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マニ教 その四

2011-08-10 21:11:53 | 読書/中東史

その一その二その三の続き
 242年、2年間のインド訪問からペルシアに帰還したマーニーは再び宣教を開始する。折しもサーサーン朝の明君で第2代皇帝シャープール1世の単独治世が始まった年でもあった。マーニーが己の新興宗教を広めるために取った手段は、権力者への接近である。現世全てを否定、死を美化し、「悪の神が支配するこの世から善の神が創造したあの世への帰還」と捉えていた彼の布教活動は、極めて現世的かつ現実的だった。
 マーニーはまずサーサーン家の一族に接近、皇帝の弟とも知己となり、改宗させたとマニ教の文献には記されている。その縁で皇帝とも謁見し、厚遇を得ることに成功、宮廷の随員として迎えられた。皇帝の知遇を得た彼は、後に廷臣として宮廷政治にも加わる。

 マニ教側の文献によれば、マーニーがシャープール1世から厚遇されたのは、病となっていた皇帝の娘を優れた医術で全快させた功績のためとなっている。文献には他にも教祖が病の少女を治したという奇跡譚が見られ、何やらゾロアスターやイエスの奇跡話とそっくりであり、パクリに見える。ちなみにゾロアスターも権力者に接近、知遇を得て布教活動をする許可を得たことになっている。
 目出度く皇帝から布教勅許状を取得したマーニーは、帝国内はもちろん東西に弟子を派遣し、活発な布教活動を展開する。これにより世界宗教への道を歩むことになり、シャープール1世の庇護下の約30年間、マニ教団は順調に発展する。

 だが、権力者との密接な関係は諸刃の剣でもある。シャープール1世崩御後、マーニーの運命は急速に暗転、第4代皇帝バハラーム1世の治世下277年2月、皇帝の怒りを買った彼は投獄、獄死する。現代のフーゼスターン州にある監獄に収監されたマーニーは首に1つ、腕に3つ、足に3つの鉄鎖が繋がれた。冬のフーゼスターン州はかなり気温が下がるそうで、60歳のマーニーにとって獄中はさぞ辛かったことだろう。
 マーニーの死後、皇帝の命により遺体は直ちに獄中で切断され、頭部は城門に晒された。シャープール1世の崩御から僅か5年後の死だった。マーニーは皮剥ぎの刑にされ、その皮には藁がつめられ城門に吊るされたという伝説もあるが、教祖の殉教を大いに脚色した信者による創作とみられている。

 マーニーが皇帝の不興を買ったのは、ゾロアスター教神官団の画策があった。マニ教は伝道の際、内容と無関係にゾロアスター教的なモチーフを多用していたため、ゾロアスター教神官団からは「内部から腐食させる異端」として敵視されていた。彼らはマニ教が表面的にはゾロアスター教の用語を使うものの、教義の内容は全く異質であるのに気付いていた。宮廷で急速に台頭したゾロアスター教神官キルデールは、マーニーの失脚に成功、以降30年に亘り宮廷を牛耳ることになる。キルデールはマーニーと異なり大往生をとげたと言われる。

 サーサーン朝は元からゾロアスター教神官の出のため、この宗教の神官団の影響力が極めて強く、マーニーの死後、マニ教徒は異端として迫害されるようになる。4世紀後半、第10代皇帝アルダシール2世時代に行われたマニ教途への審問は興味深い。ゾロアスター教神官は異端審問と棄教を迫る方法として、アリを使ったのだ。ゾロアスター教の教義ではアリは悪魔の創造物であり、見つけ次第殺す対象である。悪の創造物として他にカエルやサソリもいたが、容易に調達できるアリが選ばれた。

 一方、マニ教ではいかなる生物も光の要素を体内に秘めているという教義のため、動物はもちろん昆虫を殺すことは絶対に認められない。この点では仏教と同じく不殺生が大原則なのだ。
 ゾロアスター教神官は異端視された者にアリを踏むことを命じ、従わなければマニ教徒と見なした。踏絵ならぬ踏みアリこそが隠れ信者を見分ける手段となった。アリには迷惑千万だが、当事者たちには真剣なことだったのだ。

 ただ、アリを踏ませるという「みようによっては牧歌的な異端審問」を行っていたゾロアスター教神官と異なり、ムスリムの迫害は過激だった。イスラム時代になってもマニ教は健在で、少なからぬムスリムがこの宗教に引き付けられたという。アッバース朝時代には大弾圧が行われた。
 マニ教徒への罪状は「二元論、儀式的姦通、不倫、飲酒、男色、偶像崇拝」であり、はじめのものを除いては教義から逸脱した不当な容疑だったが、かなりの信者がこの名目で逮捕され、バクダードに連行されたと伝わる。彼らはマーニーの肖像画に唾を吐かされた上、鳥を食べることを強要され、それで信者と確認されれば斬首、さらし首にされたという。この迫害は783~787年に最も激しく、サーサーン王朝時代を上回る迫害を受けたと言われる。マニ教徒にはジズヤ(人頭税)を払えば信仰は認めるという、イスラム社会独自のシステムは適用されなかったのか。
その五に続く

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