トーキング・マイノリティ

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マキアヴェッリの民衆評価

2007-12-03 21:25:23 | 読書/欧米史
 マスコミによく登場する有識者の中には、今でも無知な民衆を啓蒙するのが己の使命と言わんばかりに、狭量かつ独善的な長広舌を展開する者がいる。学識者らしく異なる意見や見解には冷静に説得するどころか、門外漢は黙っていろとばかりに感情露わに捲くし立てる人物さえも。彼らに共通するのは民衆イコール愚かとの愚民思想である。自分自身も無名の民衆の一人に過ぎないのに、自分の気に入らない意見の持ち主やその支持者を愚民呼ばわりする者をネットでもたまに見かける。ところが、ルネサンスきっての有識者であるマキアヴェッリが下した民衆への評価は必ずしも愚民思想ばかりではない。

 マキアヴェッリも民衆を辛辣に見ており、民衆の欠点も鋭く指摘しているので紹介したい。
ここでは民衆に関して、次の二つのことに注目してほしいのだ。
第一は、民衆とはしばしば表面上の利益に幻惑されて、自分たちの破滅につながることさえ、望むものだということである。
第二は、そしてもしも、彼らから信頼されている人物が彼らに事の真相を告げ、道を誤らないよう説得でもしなければ、この民衆の性向は国家に害を与え、重大な危険をもたらす源となる、ということだ。


民衆は群れをなせば大胆な行為に出るが、個人となれば臆病である。
指導者のいないために統制の取れていない群衆ほど、何をしでかすか予測も立たず恐ろしい存在はないのだが、一面これ程脆いものもないのである。

 これは現代日本の民衆ばかりか、他国も事情は大同小異だろう。民衆の本質はいつの時代も変わらないということか。しかし、民衆は愚かだからダメ、と切り捨てないのが凡庸な有識者と異なる。反面『政略論』で、マキアヴェッリは民衆を弁護して書いたことは、人間社会に対する深い洞察力が伺え、興味深い。

民衆ほど軽薄で首尾一貫とは程遠いものはないとは、ティトウス・リヴィウス(BC59-AD19、ローマ人歴史家)の評価であるが、他の多くの歴史家もこれと同じことを書いている。まったく歴史上の彼らの行動を見れば、民衆が誰かを死刑にしたのに同じ民衆がその直後に後悔して涙を流す、という場合に終始出会う。これについてリヴィウスは次のように言っている。「彼が死に、彼によってもたらされていた脅威が消え去るやいなや、民衆は後悔の念に駆られ、涙を流して彼を偲んだ」。また、ヒエロンの甥のヒエロニムスの死後に、シラクサで起こった出来事に触れながら、次のようにも書いた。「卑屈な奴隷か、さもなくば傲慢な主人か、これが民衆の本質である

 こうまで言われると、私としても民衆を弁護するという大変な仕事を、受け持ってよいものかどうか迷ってしまう…しかしきちんとした反論はしておいた方がよいと思うので、あえて弁護するが、歴史家たちが民衆の欠点として糾弾するこの性格は、実は人間全体その中でも特に指導者たちにこそ、向けられるべきものだと言いたい。何故なら法に反する行為をする者は誰であれ、秩序なき民衆と同じ誤りを犯すものだからである。
 後先のことも考えないで暴走するという民衆の性格は、指導者のそれよりも罪が深い訳ではない。両者いずれとも、思慮に欠ける人ならば誰でも、この誤りは同じように犯しているのだ。それ故に、この場合での理に適った議論としては、階級で分けずに人間全体に共通する欠点への糾弾という形でなされるべきだと思う。

 民の声は神の声、と言われるのもまんざら理由のないことではないのだ。何しろ世論というものは不思議なる力を発揮して、未来の予測までしてしまうことがある。また、判断力ということでも民衆のそれは意外と正確だ。2つの対立する意見を並べて提供してやりさえすれば、世論の殆どの場合、正しい方に味方する。
 もちろん、世論にも欠点はある。真に有益なことよりも、見栄えのよいものの方に目を奪われる場合が多いからである。しかし、指導者たちといえども自分たちの欲望に駆られて、同じ欠陥に陥ることが多いではないか。しかも指導者たちの欲望ときたら、民衆のそれよりもずっと大きいときている。ゆえに、民衆とか指導者とかの区別をつけず、両者に共通する欠陥として論じるのが理に適ったやり方だと信じる…


 2ちゃんねるで民衆を国畜呼ばわりした者がいたし、拙ブログでも面白いコメントがあった。
従順で自ら考えようとしない国民も国畜という名の奴隷のような気もしますが、その国民に飯を食わせ続けなければならない権力者もまた、奴隷に突き動かされる奴隷のような気がします。本当に隷属しているのはどちらなのでしょうか…

 奴隷や隷属など、いかにも左派寄りが好む表現だが、史上国民の国畜化に最も成功したのこそ、共産主義国である。マキアヴェッリはどの共和国にとっても有害な存在に、生活の資を得るため働く必要の全くない特権階級を挙げているが、平等社会を掲げた共産主義国家は共和国以上の特権階級を量産していた。
■参考:「マキアヴェッリ語録」塩野七生著、新潮文庫

◆関連記事:「有識者

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2 コメント

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Unknown (いとまさ)
2007-12-05 00:40:13
今晩は、Mugiさん

ひよっとしたらMugiさんはお好きではないかもしれませんが、ノーベル賞「経済学者」ハイエクをどうしても思い出してしまいます。

共産主義、社会主義(正確には計画経済)が、必然的に民衆を隷属化させてしまうプロセスを、驚くほどの正確さで(第二次世界大戦中に)彼は予言しました。

一方自由経済については、民衆の「現場の知恵」が市場を通じて活性化されるシステムとして、自立する個人にとり不可欠の前提、あるいは「砦」とハイエクは評しております。

ハイエクは、計画経済が暗黙に置く前提、つまり計画者(これは具体的には官僚でしょう)が経済全体を見通せるという前提を痛烈に批判しました。「計画者は知っている振りをしているだけ」というような発言をしております。

ハイエクにとって、最も唾棄すべきは「知っている振り」の官僚(これは知識人といってよいと思います)であり、自らの「現場の知恵」を最大限に活かそうとする民衆の活動が、個人の尊厳を守ることに繋がるのでした。



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「理性主義」批判 (mugi)
2007-12-05 21:26:10
今晩は、いとまさ さん

私はハイエクの本は未読ですが、wikiにある彼の“「理性主義」批判”に全く同感します。
「人間はその本質において、誤りに陥りやすい存在…もし理性を乱用し「革命的な進歩」を目指した場合、文明そのものを破壊する」は共産主義体制下の粛清そのものですね。

実はトルコ初代大統領ケマル・アタテュルクも既に共産主義国家の行く末を予言しています。そういう国家は実質的に官僚の支配するところになってしまう…ソヴィエト・ロシアはロシア帝国以上の官僚主義国家になってしまい、民衆を窒息させてしまうだろう、と。1920年代にこのようなことを言っていたとは、並の経済学者より慧眼。

ハイエクはロンドン大学で教授を務めたこともあるのをwikiで知りました。河北新報のコラムニストである「政治経済学者」ロナルド・ドーア氏も同じ経歴ですが、段違いです。もちろん学者もピンキリですが。
資本主義国も問題山積ですが、共産圏よりマシなのは、言論の自由度が高いこと。指導者や御用文化人の批判が出来た共産圏など皆無。
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