無門塾

旅や山、人生を語り合いましょう。

細川ガラシャ…№1

2012年04月26日 | Weblog
 健康を害(腰椎骨折)してから、行動範囲が制約されるためか、ブログに於いてもグットアイディアが中々浮かばない。

 近時 「二の矢論」 を記したが、今や小生自身がその矢をどっぷりと受けてしまっている始末なのであろうか?  「言うは易し行うは難し」 とあるが、人間の精神力なんて実に不確かなものである事を痛感している。

 愚痴論はさて置き、久々に 「人物論」 を記してみたい。 取り上げる人物は、近々仲間と論じ合う 「細川ガラシャ」 である。

 「ガラシャ」 とは、近代細川二代目忠興の正室である。 また、禁教令後に於いて武家社会では得ないことであったろうに、何とクリスチャン 「洗礼名」 である。
 諱は、たま 玉 珠 または 玉子 珠子である。

 1563年、名だたる 「明智家」 で、父が光秀で母は熙子の三女(四女説もあり)として越前国で生誕している。 1578年15歳の時、光秀の主君である織田信長の薦めに従い、細川藤孝(近代細川祖)の嫡男忠興に嫁ぎ、青龍寺にて幸せな一時を過ごした。

 幸せも束の間、1582年(6月)に何と父の光秀が主君織田信長を成敗、即ち 「本能寺の変」 が起こるのである。 結果、玉は 「逆臣の娘」 となり、細川家に於いては当然の事ながら離縁問題に当面した。
 ところが、忠興は美人であり且つ愛する玉と離縁する気にはなれず 「美土野」 (現・京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉するのである。

 先年、美土野を車で訪ねたことがある。 狭くて車が落ちそうな山道を辿り、何とか到達はしたものの、急峻な山間部に 「細川忠興夫人隠棲地」 なる標柱を見出しほっとした。 玉さんの心情や如何なものであったろう…か等と思いをめぐらし、夕陽の落ちる一時しばし佇んだ。

 なお、美土野の所在地について 「丹波説」 と 「丹後説」 がある様なるも、何れにしろ国境のこととて、明智領と解釈すれば形式的ながらも離婚説が成立するのでは…と解するが、如何なものであろう…。
 
 このことは、宮本武蔵の生誕地に於ける 「美作」 か 「播磨」 説論にしても、峠一つの境のことであり、大同小異論に過ぎないのではないのか?         

 この論、学究的に言えば曖昧な解釈であって許されないだろうし、且つ今や 「町興し」 に取り入れるとなれば、尚更許されない事となろうか。 まあ、遊び人間の戯れと捉えて欲しい。             合掌 



週刊山崎くん

2012年04月23日 | Weblog
  RKKテレビの人気番組  週刊「山崎くん」 に於いて、その一シーンで用いられる画面の収録が先日行われ、小生もご一緒する事になった。 

 先回 「ゆうかた一番」 の中に於いて 「熊本さるく 上通り」 編を 放映されたことがあったが、今回はその時の同スタッフとあり、小生も仲間の一人の感で気楽に参加させてもらうことが出来た。

 今回は、熊本駅から市電に乗った観光客が降車し、「町あるき」 をされると言う設定である。 最初に、城下の一角にあって町人衆(商・職人)が住まいをした 「古町界隈」 を訪ね、独特の町割を施した 「碁盤目状且つ一丁一寺」 の配置を確認しながら、更には老舗を訪ね未だに漂うこの町の人々の心意気、 即ち 「職人の粋」 を感じとってもらうのである。 

 次いで再度市電に乗り移動し、家臣団における同職衆が住まいをしたであろう 「旧丁」 を歩くのである。 同職衆の名残を彷彿させる通りの名称確認や、その由来等を確かめ合うと言う場面設定であった…と思う。

 今回同行して頂いたのが、今回で三回目となってすっかり顔馴染となった 慶徳二郎こと要さん、更には長身で美人アナウンサーさんであった。

 今回収録の放映は、5月9日(水)の 週刊「山崎くん」 の中の一場面として用いられると思う…が、腰椎骨折の痛みも未だ癒えず且つ痩身の身に加えてすっかり猫背と化してしまった我が容姿、如何様に映しだされるのであろうか? その仕上がりが不安であり且つ楽しみでもある。         合掌
 

御杖先のシャクナゲ?

2012年04月20日 | Weblog
 名所・旧跡の多い島崎地区であるが、とある名園の一隅で、今が見ごろの貴重な花が見受けられる。   

 それは、御杖先の庭とも称される 「釣耕園」 内である。 杖先の御庭とは、肥後細川三代綱年公が、側近の重臣で続弾右衛門英常などを供にして藩公のお茶屋 「釣耕園」 に遊んだ折、「石神山」 の頂きにて 「この杖の指すところ、全てをお前にやる」 との言葉に、弾右衛門は恐れいって眼下のお茶屋のみを拝領したと云う。 この事から、続家では此処を 「御杖先」 の庭(茶屋)と言ったそうである。 ちなみに、当園は今も続家の所有である。

 園の名称 「釣耕園」 であるが、かって米田松洞が当園に遊び、周辺の素晴らしい風情を愛でて、「耕雲釣月」 と詠んだことから 「釣耕園」 と命名されたそうである。
 
 さてさて、肝心の 「シャクナゲ」 であるが、これまた曰く付きで、参勤交代の際に約した宮地の庄屋が、九重からわざわざ取り寄せて贈った代物だと伝わる。 往時は大群落をなしていたそうであるが、今は斜面地に数本あるに過ぎないものの、歴史の変遷を辿り浮世のしがらみとも暫し離れ、清流の中の庭を前にして椅子に座してゆったりと眺めいれば、思いもひとしおである。      合掌    

櫻・最終稿

2012年04月18日 | Weblog
 今年の櫻花観賞も終わりと思いきや、今を盛りと咲き誇っている櫻がある 。熊本城界隈でも彼方此方で見受けられるが、それは 「八重櫻」 であり、通称 「チョウチンザクラ」 とも呼ばれるのでは…。

 櫻の分類として、ヤマザクラ・オオシマザクラ・エドヒガンザクラなど、5~7種類ほどが認められていて、これ等の変性や交雑などから数十種類の自生種が存在するそうであり、八重咲きの櫻を 「ヤエザクラ」 と呼ぶそうである。          合掌

骨折・最終稿

2012年04月15日 | Weblog
 骨折は、この年になるまで経験した事がなく、今回が初めてである。 20数年前になろうか足の薬指部にヒビを生じ、この時もそれと正確な診断を受けるまでには時間を経過し、痛かった日々の思い出はあるが。

 今回の小生の骨折は、「圧迫骨折」 と言い腰椎部である。 斯様な現象は、強く圧迫を受ける=ギックリ腰現象や一般的に骨が脆(モロ)くなっている人に多くて、世に言う 「骨租ショウ症」 の人がなり易いということである。
 
 「骨租ショウ症」 とは、 良く聞く話しではあるものの、まさか自分自身が?  検査をお願いしたら、先生曰く 「一般的に女性に多く男性は稀である…」 などの話であったが、とにかく調べてみましょうととなった。 結果、同年齢の男性平均値に比べると、71%という数字がでた。 これは立派な 「骨租ショウ症」 である。

 骨租ショウ症が女性に多いのは、閉経期に起こり易からで、その割合は女性80%に対して男性は20%ほどであり、男性は70歳を過ぎた頃から多く見られる症状で、世に言う加齢現象の典型であろう。

 骨租ショウ症の原因は、極端なダイエッや、カルシュウム分摂取不足、女性の閉経期前後と加齢、男性の加齢症状として起こる現象であろう。
 何れにしろ、人は30~40歳代を頂点にして、骨量そのもが落ちてくるそうであり、一種の国民的病状であり1千万人位の罹患者がいるのでは…と。
 
 小生も、中年期に痩身の身に貫録をと思い、無理に食事量を増やした。 が、間もなくして 「糖尿病境界型」 の宣告を受けた。 然しながら、さして意味も分からず且つ別段支障も無いので、そのまま数年を経過した。 10年位経ってからであったか、危険領域に突入との宣告で、栄養士の指導を受け食事療法を取り入れた。 一種のダイエットで、食事量及び摂取食種を厳しく制限した。 これは、今も継続している。 加えて、若かりし頃は球技やランニング、登山にと激しいスポーツにも親しんだが、今はウォーキングである。 それでも、日々1万5千歩から2万歩前後を記録する。 これは、小生の食事摂取量に対し、消費する量の方が上わまっているのかも知れず、これも今回現象の一因であるのか。

 現在も…と記したが、この頃は忙しいと疲れるし、少し位は甘い物も必要では且つ油物ものも良いのでは…等と、果してこれが良いのか悪いのかの判断は早計であるが、小生に於いては食生活の変化である。

 さて、肝心の症状であるが、薄皮を剥ぐように日々良い方に向かっている様な感じはしてき
た。それでも、20分も歩くと腰に重たい物を付けた様な感じになり且つ足が前に進まなくなって、痛みも出てくる。

 いただけないのは、姿勢である。 鏡を見ると、完全にノートルダムではないか。 ノートルダム?  そうです、名著 『ノートルダムの背虫男』 で、完全に 「猫背」 状である。
 それでも、意識して伸ばそうと思えば、背骨が少しは言う事をきく様にはなった。 痩身体且つ老体とは言え、希望を抱いて半歩前進したい次第である。          合掌