無門塾

旅や山、人生を語り合いましょう。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

熊本城坪井川園遊会

2012年05月05日 | Weblog
 ゴールデンウイーク期間を中心に、城彩苑その他の場所に於いて諸々のイベントが執り行われている。

 例えば、 「道中おどり」 「おいらん道中」 「民謡など邦楽系演奏」  等で、城彩苑が主会場であったので身近に見ることが出来た。

 斯様な中で、交通センター会場で行われていた 「太鼓競演」 に於ける 「必由館高校」 の太鼓演奏に出会った。 諸大会に於いて優秀な成績を残しているとのことであるが、流石と言うか若者たちの 「躍動感」 と、一糸乱れぬバチ裁きの 「調和感」、この様な中から地鳴りをする様に繰り出される音には物凄く 「迫力」 があり、感動した。     合掌 
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

平穏とは…?

2012年05月01日 | Weblog
 私は何事も無く 「穏やかな人生を送っている…」 と、言い切れる人がこの世に果して何人いるのであろうか?  

 勿論、斯様な事態には置かれていないので、私達は日々を楽しく過ごしているのである。 然しながら、よくよく考えて見ればそれは極めて短いと言おうか一瞬に過ぎず、殆どは 「苦」 を背負って時の方が多いのではないのか。

 釈迦も説いている 「人生は苦なり…」 と。  即ち、人は 「生」 「老」 「病」 「死」 と片時も平穏な時はなく、苦を背負った時の連続である…と。

 現実、今小生は病を背負っていて意の如くに日々が過ごせない。 また、 一般論に於いても、学校・会社で対人関係が上手くいかない、苛めにあっている、成績・実績が上がらない、懐工合がいき詰まった、恋人・親子・夫婦関係の亀裂など等、挙げれば切がない程である。

 斯様な状態を如何にして乗り切るか、なかなか難しい事ではあるが、この瀬を超えれば必ずや一皮むけたより魅力ある人へなれるだろう。 この瀬をを乗り越えるために求められるのが 「智慧」 である。

 「智慧」 論をと思っていたが、今の小生にはどうも適切な思いが浮かばない。 即ち、 「智慧」 が無いのである、 そこでこの稿は一旦閉じたい。         合掌

  

     
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ガラシャ余話

2012年04月28日 | Weblog
 細川「玉」 と言うより 「ガラシャ」 と言えば、熊本県人のみならず全国の 否世界の人々が知るところであろう。 ところが、我が熊本に於いても殆ど知られざる存在がある。

 その一つで、横手町に名刹・安国寺があるが、此処に玉の末弟と伝わる人物が登場する。
安国寺は、加藤忠広時に禅宗洞家越後轉輪寺末寺として建立、青龍山 「弘真寺」 と号し
た。
 一方、細川忠利が小倉在城時に安国寺を建立し、明巌梵徹を住持とした。 その後、忠利が熊本城々主となった折、梵徹も熊本へ同行させ弘真寺に住まわせたそうであるが、その節に弘真寺は 「安国寺」 と改称したそうである。 この僧・明巌梵徹こそ、何とガラシャの末弟に当ると言われる人物である。

 その二と言おうか、ガラシャの妹・松本弥々なる人物の墓が、本妙寺塔頭東光院にある。 

 案内板によると、弥々は明智光秀の五女にして、因幡の守豊前夫人とある。 当院には、他に小西行長関連墓、荻昌国の墓など等がある。 小生は、未だ弥々さんの墓の所在確認が出来ていないが、この際調べてみたいものである。    

 その他、八代の古麓地区にある名刹寺院を別途用件で訪ねた時、はからずもガラシャの彫像や位牌を拝見させて頂いたのも印象に残っている。            合掌
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

細川ガラシャ…№3

2012年04月27日 | Weblog
 ガラシャは美人であると共に、気位が高く怒りやすい性格であった…とも、然し入信の証ったろうか、謙虚で忍耐強く且つ穏やかになったと言われる。

 ところが、世の中上手くいかないもので、忠興との仲は非常に険悪となり、別れ話も出る様になったそうである。 忠興の言動にも問題があったのか? 但し、この稿ではこれまた深入りをしない。 その時宣教師が 「誘惑に負けてはいけない」 「困難に打ち勝ってこそ、徳は高まる」 と説き、思い留まるよう説得したそうである。

 斯様な動きの中、1600年に 「関が原の戦い」 の前兆が起こり、徳川家康に従い忠興は上杉征伐に同行。 その留守中に、石田光成が人質として各大名の奥方を大阪城内に引き入れようとし、玉造細川屋敷にいの一番で兵を送り囲った。 が、ガラシャはそれを拒絶しクリスチャン故に自死は許されず、家老の小笠原(秀清)小斎に槍で部屋の外から胸を突かせ、天国へ旅発ったと伝わる。
 それのみならず、小斎は屋敷に火を放ち自刃するとともに、ガラシャの遺体が残らぬよう配慮したと言う。
 
 この時、時世の句として 「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」 と詠んだそうである。

 なお、屋敷のあった地は、繫華街の中にある小さな公園にひっそりと見受けられ、標柱があって 「越中井」 とあり 「越中井細川忠興夫人秀林院殉教之慰趾」 ともあった。
 更に、近くのカトリック教会の庭には、ガラシャの 「慰霊塔」 も建っていた。

 この辞世の句を、細川家18代当主の細川護熙氏が、総理の職を辞する時にも用い、一層世に知られた曰くもある。 非常に味わい深い句であるが、小生など常々世の動きを読みとれず、中々 「大人」 の領域に辿り着けない典型である。  
 「小人」 の話など、どうでもいいこと…か。

 その後、焼け跡を訪ねた神父・オルガンティノは、ガラシャの遺骨を拾って堺のキリシタン墓地に葬ったそうである。 忠興もこの事を知り、翌1601年同神父に教会葬を依頼し葬儀にも参列し、崇禅寺(大阪)に改葬している。                       同寺は新幹線の大阪駅近くにあり、自家用車で訪ねたことがあるが、ラッシュ等に巻き込まれて行き着かず、参拝が叶わず課題の一つとして残っている。

 なお、ガラシャの墓と称されるものは他にもあって、熊本市の泰勝寺、京都市の大徳寺塔頭高桐院などである。

 また、ガラシャの存在が斯くも有名になったのは、彼女をモデルにしたオペラ戯曲 「気丈な貴婦人」 である。 これは、神聖ローマ帝国エレオノーレ・マダレーネ皇后の聖名祝日の祝いとして、1698年にイエズス会の劇場で上演され好評を博した由。 加えて、当時似たような境遇にあったのか、上流社会の姫君たちが尊敬と感銘の眼差しを向けたそうである。                   
 善人がいれば悪人も登場するのが、演劇の常である。 因みに、このストーリーに於ける夫・忠興の存在は、豪味且つ野蛮な人物として登場し、斯様な中に於いても彼女は悪逆非道に耐えながらもけなげに生き且つ信仰を貫き、最後は一命を賭して暴君を改心させたと展開そうである。

 歴史小説や演劇ものに於ける人物評価は、何れにスッポトを当てるかによって、全く別の人物にも描かれる。 翼々学習を重ね、心して受け止めなければならないであろう。   合掌

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

細川ガラシャ…№2

2012年04月27日 | Weblog
 小生の常で、下手の長話の典型でついつい長くなる。 そこで、数回に分け記すことにした。

 本能寺の変の節、明智光秀からすれば当然のことであろうが、娘の嫁ぎ先でる細川家に援助を要請するのである。 ところが、細川家では光秀の統治能力を見越しての故か、それには従わなかった。 この論について今回は深入りしない。

 さて、美土野隠棲の時、玉はは20歳であった。 我が身に置き換えれば思い及ばず、果して平穏に過ごせたのであろうか。
 不憫な彼女を支えたのは、結婚時から仕えた小侍従や 「清原マリア」(公家清原枝賢の娘) の存在が大きかった様である。 マリアは洗礼名であろうし、彼女を通じこの頃からキリストの教えについての感化を受けていたのかも知れない。

 苦難の時2年も過ぎ、信長の後継の地位を獲得した 「豊臣秀吉」 の取り成しを得て、大阪の玉造屋敷に居を移した。 ところが、好色の秀吉の事を思ってのことか、はたまた美人のガラシャを愛する故か、忠興は厳しく彼女の行動を制限し一種の幽閉状態の生活を強いた。
 
 一方忠興には側室が仕えていることを知り、彼女の心は一層キリストの教えに傾倒する様になってくる。 この時、先のマリアやクリスチャン大名である 「高山右近」 の存在が大きかった様である。

 時は1586年、秀吉の島津成敗 即ち 「九州の役」 に随行した忠興の留守に、身を隠して教会へ足を運んだ。 彼女はゴメス神父(日本人)に教義の真意を真摯に訊ねたといわれる。 神父の論に、「これほど明晰で的確な判断が出来る日本人と話したことがなかった…」 と言わしめたほどであったと伝わる。

 その節、玉は即座に洗礼を望んだものの、教会側は彼女の身分が分からず特に高潔な身なりや教養からして、洗礼は見合されたと言われる。 また、細川家では外出した玉の帰りが遅いことから、駕籠で迎えに行き連れ帰った…と。 これを尾行した協会は、彼女が細川家の奥方である事を知るのである。

 再度外出の見込みのない玉は、侍女等を通じて教会とやり取りをし、聖書類を拝読して信仰を確かなものにしていったと言う。
 また、秀吉のバテレン追放令を知った玉は、宣教師が大阪を離れる前に洗礼を希求した。 そこで、イエズス会士グレゴリオ神父の計らいで、清原マリアを通じて自邸に於いて密かに洗礼を受け 「ガラシャ」 の名を授けられたのである。
 「ガラシャ」 とは、ラテン語で 「恩寵」 即ち 「神の恵み」 の意と言う。      合掌 

  

  
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加