トーキング・マイノリティ

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見張り怠るな

2007-06-14 21:26:25 | 読書/小説
 インド人作家アショーカ.K.バンカーによる21世紀版ラーマーヤナ・シリーズ『聖都決戦』上下巻を読んだ。いよいよ物語りは佳境に入り、ヒロインであるシーターが登場する。題名通り一千万を超える阿修羅軍が聖都ミティラーに迫り、決戦となる。

  主人公ラーマとシーターの出会いがいい。2人は幼馴染であり初対面ではないが、成長した後は会っていなかった。ラーマは旅の途中、黒装束に身を包んだ2人 の傭兵と出会うが、この2人組みこそシーター皇女と彼女の忠実な護衛ナクーディーだった。ラーマ以下旅の一行は皆この2人を男だと思ったが、さすがに聖賢 ヴィシュワーミトラだけは彼女らの正体を見破る。
 ヴィシュワーミトラは見者法術師とも表現されているが、マントラ(真言)を唱え、梵天力を縦横に操るのだから、インドの魔法使いでもある。魔術のような梵天力には、歴戦のクシャトリアも恐れ入る。

  シーターが護衛一人をつけ、男装で偲び旅をしていたのは暇を持て余す皇女の気紛れからではない。国の内外から婚約者が殺到するほどの美貌でありながら、彼 女は知性、教養の他剣術にも秀でている。彼女の祖国ヴァイデーハは軍を解散してしまった平和国家で、父王は哲学的討論と信仰に時間を費やしている。人類の 敵である阿修羅の動きや攻撃の情報が入った所で、シーターの父はただの噂話として片付けてしまう。シーターは国の将来を憂いていたのだ。

  シーターの護衛ナクーディーはジャート族出身の女戦士。並の男より長身だけでなく、武術でも圧倒している。現代でもインド軍精鋭の一つがジャート部隊。 根っからの戦士一族であるジャート族は阿修羅王の計画に気付いていたが、彼らの警告を町のクシャトリアは戦争挑発者として耳を貸さない。「あまりに長く平和が続いて、人々は皆軟弱になり、欲ボケしている」と、ナクーディーは嘆く。さらに彼女はこう唱える。
見張り怠るな、備え忘れるな。祈る時も剣忘れるな。忘るるなかれ、許すなかれ。休むことなかれ、敵に息ある限り」。

  ナクーディーは先の「最終阿修羅戦争」で家族の全てを失っている。だが、シーターの父王もまた同じ戦いで大勢の愛する者を失っているのだ。同じ体験をして も、その後の人生が正反対になるのは興味深い。ただし、ヴィシュワーミトラはシーターとナクーディーに穏やかに忠告する。
そなたらは大王が平和と非暴力を求めるのを欠点と見間違えておる。それは欠点とは正反対、大いなる徳性なのだ…剣の道よりも言葉の道を奉じるには大いなる勇気が必要ぞ

  平和と非暴力を求めるのは大いなる徳性と言ったヴィシュワーミトラだが、彼もラーマら一行を率い、ほとんど自衛力もないヴァイデーハの聖都ミティラー防衛 に駆けつける。やはり非武装中立などファンタジーの世界でも夢物語なのだ。阿修羅軍の大群の侵攻に衝撃を受けるヴァイデーハ王。何しろ「かつての軍事大国 は、もはや軍事的危機に対処するだけの知識も人的資源も持っておらず、ましてや正面から立ち向かうなど思いもよらない」有様。

  「暴力を避け、不殺生の信条も守ってきた我国が、何故このような劫掠の憂き目にあわねばならないのでしょう」と聖賢に訴えるヴァイデーハ王。ヴィシュワーミトラは平和政策を責めるどころか、王にも民にも落ち度はない、輪廻の輪がこのように回ったに過ぎぬ、大いなる時の輪は善悪で差をつけぬ、と答えるが、禅問答のようでよく分からない。阿修羅軍を消滅させるのに梵天兵器が使われるのがいかにもインドらしい。ただし、この兵器を使用した者は救済も涅槃も啓示も受けられなくなるので、信仰心の厚い人間ほど代償は重い。

  スワヤンバラ(婿選び式)があるのは面白い。古代インドには国王の王女は全ての適格の王や王子を招待して、その会席で彼女の夫を選ぶ習慣があったが、その 式である。地方により10世紀頃まで残っている所があったが、儒教圏で婿選び式など考えられないだろう。残念ながら中世以降はインドも婿選びどころか、親 の絶対的命で幼児婚が広く行われるようになってくる。

 人は誰しも希望を持つが、この物語ではこう表現されていた。「希望こそは人間が存在するためにほんとうに必要な食べ物なのだ。魂の食べ物」。“魂の食べ物”とは巧い。
 この本の翻訳者は大嶋豊氏だが、現代口語風の訳なのでとても面白く読みやすい。これが古文体なら、いかにも退屈な古典となっていただろう。次巻の展開も楽しみだ。

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