め維新百年記念公園にて定番の鍋物を作った。空腹の故であったのか、極上の味におぼえて堪能し、枯渇気味のエネルギーが身の隅々にまで浸み渡った。この公園は、山行の往復時にしばしば泊地として利用した所でもある。

 エネルギーも充満、いざ下関へ向けてスタート。当地もしばしば訪ねているが、何時も下から眺め上げるだけで、縁の無かった「火の山」へ上がった。
 予期以上に素晴らしい景観である、関門海峡から響灘、関門大橋を始めとして、下関・門司の両市街地、あの巌流島も目に入る。特に、海峡を往来する船の有り様を眺めていると、時の経つのを忘れてしまう程であった。

 此処まで来たら、九州へ上陸するべきであろう。この時、5時を過ぎていた。
何時もは海底国道を通るが、現在長期に渡っての工事中で、通行止めとか。仕方がない、高速を通らざるをえなくて、最短の区間を利用した。
 
 門司港のレトロ街を横目に走って、R3号へ合流し小倉城を目指した。城は当然閉城の時間であり、天守の外周部を歩いて城郭構えを確認した。天守内部は以前に拝観しているので諦めは早い、小倉を後にし10号線を大分へと走った。

 夜も深まって、疲れも出てきた。そこで豊前市郊外の広場に車を入れ、エンジンを切って、今宵の泊地とした。     R10・H

風に吹かれて…広島・山口

2009年12月23日 | Weblog
 激しかった雨も、夜半には和らいだ。明ける迄は、本を読んで過した。
明け方には、すっかり雨もあがった。ならば、福山へ引き返そうかとも考えた。が、後ろを振り向かないのが小生の生き様であって、幸いに友人もいる事だし、何れはまたの機会に託して霧の立ち込める路へ乗り出し、広島へと向かった。

 尾道でコーヒーを求め、三原にて朝食を摂ったが、この時が9時前であったか。
昨夜は緊急避難的一夜であったので、何を食べたか思い出せない程の物で過した。 そこで、今朝は奮発して些か豪華に…とも思ったが、何の事はないコンビニにて最高級? 弁当を求めたに過ぎない事である。
 
 我が食論を記すと、「量の多少を問わず、味の濃淡を問わず」が原則である。但し、栄養面のバランスについては拘りが強く、日々に6大栄養素は必ず摂取し、然も規定の分量(エネルギー)を守る様にしている。
 此処まで拘ると、作るほうは大変である。そこで我が家では、基本的拵えは連れ合いがしてくれるものの、後は自己流で仕上げる。此れもまた、楽しく美味しい。
 従って、外食は余り好まない。第一何れの品でも野菜類に乏しく、望めば結構高くつく。ベジタリアンでは無いもののに、野菜を好む者にとっては困った事である。また、食べるのに時間を要し、同席でもあれば相手に迷惑も及ぼす。外出時にも、殆ど弁当を持参する。拵える連れ合いは大変であろうが、厭な素振りも見せない。唯々、感謝あるのみである。
 述べている事と異なるではないか?…と。確かに違っている、「理想と現実は…」の例え通りで、斯様な旅etcに於いてはどうしても乱れてくる。仲間との行動時には過食となりがちで、単独の場合は小食となってしまう。
 如何するか? 後日に、乱れた期間を要して調整するのである。とは言うものの、あくまでも原則論であるから計算通りには行かない。ただ、心がけなければ何事も成就しない。食事に関しては「目で食べるのでは無く、頭で食べる」よう常々心掛けている。

 脱線をしたが、走行再開。豪華弁当の蛋白類は多少残しものの、エネルギーも満ち渡った。さればと、ひたすら広島へと走って、昼の時報と同時に「広島城」へ着いた。
 広島へは、何回来ているのだろうか? 数えきれない程である。が、不思議な事には、一度もお城を訪ねる御縁は無かった。

 此処でも、一通りの拝観を済ませた後に学芸員氏と話す機会に恵まれ、多くの事実・事象について教えていただいた。
 久し振りの広島であったのだろうか? 天守閣望楼からの家並みに、観戦にも来たことのある「広島球場」を目にする事が出来なかった。確か、1年程前に他所へ移転したのではなかったか…。

 広島を後にし、途中にて宮島を眺めながらコーヒーを飲んで休息。走行再開し、夕闇迫る頃着いたのが、岩国。当地も、広島同様に数回訪ねているも、山上の「岩国城」には縁が無かった。
 ロープウエーで上った。所が、着いたのが閉城7分前で入城を断られた。何とかとお願いをし、拝観料は不要にするが時間内には退城してくれと…。感謝をしながら駆け回った。
 その後、ロープの最終便まで城域を廻ったが、従来の山城の遺構を示す掘切etcが確認出来た。

 すっかり陽も落ちてしまった。スーパーにて食材を求め、郊外の一角に泊地を得て、車を止めた。月明かりの中で、野菜タップリの鍋に麺を投げ入れ、短くなった旅の段取りを思い回らしながら、美味しくいただいた。  錦帯橋・H
 

風に吹かれて…播州・備前

2009年12月22日 | Weblog
 人様は未だ夜中と言うが、小生の朝は一際早くて通常2~3時の間が起床タイムである。暫し本を読んだ後、今日も早立ちでエンジン始動。

 赤穂城も過去に拝観しているので、大手門及び大手隅櫓から大石神社域を散策したのみで終え、瀬戸内海に面した路を岡山方面へとハンドルを向けた。

 瀬戸内海沿いの道を快調に走って、牛窓へ到達した。当地は、教科書etcの写真資料として掲載されていたページに「牛窓」とあった事を思い浮かべた。と言うのは、江戸時代に朝鮮使節が来日した時の歓迎の有り様を表したもので、当地にその資料が沢山あるとの事である。資料館もあったが、開館時間に間がありすぎて断念した。

 スタミナも満ちてエンジン全開、さればと「福山城」を目指しハンドルを切った。岡山・広島県境当たりから雲行きが怪しくなって来て、福山に着いた時には出入りも億劫になる程の激しい雨となった。これでは、お城拝見とて…。

 結局は、諦めた。福山城拝観は、以前にも条件は異なっていたものの、叶わなかった事の思い出が甦った。
 この天候に加えて、夕刻も近いとあって暗くなり、ドライブそのものも危ない状態となった。運良くも、WC設置の広場:駐車場?が目に入ったので、車を止めた。

 暫く待機していたものの好転しそうにも無い、ならばと今宵の泊地と決め込んで、本を開いて時の過ぎるのを楽しんだ。  レインシャワー・H

 牛窓を後にして走っていたら、邑久にて「竹久夢二の生家跡」を目にした。立派に保存されている生家と大正の息吹を感じさせるアトリエが拝見出来た。

 走行再開。次いで目に入ったのが、名刀の4割以上を生んだ里・長船であった。資料館もあったが、左程の興味もなくて入館はしなかった。勿体なーい?

 またまた走って、西大寺に到達する。西大寺は、2月の「会陽」即ち天下の奇祭と称される「裸祭り」が執り行われる所で、テレビetcでもしばしば放映されて良く知られた寺である。

 更に走り続けて、2号線に合流した。程なくして岡山市内に入り、城域の一角に
駐車した。
 最初に「後楽園」を訪ねた。当園は、日本三庭園の一つに名を連ねてい、池や島etcの配置が絶妙で、大名庭園としての有り様を良く整えている。連続走行で疲れた心身を癒すには良き場で、暫し佇んでいた。

 次いで、旭川の対岸にある「岡山城」へ赴いた。一通り拝観した後に、受付にて尋ね事をしていたら、後に学芸員氏の対応となって話が盛り上がり、思わぬ時を過す事となった。
 当城は「烏城」と称され、熊本城も同称視される方もある。一見そのようにも窺えるが「似て非なるもの」で、構造体全般に於いて風格が異なる。

 時計を見ると2時半を過ぎている、今日は飲み物だけで朝・昼食共に未だ食べていないのだった。エネルギーも切れかかったので、市外のコンビニで弁当を求めて頬張り補充した。

 スタミナ充分、次は福山城の拝観とばかりに、当地へ向けてハンドルを向けた。
所が、朝から怪しかった天候が岡山・広島県境辺りから雨となり、福山に着いた頃には出入りも億劫になる程の激しい雨となった。
 お城拝観どころではない。当城は以前にも、条件は異なっていたものの叶はなかった思い出がある。鞆の浦には友人が住んでいて、最近は道路敷設をめぐり利便性か景観保護かの論議で話題となった事もあって再度訪ねて見たかったが、急に訪ねるのも如何かと思い、またの機会を念じて福山を後にした。

 ドライブそのものも危うい雨に加えて、夕刻も近づいて一面が暗くなってきた。運良く、路側帯一角に駐車場? 適切な場所が目に入った。此処を今宵の泊地と決め込んでエンジンを切り、本を持ち出して時を過した。  レインシャワー・H

風に吹かれて…但馬・播磨

2009年12月21日 | Weblog
 夜も白んで確認出来た事は、昨晩は遅くなり緊急避難的に泊地を決めたが、以外や 良きロケーションの地であった。と言うのは、清流の畔で川面からは霧が立ち昇り、あたかも墨絵の中にでも佇む様であり、幻想的な景観であった。

 早起きは三文の得とばかりに、早々にエンジンを始動して走り始めた。本日訪ねたい所は、会員諸氏の推奨する「竹田城」及び姫路界隈の探訪である。

 泊地から程なくして、和田山に着き竹田城の位置を確認したが、町部からは大分離れた所らしい。更に走り続けて、竹田城の案内板が目に入り、指示の如くに進むと間を置かずして急坂となった。が、道は山頂迄通じている様であり、ぐんぐん駆け上がった。これを歩くとなると、標高が353mとかで結構な時間と労力を要するのではないか等と、思いめぐらせながら…。

 頂上近くか? 駐車場があって車を入れた。此処からは、歩いて登らなければならない。二つのルートがあり、尾根筋の急登を選んだが、朝露にでも濡れたのか滑り気味で足下が悪く、結構アルバイトも要し朝飯抜きの身には過激なダイエット行為でもあった。

 頂上直下に到り、野面積みで重層式構造の見事な石垣が目に飛び込んできた。重なる石垣の間を通り抜け、頂上(天守)部に達した。
 残念ながら、霧が深くて全体像は掴めないが、歩き廻って城郭全域を確認した。それにしても、山城様式の城郭にしては相当に広い。何でも、東西100mで南北に於いては400mにも及ぶと云う。

 暫く佇んでいたら、陽も高くなって霧の流れが速くなった。それに連れ、城域の全体像も掴めてきた。更には、カメラを構えた人々が彼方此方にと群がった状態であり驚き入ると同時に、この城の人気振りに改めて気付かされた次第であった。

 時が経つに連れて頂上部の霧は薄くなり、眼下を眺め渡すと雲海が一面に層をなしてうごめいている。時折、雲海に穴が空いて? 家並みも見渡せる。更には、近隣の山々に陽が当たり、神々しく輝いて見える。
 斯様に、現実離れした空間に身を置けた幸せは、夢なのでは…と思わず頭を叩いてみた。

 竹田城は、「天空の城」とも称するとか。正にその形容の如くで、時期・時間にも恵まれたのか、至福の一時であった。
 
 下界に降り立ち、山上彼方にある城を眺めつつ、播但路を姫路へと走った。 

 姫路城は、多くの人出で道を尽くし、空いている駐車場とても見当たらない。
ならばと、以前から訪ねたかった「書寫山」へとハンドルを向けた。所が、これまた車の連なりである。それでも何とか麓に到達して、駐車場に車を入れ、ケーブルを利用して山へ上った。

 書寫山は、966年に天台宗の園教寺が性空上人によって開かれ、西の比叡山とも称されて、西国第27番の霊場としても知られた寺とその壮大な山域である。
 広い寺域を駆け巡ったが、成る程広い。比叡山・高野山と比しても遜色ない規模であることを実感した。幸いだったのは、『書寫山縁起絵巻』全編公開に出会えた事である。此れまでにも、部分的展示はなされたものの全編公開は、当山始まって以来とか…。結構時間を要して、山を下りたのは最終ケーブルであった。

 姫路城は既に閉まっていた。間もなく長年をかけての大修理に入るとの事で、観覧者が多かったのだろう…。入城は此れまでにも何回かしているので、ライトアップされた天守閣を、車を巡らして四方から眺望し、その勇姿を脳裏に留めおいた。

 陽もすっかり落ちてしまったが、姫路市街界隈で泊地は求め難い。そこで、赤穂方面へとハンドルを向け、赤穂の郊外にて泊した。   忠臣蔵・H


 

風に吹かれて…丹後・但馬

2009年12月20日 | Weblog
 何時もの事ながら、朝の目覚めは早い。持参の書『漱石の思い出』を読んでいたら、夜も白らんで来た。

 泊地から訪問地の舞鶴迄は、少々距離があるので、早々にスタートした。早朝走行のメリットは、車が少なくてスピードも気にせづに走れて、距離が稼げる。
R9号を和田からR173号、更には綾部でR27号線と走りかえて、舞鶴には8時過ぎに入った。郊外の地で、麺に野菜タップリの鍋を作って、スタミナをつける。

 丹後は、肥後細川の初代・二代の幽斎・三斎公の事績を残した地であり、明智の娘で三斎公夫人のガラシャが隠棲された地でもある。即ち、一色氏の支配地であった当地を、信長の命により侵略し、その功績で得た領地であって、細川氏が京都の長岡・勝(青)龍寺城から丹後を、明智氏が丹波を領有して住み分けた。
 
 幽斎は、当初宮津城に入ったが、後に田辺(舞鶴)城を築いて宮津を支城とした。が、本能寺の変に際して出家し、三斎に田辺城を譲って、自らは宮津城に隠居した。
 所が、三斎が合津征伐へ赴いている時に、石田三成が徳川打倒を宣するが、細川は東軍に加担したので西軍から攻撃を受け、幽斎は篭城して死守した。
 この事を憂いた後陽成天皇が、古今伝授の奥義を有して継承者の幽斎の身を案じて勅命を発し、救出した。その後細川は、関が原の戦いの功績によって、豊前に領地を得るのである。

 訪ねた舞鶴城であるが、元々は田辺(城)と称せられていたものを、幽斎公築城の折に舞鶴(ぶかく)と変名したのが、今の舞鶴と呼ばれる基になったとか…。
現在、城門を復元して「田辺城史料館」として、細川関連の資料も熊本城以上に伺え、城跡地一帯も良く整備されていた。

 一方の宮津城は、全くその面影を窺がう事は出来ずに、今や小学校の敷地になっていて、その一角に「当時の門」と称されるものが、ひっそりと建っていた。

 その後、今回の旅で最も訪ねたかった「味土野」へと向かった。
所が、地図上では近いと思った道が、途中で途切れて進めない。山の中であったが運良く工事現場に出会わせて話を聞くと、引き返すよりも林道ではあるが別の道を行った方が良いのでは…との事。
 悪い道ではなかったものの狭くて、対向車とても無く、大丈夫なのかと半信半疑の気持ちで走行。反面、林道(丹後縦貫林道)とは云え樹林の中ではなくて、殆どが尾根筋を走るので眺めは抜群で、天の橋立や阿蘇湾・宮津湾から若狭湾を一望に出来て気分は良かった。此処は「世屋高原」であった。

 更に進んで、峠に到った所に「スイス村」なる表示を見た。観光地なのか? それらしき建物はあったものの、人一人居なかった。太鼓山なる尾根に設けられている風力発電の羽根を見上げつつ、日本海も眼下に眺められた。此処は「碇」高原である。

 暫く走って、何とか味土野へ到る道に出会い、胸を撫で下ろした。
斯様な次第であったが、怪我の功名とでも言おうか、全く訪ねる予定の無かった地を走れ、眺めは抜群であったし、丹後半島とはかくあるものかとの確認も出来て、儲けものの感ひとしおで満足した。此れこそ、我が流旅なのである。

 肝心の味土野であるが、県道を離れて再度山道に入ったが、この道こそ最初に途切れた所に通じる予定の道である。此処も狭い道で谷も深く、慎重を要して走り何とか目的の「ガラシャ隠棲の地」へ辿り着き、暫し佇んでいた。
 記念碑が小丘の上にあり、その地を「女城」と表してあった。訪ねてみて、改めて大変な辺境の地である事が実感出来た。さすが、「隠棲の地」であると…。
 
 「身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥啼く」
 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
 
 日暮れも近づいたが、味土野に泊するには不便極まりない。県道へ引き返して峰山を目指し、当地にて牛乳・肉まん2個・野菜を求めて、今宵の夜食とした。後は適当な泊地に出会うのみで、気楽に走れる。
 すっかり日も暮れたが、更に走り続けて但馬の国は出石へと辿り着いた。ライトアップされた「出石城」の城域を巡りながら、小振りの天守etcを眺めた。

町外れに適切な広場があって、そこを泊地とし車を止めた。 グランド・H

風に吹かれて…京都

2009年12月16日 | Weblog
 得る事多く、諸々に意欲を喚起させられた全国大会も、無事に終了した。後は、この成果を「我が会の今後の有り様」に、如何に還元していくかである。

 旅の話に話題を変えよう。
如何に奔放な旅とは言え、大会が終了する迄は、どうしてもその日程に左右されざるを得ない。が、肩の荷の下りた今日からが、「我が流旅」の始まりである。
訪ねたき処を念頭にはおくものの、後はその日の天気次第・気分次第で、正に「風の吹く儘」である。即ち、何処で・いつ何時寝起きしようが、食べようが食べまいが、何処の道を辿ろうが、気には一向留めない。

 所で、今回旅のテーマーは、「肥後細川氏の変遷地」探訪である。
何はともあれ、そのルーツは京都であろう。と言う訳で、先ずはハンドルを京都へと向けた。

 京都は、学生時代に過した街で、今でも折に触れ年々に訪ねていて、あたかも我が家に帰った感の街である。特に、後生の生活は京都にて、とさえ決定している次第の街でもある。

 何時もの事ながら先ずは、我が人生指南の師「親鸞さん」に会いに行った。長年の歳月を要して修復作業を終えた「御影堂」にて参拝した後、境内域を散策した。

 その後の足は、堀川通りを上って「二条城」へと進めた。二条城は久方ぶりである。確か、「王昭君」の襖絵があると記憶していたが、何処にも見当たらず、ならばと尋ねても確証を得ず。小生の思い違いであったのか?
 何れにしろ、構えの壮大さ、襖絵や装飾彫刻の見事さ等など、唯々恐れ入るばかりである。庭を隈なく散策している時、会員のSさんから機関紙の件で連絡が入った。皆さん方其々に頑張っているのだと思えば、今の我が身を思えば、何とも申し訳ない事である。

 二条城を出て、歩け歩けと丸太町通りを東へ辿り、寺町筋との交点で御所の南東一角へ。確認したかった念願の地で、横井小楠が殉死した場所である。小さな石柱がひっそりと立って居るのみで、余ほど注視していないと探し当てない。会員のS氏が製作した当時の現場のジオラマと重ね、往時の様子がありありと想い廻る。その姿が異様であったのだろうか、頻繁に往来するドライバー諸氏が、怪訝な目つきで眺めていたのは…。

※この2日間、パソコンの調子が悪かった。当節流行の新型インフルに罹患?したか、はたまたPCウイルスが侵入したかと思い、病院? 否電気店へ持って行こうと考えながら操作をしていたら、何故か回復をした。何だったんだろう?

と言う訳で、京都編について今少し綴っておきたい。

 小楠殉難の地を離れて、御所内一部を散策した後、大徳寺へと向かった。当寺塔頭の一つ、「高桐院」を訪ねたかったのである。当院は、細川玉子即ちガラシャの御霊が祀られている墓所の一寺である。
 大徳寺へ着いたのが、4時を過ぎていた。聞けば、高桐院は4時半に閉門するという。然も、境内の一番奥まった所に位置しているではないか、ならばと走って何とか8分を確保?した。紅葉に映える庭を愛でる暇とて無き中で庭に下り立ち、その一角にある墓碑を確認した。
 所で、高桐院は三斎公(細川忠興)建立による寺で、開祖は幽斎斎公の弟と云われる。従って、三斎公の真墓も当院で、茶人に因んでか墓石が燈籠型であり、ガラシャ夫人も並んで祀られていた。その隣り域には、歴代細川公の墓標も見られた。
 燈籠であるが、夫妻が生前愛好した石灯篭で、もとは利休の秘蔵にして天下一の称ある灯篭であったとか…。

 さて、今宵は何処に宿をとるか? 洛内域では不可能であろうと考え、明日の訪問地の舞鶴へハンドルを向け、国道9号線をひたすら走って京丹波で道の駅を目にし、泊地とした。遅かったので夜食は近隣のコンビニで求めた簡単食で済ませ、早々に寝袋へ潜り込んだ。       道の駅・和H






「全国大会」概要

2009年12月14日 | Weblog
 気をもんだものの、ゆとりの中で奈良市へ入った。所が、ホテルの場所が分かりにくく、警察署で確認をとった。が、指示が怪しい? 一方通行表示が多い所とあって、無理からぬ事ではあったが。

 所属団体の全国組織の規模は、団体数で1,561、会員数が38,828人で、年々増加傾向にある。
多くの会員が集い熱気漂う中、奈良県文化会館に於いて、形通りの開会行事が行われた。中で、基調講演の春日大社権宮司氏の話がユニークで興味深かった。「厠」の歴史や有り様について『古事記』等の文献類をも用いて、演題の「おもてなしの心」に迫っていた。

 その後は、奈良公園を中心に設けられた各分科会場に於いて、諸案件についての提言・討議が活発に交わされた。
夜の情報交換会も賑やかで、私同様に皆さん方もお腹が空いていたのか、瞬く間に料理の大半が無くなった。然しながら、お喋り好きの諸氏の集まりとあって、名刺交換に始まり会話が大いに弾んでいた。
その終了後、今回参加の我が仲間5人、ホテルロビーにて更に話を進めたが、途中で横浜の方も加わり、遅くまで有意義な話が飛び交った。

 小生の悪しき習性で、何か言わなければ治まらない事とて、分科会・全体会の場に於いても、ついつい手を挙げてしまう次第であった。

 2日目の午後は、楽しみのエクスカーションに参加した。多くのコース設定の中、来年の「平安遷都1300祭」の主会場となる「平城宮跡」を、一足早く訪ねた。その規模の壮大さを再確認すると共に、古の都の賑わい振り等が脳裏に浮かんだ。
更に、近隣の西ノ京で「薬師寺」と「唐招提寺」を訪ねた。共に何回か訪ねているが、薬師寺では「大唐西域壁画殿」に於いて、期間限定公開の平山郁夫画伯作の「壁画」を拝観でき、夢が叶った。唐招提寺では東山魁夷画伯の障壁画を見たかったが、此方は残念ながら…。然しながら、紅葉に映える広い境内を隈なく散策出来て、至福の一時を過しながら、鑑真和上の乾漆坐像が脳裏を離れなかった。