トーキング・マイノリティ

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加害者としてのイスラム

2005-09-01 21:59:42 | 読書/インド史
 わが国のマスコミの中東取材には一定のパターンがある。それは決まってイスラム=欧米の被害者という型だ。特にアラブの国々を取材する際には貧しい家庭 の子供をクローズアップするやり方は、どの局も似通っていて協定でも結んだのかと、皮肉りたくなるほど。一方で中露に弾圧されるウイグルやチェチェンの子 供たちなど存在しなかったように、だんまりを決め込んでいるが。
 面白いのは親アラブの学者がイスラムの提灯持ちよろしく十字軍を取り上げること。が、十字軍と同じ頃、南アジアではイスラムが加害者だった歴史を知る人は少ない。以下はインド側からの記録である。

 「イスラム教徒が征服者の装いをもって剣を手にしてインドに入り、そこに激しい反動が生まれ、昔の寛容が憎悪と抗争に道を譲ったのは11世紀に入ってからのことだった。このインドで放火と虐殺を行った剣の使い手はガズナマフムード(位 998~1030)だった。 毎年のように彼はインドに侵入し、略奪、虐殺を繰り返し、夥しい財宝と捕虜を持ち帰った。あわせて17回彼は侵入し、其のう ち唯一度だけ-カシミール侵攻-失敗したに過ぎなかった。その他は戦うたびに勝ちを占め、かくて北部一帯の恐怖の的となった。
 彼は遠く南のパー タリプトラ、マトゥラー及びソームナートにまで達した。タネーシュワラからは20万の捕虜と巨額の富を持ち去ったという。しかし、彼がもっとも多くの財宝 を略奪したのはソームナートだった。マフムードが一度近付くと、何万という人々が奇跡が現れるのを願って寺院に隠れたといわれる。しかし、奇跡などという ものは信者の空想の中でもなければめったに起こるものではない。それで寺院は破壊され、マフムードの為に略奪され、5万人が当てにならぬ奇跡を待ちながら 皆殺しにされた」
 -<父が子に語る世界歴史 第2巻 中世の世界、J.ネルー著>から一部抜粋

 この後も主にトルコ系を 中心にインド侵攻が続くが、この間、夥しい寺院、神像は破壊され、人民を脅しつけるためにしきりに虐殺が行われた。ヒンドゥー教徒は現代でもこれを憎み、 ぐずる子供に母親はマフムードの名前を口にするという。しかし、“学者さん”は続けてこう記している。

 「マ フムードは1030年に死んだ。事実は彼は何も宗教的な人間ではなかった。彼はもちろんマホメダン(イスラム教徒)ではあったが、それは付随的なことだっ た。何よりもまず彼は軍人であり、しかも武勲を立てた軍人だった。彼はインドに来て、残念ながら軍人なら誰もがするように征服と略奪を行った。たとえ彼が何の宗教を信じていたにしても結局同じことをしただろう。私達は、だからマフムードを、武勲に輝く軍人以上のものと見る一般の過ちに陥ってはいけない」

 もちろん、こんな見方をするのはヒンドゥーでも稀である。イスラム側はインドへの布教の布石と見なしている。


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