健康を害(腰椎骨折)してから、行動範囲が制約されるためか、ブログに於いてもグットアイディアが中々浮かばない。
近時 「二の矢論」 を記したが、今や小生自身がその矢をどっぷりと受けてしまっている始末なのであろうか? 「言うは易し行うは難し」 とあるが、人間の精神力なんて実に不確かなものである事を痛感している。
愚痴論はさて置き、久々に 「人物論」 を記してみたい。 取り上げる人物は、近々仲間と論じ合う 「細川ガラシャ」 である。
「ガラシャ」 とは、近代細川二代目忠興の正室である。 また、禁教令後に於いて武家社会では得ないことであったろうに、何とクリスチャン 「洗礼名」 である。
諱は、たま 玉 珠 または 玉子 珠子である。
1563年、名だたる 「明智家」 で、父が光秀で母は熙子の三女(四女説もあり)として越前国で生誕している。 1578年15歳の時、光秀の主君である織田信長の薦めに従い、細川藤孝(近代細川祖)の嫡男忠興に嫁ぎ、青龍寺にて幸せな一時を過ごした。
幸せも束の間、1582年(6月)に何と父の光秀が主君織田信長を成敗、即ち 「本能寺の変」 が起こるのである。 結果、玉は 「逆臣の娘」 となり、細川家に於いては当然の事ながら離縁問題に当面した。
ところが、忠興は美人であり且つ愛する玉と離縁する気にはなれず 「美土野」 (現・京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉するのである。
先年、美土野を車で訪ねたことがある。 狭くて車が落ちそうな山道を辿り、何とか到達はしたものの、急峻な山間部に 「細川忠興夫人隠棲地」 なる標柱を見出しほっとした。 玉さんの心情や如何なものであったろう…か等と思いをめぐらし、夕陽の落ちる一時しばし佇んだ。
なお、美土野の所在地について 「丹波説」 と 「丹後説」 がある様なるも、何れにしろ国境のこととて、明智領と解釈すれば形式的ながらも離婚説が成立するのでは…と解するが、如何なものであろう…。
このことは、宮本武蔵の生誕地に於ける 「美作」 か 「播磨」 説論にしても、峠一つの境のことであり、大同小異論に過ぎないのではないのか?
この論、学究的に言えば曖昧な解釈であって許されないだろうし、且つ今や 「町興し」 に取り入れるとなれば、尚更許されない事となろうか。 まあ、遊び人間の戯れと捉えて欲しい。 合掌
近時 「二の矢論」 を記したが、今や小生自身がその矢をどっぷりと受けてしまっている始末なのであろうか? 「言うは易し行うは難し」 とあるが、人間の精神力なんて実に不確かなものである事を痛感している。
愚痴論はさて置き、久々に 「人物論」 を記してみたい。 取り上げる人物は、近々仲間と論じ合う 「細川ガラシャ」 である。
「ガラシャ」 とは、近代細川二代目忠興の正室である。 また、禁教令後に於いて武家社会では得ないことであったろうに、何とクリスチャン 「洗礼名」 である。
諱は、たま 玉 珠 または 玉子 珠子である。
1563年、名だたる 「明智家」 で、父が光秀で母は熙子の三女(四女説もあり)として越前国で生誕している。 1578年15歳の時、光秀の主君である織田信長の薦めに従い、細川藤孝(近代細川祖)の嫡男忠興に嫁ぎ、青龍寺にて幸せな一時を過ごした。
幸せも束の間、1582年(6月)に何と父の光秀が主君織田信長を成敗、即ち 「本能寺の変」 が起こるのである。 結果、玉は 「逆臣の娘」 となり、細川家に於いては当然の事ながら離縁問題に当面した。
ところが、忠興は美人であり且つ愛する玉と離縁する気にはなれず 「美土野」 (現・京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉するのである。
先年、美土野を車で訪ねたことがある。 狭くて車が落ちそうな山道を辿り、何とか到達はしたものの、急峻な山間部に 「細川忠興夫人隠棲地」 なる標柱を見出しほっとした。 玉さんの心情や如何なものであったろう…か等と思いをめぐらし、夕陽の落ちる一時しばし佇んだ。
なお、美土野の所在地について 「丹波説」 と 「丹後説」 がある様なるも、何れにしろ国境のこととて、明智領と解釈すれば形式的ながらも離婚説が成立するのでは…と解するが、如何なものであろう…。
このことは、宮本武蔵の生誕地に於ける 「美作」 か 「播磨」 説論にしても、峠一つの境のことであり、大同小異論に過ぎないのではないのか?
この論、学究的に言えば曖昧な解釈であって許されないだろうし、且つ今や 「町興し」 に取り入れるとなれば、尚更許されない事となろうか。 まあ、遊び人間の戯れと捉えて欲しい。 合掌