トーキング・マイノリティ

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マニ教 その二

2011-08-06 20:41:57 | 読書/中東史

その一の続き
 パルティアの貴族なので、マーニーの父パティークはゾロアスター教を信仰していたかと思いきや、セム系民族の多い都市クテシフォン (現イラク)に移住してから感化されたのか、妻が妊娠中にクテシフォン近郊にある「男だけの洗礼教団」に入信してしまう。さらにこの教団が「肉食・飲酒・性行の禁止」という禁欲主義をとっており、そのためパティークは身重の妻マルヤムを捨ててしまった。
 マーニーは誕生後、父不在の中で母の手で育てられた。だが4歳の折、父が迎えに来て、この一人息子を母から取り上げ、己が入信した洗礼教団の内部で育てる手続きをした。そのため、幼児期を除きマーニーには母親からの影響はないらしい。母のその後の記録もないため、その後に交流があったかも疑問と著者はいう。

 パティークが入信した洗礼教団とは何だったのか、研究者の間では長く論争が行われてきた。その論争に決着がついたのは1996年、ケルン・マーニー・コーデックス(以下CMC)が発見され、マーニー教の内部資料によって教祖の前半生が詳らかになったからだった。 CMCに従えば、この「謎の洗礼教団」とはエルカサイ教団であったという。
 エルカサイオス(アラビア語でアル・ハスィーフ)とは、西暦百年前後に「天使から啓示を受けた」と称しシリアで宣教していたユダヤ・キリスト教の指導者。彼が創始したエルカサイ教団とは、『エルカサイオスの書』を中心に据え、新約聖書やパウロとは距離を置く独特のユダヤ・キリスト教系新興教団。

 マーニーが極度の反ユダヤ教的思考の持ち主だったことは、この本で初めて知ったが、その彼が当のユダヤ・キリスト教団の出身だったことは研究者たちを驚愕させる。そのため4歳から24歳までをエルカサイ教団内で過ごしたマーニーには、後に反抗してそこから離脱するにせよ、思想的な起源の点でユダヤ・キリスト教の流れを汲んでいることは疑いえなくなったのだ。
 これ以降、CMC 発見以前に言われていたような「マーニー=ゾロアスター教、ギリスト教、仏教の総合者」とする学説は影を潜める。現在ではゾロアスター教や仏教的な要素は壮年期以降の伝道の過程で吸収していったもので、マーニーのオリジナルの思想にはさほど影響を及ぼしていないと考えられているという。そうなると、裏表紙の紹介文「ゾロアスター・イエス・仏陀の思想を綜合し…」は誤りとなる。

 マーニーはエルカサイ教団の中で、ユダヤ・キリスト教系書簡を読み漁り、精神の基盤を形成していく。しかし、彼に読み書き可能な言語は当時のメソポタミアのセム系民族の言語だった東アラム語=シリア語と、両親の母語である中世イラン語のみだった。それゆえ、マーニーにはユダヤ教の聖なる言語ヘブライ語も、ヘレニズムと新約聖書の言語であるギリシア語も習得する機会がなかった。もちろん、ローマ帝国公用語のラテン語も知らなかったのは書くまでもない。

 シリア語と中世イラン語という、普遍性に乏しい「東方のローカル言語」しか読み書きできないというのは、当時の地中海~西アジアの知的社会で、掃討のハンディになったらしい。そして中世イラン語は書き言葉として成熟しておらず、書物そのものもなかったという。中世イラン語で書物を描いたのはマーニーが最初だとか。
 従ってマーニーの精神世界はマルキオーンのように、当時の最先端の知的社会で華々しく活躍した宗教者とは異なり、シリア系の書物文化とイラン系の口承文化に局限されていた。つまり出発点から、「ローカルな知識人」であることを余儀なくされていたのだ。

 だが、そのことは先行者たちと距離を置き、独自の思想を練り上げることが可能となった。マーニーが後年の伝道の過程で、地中海世界の知識人たちが予想しなかったようなイラン系・インド系の思想を積極的に吸収しようと試みたのは、東方辺境に偏在したローカル宗教家として出発したからこそ、初めてなしえたのかもしれない、と著者はいう。
その三に続く

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10 コメント

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マーニー (室長)
2011-08-07 10:24:46
mugiさん、
 マーニーに関する興味深いお話を紹介してくれてありがとう。念のため、Gaberoffのブル百科事典で探してみると、ありました。一応ブルでもマニ教に関して少しは知られているようです。恐らくは、仏語、或いは独語などの百科事典を参考に、ブルの百科事典は編纂されていると思うけど、やはり自由化後に、こういう事典が出版されているのは、すばらしいと思う。1巻本で、1432ページ、定価は60Lv(30ユーロ)で、03年発行です。Ivan Gaberoffを中心に合計15名の学者が中身を書いたようです。琴欧洲出身地のVeliko Tqrnovo市の出版社だから、VT大学の学者達でしょう。
 以下に、記事を翻訳します。
Manes Mani(発音マーニ):216年頃メソポタミヤのKtezifon近郊の生まれ、277年Ktezifonにて死亡。ペルシャの予言者で、maniheystvo(注:この事典の別項によると次の通り:3世紀のペルシャに生まれた教団で、その教義の基本的思想は、全ての宗教には、部分的な真実がある、これらは善導することで一つの世界宗教というべき信仰の創設へと繋がりうる、ということ。創設者は、Mani。マニ教)の創設者。

 若年時代に同人は、Zaratustraの教え(ゾロアスター教)に服し、更にはmandeitsi(注:2-3世紀頃、Efrat川沿岸で生まれた宗教セクトで、キリスト教、インダイズム、自然崇拝の混合的な視点をもつ)のセクト、或いは、elhaizitiのユダヤ・キリスト教的セクトに所属した。(注:elhaizitiに関しては、この事典で別項目の説明がないが、あなたの書いているエルカサイ教団と思われる。)

 天啓を受けた後は、自分自身が創設(242年)した宗教を説きはじめた。自らの故郷では、布教に成功せず、北西インドに赴き、その地の一人の領主を信徒とすることに成功。
 ペルシャに戻り、Shapur1世と会った(242年)。マーニはこの君主に強い感銘を与え、同人は全ペルシャ帝国における布教活動を許可した。これにより多くの信徒を獲得し、更には宣教師団を諸外国に派遣した。
 マーニの死後、マニ教は、広く宣教に成功し、インド、欧州でも信徒を勝ち得た。西側への布教ではスペインまで、東側への布教では中国にまで達した。マニ教は4世紀においては、キリスト教の強力なライバルだった。
 マニ教的な二元論は、中世キリスト教の全ての二元論的な異端--pavlikyan派、bogomil派、masalian派--及び西欧の異端派にも影響を与えた。

以上です。
 まあ、当たらずとも遠からずというか、ブルの自由化後における思想的、文化的な自由が、すぐにこのような形で、ブル語文献としても開花していることに、小生は感動を覚えます。89年年末が変革(Change)の時ですから、03年というと、たったの13年ほどしか経たない時点で、こういう百科事典が生まれているのです。ソフィア市内の街頭の屋台的な書店で、どこでも売っていた事典なのですが、よく見ると、発行部数は1000部という少なさです。ブルという小国で、出版事業が儲からない事業だと言うことがよく分かる。
 それでも、一生懸命、自由に出版できる喜びから、学者らは頑張って良い本を出そうとしたのです。そこがすばらしい。
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RE:マーニー (mugi)
2011-08-07 21:04:29
>室長さん、

 この本の他にも一冊マニ教に関する本を読みましたが、どうもわからない宗教、というのが読後の感想でした。消滅した世界宗教という事情もありますが、「肉食・飲酒・性行の禁止」を掲げ、終生独身で子孫を作らないのが望ましい…というのは引いてしまいます。一般人なら、肉食・飲酒・性行を公認するゾロアスター教のような宗教に共感を覚えるはず。

 ブルの百科事典におけるマニ教の解説の翻訳を有難うございました!キリスト教の異端 bogomil派は中世のブルでも活動していましたよね。この宗教は他宗教の教義や宗教用語を引用、それを自分たちのものに改編する手段に長けており、既存のゾロアスター教やキリスト教聖職者たちが脅威を感じたのも当然だと思います。イスラム世界でもマニ教は信者を出しているし、マニ教徒への凄まじい迫害が行われたそうです。

 ブルの自由化後、内容の充実した百科辞典が発行されたことに貴方は感銘を受けておられますね。ならば、それ以前は百科事典さえ満足になかったということですか。改めて共産主義時代の貧困さが伺えます。
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社会主義時代事典にも記述あり (室長)
2011-08-07 22:54:57
mugiさん、
 社会主義圏、共産主義社会の恐ろしいところは、思想、学問、何でも統制してしまうことです。検閲制度があるから、社会主義時代の百科事典には、真実ではないというか、共産主義思想、体制に関連する項目はわんさとあるけど、それ以外にはないのです。要するに、ウソを教えるのが、社会主義体制の一つの特徴というか。とはいえ、調べてみると、意外にもきちんとありました。

社会主義時代1974年に発行された1巻本の百科事典を見てみましょう。
紙がG版より少し小さいサイズだけど、活字も更に少し小さいから、ほぼ1ページ同じ字数と考えて良いと思うけど、ページ数は975です。

マニ教に関しては、マーニに関する別項目はなく、maniheystvo=マニ教という項目のみ。マルクス史観で説明せねばならないから、やはり内容的には、少しダメになります。

maniheystvo--ペルシャで3世紀後半に出現した宗教教義。奴隷所有社会体制の危機時に、被圧迫民(大衆)達の間に見られた社会的抵抗の一表現。ペルシャ人マーニにより創設された(この故この名称)。
 根本思想としては、善と悪の間の二元論的永遠の闘争という原則がある。マニ教信徒達は、物質的世界を否定する。苦行と、無結婚を説く。
 この教えは、シリア、小アジア、エジプト、その他のローマ帝国諸州、中国、中央アジアなどに流布した。
 3--6世紀、マニ教徒は、残酷な迫害に晒され、マニ教は、徐々に根っこを潰されてしまった。その後は、その他の異端派宗教教義の中に、根本的思想を浸透させた。主として、ビザンツのPavlikyan派の根本教義に浸透したし、これを通じて、Bogomil派にも浸透した。

まあ、奴隷所有制社会、などというマルクス史観の部分などを無視すれば、結構この社会主義時代の事典でも、ある程度はきちんとした説明をしているなぁと、実は今翻訳してみて驚いています。やはり、mugiさんがいつぞや指摘していたようにマニ教は、Bogomil派に、Pavlikyan派の根本教義を経由して、影響を与えていたようです。小生は知らなかったけど。
 だから、ブルの事典では、社会主義時代にかかわらず、けっこうまともにマニ教という項目が、存在しているともいえる。
 なにしろ、Bogomil教派は、社会主義時代に、ある意味中世の一種の「平等主義、共産主義思想」という風に、存外ブルでは高く評価されていたのです。ソ連からの押しつけばかりではない、中世の頃から、ブル国独自の文化としても、こういう宗教、思想があったのだ、ということで、政権として国民に売れる意味合いがあったのが、Bogomil教派の一つの積極的要素でした。それとの関連で、マニ教も、社会主義時代の事典でも、記述があった!!調べてみると、色々予想を覆してくれるというか!
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事典の部数 (室長)
2011-08-07 23:13:34
mugiさん、
 一つ追記すると、社会主義時代のこの事典は、検閲を通じて出版されたはずですが、部数は何と75000部とあります。価格は、10.60Lv(まあ、当時の感覚では、5ドルほど)。
  1970年から編纂開始され、74年2月にようやく検閲も通って、ソフィア市のブル科学アカデミー出版所で印刷されました。
  しかし、7.5万部とは、ブルのような小国としては、思い切った大部数です。そのせいか、1989年に終わった社会主義時代を通じて、これに代わる百科事典としては、?巻本だったかで、完結したかどうか怪しい、より大型の事典があっただけです。この大事典は、小生も一部の巻しか所有していない(P--Rまでが第5巻)。
  結局、この1巻本が小さいけど、使いやすい事典で、結構何時までも重宝しましたし、書店でもほぼ何時も置いていた。要するに、7.5万部も作っても、20年ほどかけても売り切れなかったのではないでしょうか。
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RE:社会主義時代事典にも記述あり (mugi)
2011-08-08 21:19:27
>室長さん、

 1974年に発行された百科事典でのマニ教への記述は興味深いですね。「奴隷所有社会体制の危機時に、被圧迫民(大衆)達の間に見られた社会的抵抗の一表現…」など、典型的なマルクス史観用語が冒頭に出てくる。この手の決まり文句があらゆる学問、思想書に見られたという
ことですか!

 中東史研究家によれば、社会主義時代の東欧圏での考古学や歴史解釈は独特なものがあり、割とユニークな視点のものもあるそうです。それでも何でも「平等主義、共産主義思想」に絡めてしまうし、冷戦後は歴史解釈がかなり様変わりしたとか。
 冷戦時代の旧ソ連や東欧圏では、マーニーから2世紀後に登場したペルシアの宗教家マズダクの研究が盛んに行われていたそうです。「原始共産主義運動」とも呼ばれたマズダク教のことは以前記事にもしましたが、「原始共産主義」による社会的抵抗はペルシアに大混乱をもたらしたのです。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/dcdd7cb1c21bedf0119f22e33c99f66e 
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RE:事典の部数 (mugi)
2011-08-08 21:20:16
>室長さん、

 先に紹介された百科事典の発行部数が7.5万部とは、ブルの人口を考えれば本当にすごい部数です。日本の百科事典でもここまで作るのでしょうか?これも共産主義社会の特徴なのでしょうか。事典の発行も計画生産となっていたのやら。
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事典の部数(2) (室長)
2011-08-08 22:22:50
mugiさん、
本当に、7.5万部という数字は、Gaberoff版が1000部という少なさなのと対照的で、要するに、他の百科事典は当分でないから、この部数でも売れると見たか、或いは、偶々良い紙が沢山輸入できたから、部数を思い切って沢山刷ったとか、偶発的要素が強い気がする。
 ともかく、この1巻本百科事典の紙は、薄手の結構高級紙ですから、自国では作れなかったと思う。
 なにしろ、20年間も、同じ百科事典が、改訂もされずずっと売られていた。
 なお大百科事典は、検閲もうるさくなった時期に、しかも色々盛り込もうとして、完成が遅れてしまい、結局完結しなかったのではないかと思う。
 Oxford大辞書に匹敵するブル語の大辞書を作ろうとして、学者達が動いていたけど、やはりまともな報酬も期待できない時代に、学者達が頑張るというのも難しいのか、やはり最初の数巻は出来たけど、最後まで完成しなかった。残念なことです。
 小生がブルにいた02--05年の頃は、ハリーポッターとか、翻訳本が多くて、自前の作品が少ない、という感じだった。でも、町の中に、屋台風の本屋が増えて、新刊本も色々出るから、楽しかった。
 新聞も、本当に多種類、沢山出ていて、毎日読むのが楽しかったです。
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RE:事典の部数(2) (mugi)
2011-08-09 21:12:19
>室長さん、

 社会主義時代に発行された百科事典の紙は、結構高級紙ゆえに自国では作れなかったのですか??紙を何処から輸入していたのかは不明ですが、これも社会主義の結果なのでしょうか?自前でよい製品を作れないのは、機械や部品といった工業製品に限らなかったとは。またしても驚きます。
 高級紙を自国で生産でき、簡単に手に入る日本にいると、それが当たり前に感じてしまいます。
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人口 (室長)
2011-08-10 18:47:32
mugiさん、
 社会主義時代のブルで、高級紙が自前で作れたはずはない、との小生の見解に驚いておられるようですが、ブルの人口は、社会主義時代でも8百万程度、千葉県が確か5百万ですし、恐らく茨城県も足せば、ブルの人口となる。この日本の二つの県でさえ、その富裕さ、生産力の大きさは、社会主義時代のブルに比べて極めて大ですから、高級紙が作れないくらいは、当たり前というか。
 どこから輸入したかは、知らないけど、もしかすると西側から輸入したのではないか。ソ連圏、東欧圏では、ソ連なら森林資源が豊富で、高級紙も作れたかも知れないけど。
 まあ、紙に関しては、なにしろトイレットペーパーも、ティシューも、何もなかったのですから。もっとも、自由化後には、社会主義時代からの紙工場でトイレットペーパーを作り出していたから(しかも、白くて品質はかなり良かった)、要するに、原材料をどうにか入手するとか、売れるものを作る、と言う意識があれば、技術的には可能なことなのかも。
 社会主義時代は、ともかく庶民のニーズに対応しようという、国家としての意識、或いは企業としての意識が、あまりにも無さ過ぎた。
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RE:人口 (mugi)
2011-08-10 21:41:40
>室長さん、

 確か以前、貴方から社会主義時代のブルはトイレットペーパーさえ満足に作られていなかった…というコメントを頂いたことがありましたね。トイレットペーパーさえないのだから、まして高級紙などあるはずもなかった!つい、失念してしまいました。
 これも日本にいると、トイレットペーパーがあるのが当たり前となってしまうのです。震災後の東北でトイレットペーパーが一時不足したといえ、全く手に入らない訳ではなかった。

 対照的に自由化後のブルでは、自国の紙工場できちんとした製品を製造している。識字率は申し分のないはずのブルで、体制が異なるとこれほど短期間で差が出るとは。
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