その①の続き
マイソールは同時代に見られた経済的な後進性と無縁ではなかったが、ハイダル・アリーとティプー・スルターン父子のもとで経済的な繁栄を得たと言える。1799年にティプーを打倒してマイソールの支配に乗り出したイギリスは、自分たちが支配したマドラス(現チェンナイ)地域の農民に比べ、マイソールの農民が遥かに豊かであることに驚嘆した。1793年から98までインド総督だったジョン・ショアは後にこう記した。「彼(ティプー)の支配地の農民たちはよく庇護され、彼らの労働は奨励され、かつ正当な見返りが保障されている」。別のイギリス人観察者もティプーのマイソールを「よく耕作されており、勤勉な住民に溢れ、町は新しくつくられ、商業が発展しつつある」と書いた。
ティプーは外国人の職人を専門家として招き、産業を国家として援助することにより、インドに近代的な産業を興そうと試みる。海外貿易を促進するため、フランス、トルコ、イラン、ペグー(ビルマ)などに使節を派遣、中国とも交易を行った。さらには欧州の東インド会社を真似た交易会社の創設さえもくろみ、西欧の交易のやり方を模倣しようとさえした。彼は港町に国営交易所を設置し、ロシアとアラビアとの交易推進も図る。
イギリスの歴史家の中にはティプーを狂信者として描いた者もいるが、これは異なる。彼の宗教的見解は正統派だったが、他宗教に対し寛容で開明的な態度で臨んだ。彼自身はムスリムだがヒンドゥー寺院にも定期的に貢納している。ティプーはヒンドゥーやキリスト教徒の臣民の大半には理解と寛容をもって接するも、マイソールに敵対するイギリスを間接的、直接的に支援した者には厳しい態度を取る。
18世紀後半、イギリスはインドの現地政権に対し、「軍事保護同盟」政策を盛んに取るようになる。この政策ではインドの藩主国は領土内のイギリス軍を常時駐屯させ、その維持のための駐留費を支払わされた。名目上はインド政権の保護だったが、実際はインドの支配者が会社に貢納金を払う制度でしかなかった。時に現地支配者は年間の駐留費の代わりに領土の一部を割譲した。軍事保護条約には大抵、イギリスの許可なしに欧州人を雇わないこと、総督の相談なしに他のインド人支配者と交渉せぬこと、などの条項が盛り込まれていた。同盟国の内政に干渉しないとの約束はあったが、イギリスがそれを殆ど守らなかったのは書くまでもない。
イギリスは同盟国の防衛と外交を握り、同盟国の心臓部に軍隊を駐屯させたので、イギリスが望めばインド人支配者を無能と決め付け、彼を地位から追い払い領土を併合することも可能だった。
ティプーは軍事保護条約のようなものには当然同意せず、第三次マイソール戦争で領土を半分失ってさえも、イギリスとの不可避的な戦いに備え、軍事力強化に努める。彼はフランス革命政府と同盟を結ぼうと交渉を始め、さらにアフガニスタンやアラビア、トルコにも使節を送り、反英同盟を立ち上げようとした。
1799年、イギリスはフランスの援軍が到着する前にティプーを攻撃、打ち負かす(第四次マイソール戦争)。しかしティプーは屈辱的な条件で講和を結ぶのを拒否、こう宣言する。「年金受給者のラージャーやナワーブ(太守)のリストに名を連ねて、不信心者たちのお情けで惨めに生きるよりも、軍人として死ぬほうがましである」。
ティプーは首都シュリーランガパトナム(現バンガロール)の攻防戦で、同年5月自ら剣と銃を執って奮戦、壮絶な死を遂げた。彼の軍隊は最後まで彼に忠誠を守った。ティプーの死体を発見した絵が何枚も描かれていることから、イギリス側がいかに彼の打倒に意義を持っていたのかが伺われる。
ティプーの領土のほぼ半分がイギリスとその同盟者ハイダラバード王国の間で分割され、縮小したマイソール王国は父ハイダル・アリーにより廃絶されたウォデヤ家の子孫に与えられる。新国王には当然ながら軍事保護条約が押し付けられた。かくしてマイソールは事実上東インド会社の支配下に置かれる。フランスもインドでの覇権争いに敗れ、この後インド諸藩は軒並みイギリスの軍門に下るようになる。
それにしても、イギリスの「軍事保護同盟」システムとは、現代の超大国の同種の同盟と何と酷似していることか!覇権国家のやり方はいつの時代も大同小異といったところか。日米ナントカ条約もその亜流だろう。
インドの藩主の中でイギリスと正面から戦ったのはティプーくらいだった。そのため、現代も地元マイソールばかりか全土で民族的英雄として尊敬されている。80年代初めマイソールを旅行した妹尾河童さんは、地元のガイドからティプーのウンチクを散々聞かされたそうだ。
■参考:「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著、山下出版社 「河童が覗いたインド」妹尾河童著、新潮文庫
よろしかったら、クリックお願いします
マイソールは同時代に見られた経済的な後進性と無縁ではなかったが、ハイダル・アリーとティプー・スルターン父子のもとで経済的な繁栄を得たと言える。1799年にティプーを打倒してマイソールの支配に乗り出したイギリスは、自分たちが支配したマドラス(現チェンナイ)地域の農民に比べ、マイソールの農民が遥かに豊かであることに驚嘆した。1793年から98までインド総督だったジョン・ショアは後にこう記した。「彼(ティプー)の支配地の農民たちはよく庇護され、彼らの労働は奨励され、かつ正当な見返りが保障されている」。別のイギリス人観察者もティプーのマイソールを「よく耕作されており、勤勉な住民に溢れ、町は新しくつくられ、商業が発展しつつある」と書いた。
ティプーは外国人の職人を専門家として招き、産業を国家として援助することにより、インドに近代的な産業を興そうと試みる。海外貿易を促進するため、フランス、トルコ、イラン、ペグー(ビルマ)などに使節を派遣、中国とも交易を行った。さらには欧州の東インド会社を真似た交易会社の創設さえもくろみ、西欧の交易のやり方を模倣しようとさえした。彼は港町に国営交易所を設置し、ロシアとアラビアとの交易推進も図る。
イギリスの歴史家の中にはティプーを狂信者として描いた者もいるが、これは異なる。彼の宗教的見解は正統派だったが、他宗教に対し寛容で開明的な態度で臨んだ。彼自身はムスリムだがヒンドゥー寺院にも定期的に貢納している。ティプーはヒンドゥーやキリスト教徒の臣民の大半には理解と寛容をもって接するも、マイソールに敵対するイギリスを間接的、直接的に支援した者には厳しい態度を取る。
18世紀後半、イギリスはインドの現地政権に対し、「軍事保護同盟」政策を盛んに取るようになる。この政策ではインドの藩主国は領土内のイギリス軍を常時駐屯させ、その維持のための駐留費を支払わされた。名目上はインド政権の保護だったが、実際はインドの支配者が会社に貢納金を払う制度でしかなかった。時に現地支配者は年間の駐留費の代わりに領土の一部を割譲した。軍事保護条約には大抵、イギリスの許可なしに欧州人を雇わないこと、総督の相談なしに他のインド人支配者と交渉せぬこと、などの条項が盛り込まれていた。同盟国の内政に干渉しないとの約束はあったが、イギリスがそれを殆ど守らなかったのは書くまでもない。
イギリスは同盟国の防衛と外交を握り、同盟国の心臓部に軍隊を駐屯させたので、イギリスが望めばインド人支配者を無能と決め付け、彼を地位から追い払い領土を併合することも可能だった。
ティプーは軍事保護条約のようなものには当然同意せず、第三次マイソール戦争で領土を半分失ってさえも、イギリスとの不可避的な戦いに備え、軍事力強化に努める。彼はフランス革命政府と同盟を結ぼうと交渉を始め、さらにアフガニスタンやアラビア、トルコにも使節を送り、反英同盟を立ち上げようとした。
1799年、イギリスはフランスの援軍が到着する前にティプーを攻撃、打ち負かす(第四次マイソール戦争)。しかしティプーは屈辱的な条件で講和を結ぶのを拒否、こう宣言する。「年金受給者のラージャーやナワーブ(太守)のリストに名を連ねて、不信心者たちのお情けで惨めに生きるよりも、軍人として死ぬほうがましである」。
ティプーは首都シュリーランガパトナム(現バンガロール)の攻防戦で、同年5月自ら剣と銃を執って奮戦、壮絶な死を遂げた。彼の軍隊は最後まで彼に忠誠を守った。ティプーの死体を発見した絵が何枚も描かれていることから、イギリス側がいかに彼の打倒に意義を持っていたのかが伺われる。
ティプーの領土のほぼ半分がイギリスとその同盟者ハイダラバード王国の間で分割され、縮小したマイソール王国は父ハイダル・アリーにより廃絶されたウォデヤ家の子孫に与えられる。新国王には当然ながら軍事保護条約が押し付けられた。かくしてマイソールは事実上東インド会社の支配下に置かれる。フランスもインドでの覇権争いに敗れ、この後インド諸藩は軒並みイギリスの軍門に下るようになる。
それにしても、イギリスの「軍事保護同盟」システムとは、現代の超大国の同種の同盟と何と酷似していることか!覇権国家のやり方はいつの時代も大同小異といったところか。日米ナントカ条約もその亜流だろう。
インドの藩主の中でイギリスと正面から戦ったのはティプーくらいだった。そのため、現代も地元マイソールばかりか全土で民族的英雄として尊敬されている。80年代初めマイソールを旅行した妹尾河童さんは、地元のガイドからティプーのウンチクを散々聞かされたそうだ。
■参考:「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著、山下出版社 「河童が覗いたインド」妹尾河童著、新潮文庫
よろしかったら、クリックお願いします