6月14日の河北新報に近著『こころの座標軸』(婦人之友社)が出たばかりの作家・犬養道子 氏へのインタビュー記事が載った。犬養氏は5.15事件で暗殺された犬養毅の孫娘で、かつては“国際人”とマスコミの寵児だった人物。彼女は'70年代から世界中の難民支援活動を行ってきたが、インタビューでその体験が語られているので、記事を紹介したい。
「難民に決して聞いてはいけないのは、どこを通ってきたかという問いです。答えようとすると、一切の思い出が甦る。ボランティアの基本的な素養は人の痛みが分かること。
これまで多くの日本の若い人を難民支援ボランティアなどとして現地に送るお手伝いをしました。その中で素晴らしい活動をして驚かされたることがあるのは、 所謂不良と呼ばれ、原宿や渋谷をさまよっていた少女たちでした。彼女たちは自分を表現できず、いらだっているだけ。痛みを知っているし、人への思いやりも ある。同年代の難民の話をすると聞き入ってくれます。立派な大学の女の子たちは現地では何をしていいか分からないようでへっぴり腰。善意だけでは駄目です。
多くのキャンプで体験したのが50-60代の人生経験をつんだボランティアが一番喜ばれるということ。体力的には若い人に敵わない。でも彼らは粘りがあって臨機応変。マニュアルなしでその時々に必要なことができるから」
犬養氏は一昔前は数々の著作を書き、国際通文化人として有名だったが、現代は過去の人となったのは否めない。かなり前に彼女の本を立ち読みしたことがあるが、印象は極めて悪かった。その理由は典型的な「出羽の守」だった。日本在住の欧米人の不満を一々取り上げる姿勢はまるでメイドのようだ、と感じたものだ。
そして彼女も立派な大学出で、初めて海外に出た時には何をしていいか分からないようなへっぴり腰のお嬢さんだったはずだが、人は昔の失敗談は忘れたがるものらしい。
犬養氏と同じく海外在住体験の長い作家・塩野七生 氏は、'80年代半ばに書かれたエッセイ『サイレント・マイノリティ』で「外国ボケの弁明」という章で、外国に長く住んだためにボケた人々について記している。その中の面白い一文を抜粋したい。
「外国のモロモロを手本にして、日本のモロモロを叱る類の論調は、一昔前の日本のマスコミを風靡していたものであった。今でも、その当時このやり方でモテた何人か、まだ残影を引きずっている人がいる。
しかし、この傾向は幸いにその後、ノーキョーをはじめとする日本人の海外旅行熱の爆発のお陰で、流行らなくなってしまった。日本人の海外渡航がなかなか簡 単にはいかない時代では、海外に行けたり住めたりすることは特権に恵まれることで、その人たちはその特権をフルに活用して、もてない人々をお叱りあそばし たというわけだろう」
塩野氏は「日本のモロモロを叱る類」の名指しこそしなかったが、私はこの章を見て、真っ先に思い浮かんだのが犬養氏。'80年代半ばには既にマスコミの第一線から退いていた。世界の難民支援活動に力を入れていたのもあるかもしれないが、その行為を讃えられても「外国では当り前ですよ」と答えていた。外国といえその活動をしてるのは欧米だが、欧米でも実際に難民支援に取り組む人など少数派なのは言うまでもない。
難民支援団体にはかなりいかがわしいもあり、実はカルトや過激派、暴力団のダミーだったりする組織すらある。世間知らずの善意の若者を騙すなど造作もないが、問題のある団体はまた騙し方が狡猾だ。
NHKの朝のニュース番組の司会がまだ三宅キャスターだった頃、帰国した犬養氏がTV出演したことがある。その時の論調はこうだった。茶髪にして原宿や渋谷をさまよっていた若者を「一体何をやっているのだ、世界では大変なことが起きているのに」 と開口お叱り。明るい三宅キャスターも閉口気味だったのを憶えている。確かに原宿あたりにたむろする茶髪の若者たちは軽薄だが、欧米世界のスキンヘッドの お兄さんの方がマシだとでもいうのだろうか?この姿勢は戦時下に「この非常時に」と高圧的に周囲の人々をお叱りしていた大日本婦人会の女性を髣髴させた。
数年前、犬養氏は難民支援活動のため滞在したクロアチアから帰国。現在は神奈川県奏野市にある高齢者専用住宅で暮らす。外国人との交友の広さを誇っていたはずだが、老いて結局は日本に戻ったのだ。彼女は今の心境をこう語る。
「ここは終の住処ではないのよ。出来たら最貧国に行きたい。アフリカにはとても心ひかれるものがあるし。ここはとても豪華で快適。でもこの快適さにはコンフォータブル(快適)でない。何か嘘をついているような気持ちになる…」
日本ボケからすれば、海外滞在が長すぎて、何やら根無し草になってしまったようだ、と書けば意地悪だろうか。結婚歴もなく子供もいない犬養氏なら、他の住宅の住民と付き合うよりも、アフリカ難民と向き合う方が性に合っているかもしれない。今流行の言葉を使えば自分探しを追求してるようにも思える。彼女がボランティアに送り出した原宿や渋谷をさまよっていた少女たちのように。
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「難民に決して聞いてはいけないのは、どこを通ってきたかという問いです。答えようとすると、一切の思い出が甦る。ボランティアの基本的な素養は人の痛みが分かること。
これまで多くの日本の若い人を難民支援ボランティアなどとして現地に送るお手伝いをしました。その中で素晴らしい活動をして驚かされたることがあるのは、 所謂不良と呼ばれ、原宿や渋谷をさまよっていた少女たちでした。彼女たちは自分を表現できず、いらだっているだけ。痛みを知っているし、人への思いやりも ある。同年代の難民の話をすると聞き入ってくれます。立派な大学の女の子たちは現地では何をしていいか分からないようでへっぴり腰。善意だけでは駄目です。
多くのキャンプで体験したのが50-60代の人生経験をつんだボランティアが一番喜ばれるということ。体力的には若い人に敵わない。でも彼らは粘りがあって臨機応変。マニュアルなしでその時々に必要なことができるから」
犬養氏は一昔前は数々の著作を書き、国際通文化人として有名だったが、現代は過去の人となったのは否めない。かなり前に彼女の本を立ち読みしたことがあるが、印象は極めて悪かった。その理由は典型的な「出羽の守」だった。日本在住の欧米人の不満を一々取り上げる姿勢はまるでメイドのようだ、と感じたものだ。
そして彼女も立派な大学出で、初めて海外に出た時には何をしていいか分からないようなへっぴり腰のお嬢さんだったはずだが、人は昔の失敗談は忘れたがるものらしい。
犬養氏と同じく海外在住体験の長い作家・塩野七生 氏は、'80年代半ばに書かれたエッセイ『サイレント・マイノリティ』で「外国ボケの弁明」という章で、外国に長く住んだためにボケた人々について記している。その中の面白い一文を抜粋したい。
「外国のモロモロを手本にして、日本のモロモロを叱る類の論調は、一昔前の日本のマスコミを風靡していたものであった。今でも、その当時このやり方でモテた何人か、まだ残影を引きずっている人がいる。
しかし、この傾向は幸いにその後、ノーキョーをはじめとする日本人の海外旅行熱の爆発のお陰で、流行らなくなってしまった。日本人の海外渡航がなかなか簡 単にはいかない時代では、海外に行けたり住めたりすることは特権に恵まれることで、その人たちはその特権をフルに活用して、もてない人々をお叱りあそばし たというわけだろう」
塩野氏は「日本のモロモロを叱る類」の名指しこそしなかったが、私はこの章を見て、真っ先に思い浮かんだのが犬養氏。'80年代半ばには既にマスコミの第一線から退いていた。世界の難民支援活動に力を入れていたのもあるかもしれないが、その行為を讃えられても「外国では当り前ですよ」と答えていた。外国といえその活動をしてるのは欧米だが、欧米でも実際に難民支援に取り組む人など少数派なのは言うまでもない。
難民支援団体にはかなりいかがわしいもあり、実はカルトや過激派、暴力団のダミーだったりする組織すらある。世間知らずの善意の若者を騙すなど造作もないが、問題のある団体はまた騙し方が狡猾だ。
NHKの朝のニュース番組の司会がまだ三宅キャスターだった頃、帰国した犬養氏がTV出演したことがある。その時の論調はこうだった。茶髪にして原宿や渋谷をさまよっていた若者を「一体何をやっているのだ、世界では大変なことが起きているのに」 と開口お叱り。明るい三宅キャスターも閉口気味だったのを憶えている。確かに原宿あたりにたむろする茶髪の若者たちは軽薄だが、欧米世界のスキンヘッドの お兄さんの方がマシだとでもいうのだろうか?この姿勢は戦時下に「この非常時に」と高圧的に周囲の人々をお叱りしていた大日本婦人会の女性を髣髴させた。
数年前、犬養氏は難民支援活動のため滞在したクロアチアから帰国。現在は神奈川県奏野市にある高齢者専用住宅で暮らす。外国人との交友の広さを誇っていたはずだが、老いて結局は日本に戻ったのだ。彼女は今の心境をこう語る。
「ここは終の住処ではないのよ。出来たら最貧国に行きたい。アフリカにはとても心ひかれるものがあるし。ここはとても豪華で快適。でもこの快適さにはコンフォータブル(快適)でない。何か嘘をついているような気持ちになる…」
日本ボケからすれば、海外滞在が長すぎて、何やら根無し草になってしまったようだ、と書けば意地悪だろうか。結婚歴もなく子供もいない犬養氏なら、他の住宅の住民と付き合うよりも、アフリカ難民と向き合う方が性に合っているかもしれない。今流行の言葉を使えば自分探しを追求してるようにも思える。彼女がボランティアに送り出した原宿や渋谷をさまよっていた少女たちのように。
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ちなみに私は自分が食べて行くのに精一杯ですので
ボランティア精神はカケラもありません。
そしてボランティアで何かが変わるとも思いません。
最後に限らず犬養さんの台詞は終始突っ張り気味ですね。
昔立ち読みした時も感じましたが、老いても全然変わっていない。
案外ボランティア活動も、「世界(欧米)の人がやっているから」が動機かも。彼らに褒められる事が、何よりも励みになるのでしょう。
たとえたらふく食える大金持ちでも、必ずしもボランティア活動をすると限らないから、個人の性格が大きい。
私はもし機会があれば、ボランティアは悪くないと思いますが、これも人助けよりも変わった体験をしてみたいから。
つまり、好奇心からです。ただし、海外ではなく国内。
私も犬養氏の主張には、首を傾げたいところがあります。例えば、難民に対し経緯を聞く事が、何故いけなないかとか理解しかねます。確かに、無理やり、すべてのことをしつこく聞く事は失礼かもしれませんが、今後の援助の仕方が変わってくるかもしれません。また、こういう言い方は失礼かもしれませんが、難民を装った者かもしれませんし。何か難民に対し、上から見下ろしているようで(自分は援助してやっているという、傲慢な態度で)、違和感を感じます。
また、少女に限らず、どんな職場でも、入りたての者は右も左も分からないと思います。そういう者に対し、ルールや手順を教えるのが、上司や先輩の仕事の一つだと思うのですが。確かに年季を重ねた方の方が、無難なくこなすかもしれませんが、若手からの刺激・新陳代謝のない職場の先は見えてくると思います。これは、スポーツの世界でもそうで、ベテランはそのうち力は衰えるだから、それに取って代わろうとする若手がいなければ、時に”なあなあ”になったり、現状に甘えてしまう。私が勤めている会社もそうなので、実感としてそう思います。
(ボランティアが組織として動く為には、善意だけではダメでしょうけど、基本は善意であると思います。それを高みに立って若い者を批判するだけでは、何か勘違いしているように思えてなりません。)
最後に、私も時々、「~では○○だ」という言い方をしますが、それに対し、見習うべきとして引用する場合だけでなく、日本や、その他では通用しない、間違った場合の例でも使用します。例え「世界は○○だ」といっても、必ずしもその世界の中にすべての国が当てはまるという分けではないでしょうに。また、こういう言い方をする場合、日本に対し、遅れていることを非難することが多いですが、本当にすべてが日本は遅れているとは思えません。「日本の常識は世界の非常識」とよくいわれますが、果たしてそうでしょうか?宗教や経済などで、思考が硬直している世界よりも、日本の方が合理的な場合や、人の気持ちを考慮していることも、少なからずあるはずです。他山の石は参考にするものであって、コピーするものではないはずです。
(移民に対し、人権に寛大だったはずのフランスで暴動が起こったり、先の大戦で反省しているはずのドイツで、ネオナチ運動が起こったり。IWCの欧米の反対者の多くが宗教的な感情論であって、全く科学的根拠に欠けるものであったり(そのくせ、自国の先住民の存在を口実に、捕鯨を行っている、大国の姿勢など)、世界の多くは私利私欲の、無法がまかり通る世界であることも理解するべきでしょうね)。
こういう私は、おそらく、犬養氏のような者から見れば、世間知らずの若造なのでしょうね。
(出羽の神も、引用だけでなく、自分の考えを示さなければ、何がいいたいのかはっきり分からないことも、少しは理解してもらいたいものですね。)
私もニセ難民がいる可能性が大だと思います。自分が助かるために、いくらでも嘘をついて生きのびようとするのが人間の性です。
ただし、必ずしも黙っている難民ばかりではなく、自分たちがどんな目にあったか、支援者を捉まえて延々しゃべる者もいます。同情と支援を得るために。
私は犬養氏が不良少女には優しく、優等生には厳しいのが面白いと思いましたね。劣等感が強く群れたがる若者は年長者から優しくされると、意外に従順に言うことを聞く傾向があります。その心の隙を狙い、カルトや過激派が勧誘したりするそうです。逆に優等生には我が強く、年長者にも反論する者もいます。犬養氏のようなタイプは従順な元不良少女の方が御しやすい。彼女らは元からさして我がありませんから。
ボランティアするのは立派ですが、だからといえ、しない者を叱りつけるのでは、その人間の狭量さを見た思いですね。「出羽の神」の特徴は欧米人には小間使いのような姿勢を取る反動で、同胞には尊大な主人の如く振舞う事。
フランス、ドイツが人権国家や過去と向き合う国如きは、犬養氏のような「出羽の神」たちが植え付けた幻想に過ぎません。
いくら年を重ねても世間知らずの人はいますよ。何年海外滞在しても、その国の実情は分からない人は分からない、と言ったのは塩野氏ですが、「出羽の神」で通してきた犬養氏はもう変更も出来ないでしょう。そもそも「話せば分かる」で殺害された政治家の孫なので、世界は腹黒い事実が生涯見えない人だと思いますね。
先ず、10年以上前の記事にコメントすること自体(しかも挨拶なし)、呆れると同時に苦笑させられました。渡辺和子氏の著書は未読ですが、氏も犬養氏と同じくカトリック。もしかして貴方もクリスチャン?昨年11月にも10年以上前の記事をチェック、詰問してきたクリスチャンがいた。初書込みで挨拶なしという不躾さもクリスチャンらしい。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/9c40e4a0b49594e02d617515a0e539f1
犬養氏を「いつまでたっても未熟」と言いつつ、難民支援を一生懸命やっている人には素直に敬意を払いたいと結局は称賛。端からそれが目的だろうし、貴方が氏に敬意を払うのは自由です。しかし私は、生涯独身の物書きよりも家庭をもって仕事を続けた女性の方に素直に敬意を払います。