トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

略奪の大地

2009-03-18 21:22:48 | 映画
 ブルガリアといえば大半の日本人が思い浮かべるのは、某大手メーカーのヨーグルトと琴欧州関くらいだろう。一般に日本では知られざる国だが、私が唯一見たブルガリア映画がある。1988年作の『略奪の大地』がそれで、オスマン帝国軍の侵攻を描いた史劇。この作品はブルガリア国内でも話題となり、あらすじを紹介したサイトもある。トルコを徹底した“悪の帝国”として描いた映画でもあった。

 17世紀後半、オスマン帝国支配下のブルガリアにトルコ騎兵隊長カライブラヒムが軍団を率い侵攻してくる。彼は行く先々でイスラムの改宗を迫り、逆らう現地人には虐殺と迫害で報いた。自ら“野獣”と称する冷酷なカライブラヒムはある村に向かうが、そこは彼の生まれ故郷だった。故郷の村に着いた彼は、改宗を拒む村人に10日の猶予を与える。
 猶予があるといえ、村の婚礼の場を急襲した騎兵隊は殺人、強姦、連行…思うままの残虐行為を働く。己に口答えした美しい村の女に対し、「この女を抱いた者には金貨を与える」と命じるカライブラヒム。兵士達が喜んで輪姦したのは言うまでもなく、女は嬲られた挙句、息が絶える。

 それでも改宗を拒む村人に対し、カライブラヒムは見せしめのため串刺し刑を執行。村には実の弟がおり、兄を暗殺に来たといえ、弟も殺害、さらにタブーを侵すことになるとの側近の反対を無視し、自分の父親までも処刑する。身内まで殺害したカライブラヒムの残虐さは止め様もなく、さらに弾圧を繰り返す…

 オスマン帝国最強と謳われた歩兵軍にイェニチェリ(新しい軍隊の意)がある。これは支配地のキリスト教徒から優秀な子弟を徴集、イスラムに改宗させイェニチェリなどに採用するデヴシルメ(徴集の意)制度が基となっている。この作品で「イェニチェリ」の言葉は出なかったが、カライブラヒムが元キリスト教徒で、村から徴集されたことが描かれている。彼の回想シーンにも息子を徴集され泣き叫ぶ母の姿が幾度も登場する。彼が故郷の村に戻った時、既に母は死亡していたが、そのことが残虐行為に拍車をかけたのだろうか。

 イスラムに好意的な歴史家はオスマン帝国のデヴシルメ制度を、定期的に優れた人材を確保したシステムとして高評価する者もいる。確かにその解釈はある面は正しいし、将来を見込んで自ら子供を託したキリスト教徒もいたのは事実である。ただ、被支配者側からは子供を徴集した制度として、激しい憎悪も受けていた。一方、16世紀のオスマン朝の歴史家サデッディーン(ホジャ・エフェンディ)によるデヴシルメの説明から、その真の意図が分る。

近い将来、異教徒の子弟から軍務に適した勇壮で勤勉な若者を選び、イスラムの信仰によって臣従させる。これは彼らを豊かで信心深くさせる方法であると同時に、異教徒の拠り所を突き崩す手段ともなりうる。これを実行するために国王の代理人数名が実施に当たり、命令書をもって数カ国に出向き、異教徒の子弟千人を徴集し傭兵と同様の規律と訓練に従わせる…
 これによって彼らを信心深い人間に転向させ、皆同じ一つの信仰の元に勤務を続けさせる。そうすれば、イスラムによる啓蒙の光が彼らの心に射し込み、似非信仰の汚染からその心を浄化してくれるであろう…


 映画の後半、カライブラヒムが村の幼子ミルチョに「改宗か、死か」と迫るシーンがある。やむなく改宗をしたミルチョにその証として、地面に十字架を指で描き、それに唾棄するよう命じ、実行したミルチョの表情は忘れ難い。たかが砂の上の十字架程度では済まされないことであり、信仰深い者には棄教と同じようなものだろう。その幼子こそがカライブラヒムを倒すことになる。

 隣国は不仲なのが常だが、トルコに5世紀も支配されたゆえ、ブルガリアでは反トルコ感情が特に強いといわれる。まだブルガリアが共産主義政権だった1988年のソウル五輪の際(この映画制作と同年)、トルコ系の重量挙げ選手スレイマノグルがトルコに亡命した事件を憶えている。少数派トルコ系住民にブルガリア式の名前に変更するよう強制したのが主な原因だったとか。名称だけでなく日常生活でも様々な差別を受けていたという。当時の日本の報道ではスレイマノフと呼んでいたが、亡命後はトルコ式にスレイマノグルと改名したそうだ。

 カライブラヒムのように惨い迫害で異教徒に改宗を迫ったムスリムがいたのは確かである。だが、イスラム世界ではむしろジズヤ(人頭税)を負担することで異教を認めるのが大半であり、臣民全てがイスラムに改宗すれば税収入がかなり減るので、オスマン帝国は改宗活動には後ろ向きだった。デヴシルメ制で徴集、改宗した元キリスト教徒も、やがて特権化、帝国の屋台骨を揺るがすようになる。

 この作品は17世紀後半の物語だが、近代も弾圧はあったことが「ブルガリア研究室」氏のコメントにも記されている。
-トルコ帝国がバルカン半島でキリスト教徒住民の弾圧に乗り出したのは、フランス革命の影響、ロシアの帝国主義がバルカン諸国のキリスト教徒の間に「民族主義」運動(革命運動とも称した)を発生させ、反乱が生じ始めたから…
 オスマン帝国政府はカルジャリと呼ばれる私兵軍団などのならず者を投入して、残酷な弾圧、略奪、放火、強姦などを容認したので、恨みが後世にまで残った…

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15 コメント

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対トルコ憎悪? (室長)
2009-03-19 10:37:17
mugiさん、このブルガリア映画は、小生は見ていませんし、17世紀という段階でこのような悲劇があったとは、本当に史実なのかどうか極めて疑問に思う。制作年が1988年というと、ゴルバチョフのペレストロイカ政策に反発した独裁者トードル・ジフコフが、国内の民主化要求(環境保護運動の形をとっていた)を抑圧し、国民の意識をペレストロイカから逸らす意味で、国内のトルコ系住民に対する「再生過程」(トルコ語・イスラム名を捨て、ブルガリア人としてのスラヴ系の名・キリスト教徒風の名に改名を強要した運動、トルコ系住民に、元来おまえ達はブル人なのだから、歴史の原点に戻ってブル人らしくせよ、と迫ったもの。ただし、ブル在住のトルコ系住民が、イスラム教徒に改宗させられた、元来はブル人だ、という共産党政権の主張には、信憑性が薄い)を強化し、トルコ系住民の村々に警察、内務省軍の戦車、などを派遣していた時期に当たる。その意味で、この映画のあらすじは、まさに共産党政権がトルコ系の住民に対して、スラヴ・ブル名への改名を強要し、モスクを破壊し、従わないならトルコへの出国を強要していた、その行為を正当化するために、昔オスマン帝国はこのような悪事をしたのだと、国内的に宣伝する内容としか思えないです。
17世紀には、未だにブル国内で民族主義運動(民族覚醒運動という)は起きていないし、ブル人は居住地が首都イスタンブールに近いこともあり、オスマン朝の直属臣民意識が強く、国民の多くもトルコ語、ブル語、ヴラフ語(ワラキア語=ルーマニア語)など複数言語を話せる状態で、しかもブル語口語も標準化がおくれ、書き言葉としても標準語が整備されていない段階でした。教会の僧侶はギリシャ系が高位僧職を独占し、ギリシャ語で典礼を行っていたが、下位僧侶はブル人でブル語でも典礼が行われていました。
いずれにせよ、カルジャリ、バシボズクなどの私兵軍団がバルカン山中の村、ロドーピ地方などのクリスチャンの村で残虐行為を働いたのは、19世紀の民族主義者による「革命(反乱)」の鎮圧時期である。
17世紀半ばから18世紀初頭にかけて、同じくロドーピ地方でイスラム教への集団改宗があり、ブル語を話すポマックと呼ばれるイスラム教徒が生まれたことは確かです。しかし、彼らの改宗動機は、ギリシャ人僧侶からの厳しい徴税に反発して、税率の低いイスラム教徒を選んだから(経済的動機)と思われます。
エニチェーリ崩れの野蛮な騎馬隊が「改宗目的」で残虐行為を働いたというのは、胡散臭い話です。たとえ、なんらかのトルコ系のイスラム教団による改宗作戦があったとしても、それほど血なまぐさい強制措置があったとは思えないというのが小生の感想です。
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Re:対トルコ憎悪? (mugi)
2009-03-19 22:16:18
>室長さん

 私はオスマン帝国史に関心はあっても、これまでトルコとの関係で見ていたのはアラブやイランといったイスラム圏ばかり、バルカンとの繋がりはすっぽり抜け落ちていました。これでは完全に中東に偏った視点であり、あなたのブログでのブルガリア史はとても参考になります。

 ただでさえ私の西欧史の知識は教科書以上のものはなく、バルカンとなれば全くの浅学、ましてブルガリアとなれば無知そのもの。17世紀後半にブルガリアで本当に映画のような出来事があったのかは確認できませんが、この映画は終始トルコの残虐行為が強調されています。まるで隣国の反日映画のような作品で、気分の良いものではありませんでした。
 そして、あなたのコメントから史実も怪しそうな内容ですね。おりしも制作が1988年、独裁者トードル・ジフコフブルの国内での弾圧は映画のイェニチェリの迫害と重なる。ハリウッドも同じですが、特に共産圏で映画はプロパガンダ目的に使われたのは、あなたの方がよくご存知のはずです。物事をよく知らぬ者なら映像を見せられただけで、インパクトがあります。

 19世紀のトルコ政府によるキリスト教徒弾圧なら、他にアルメニア人やギリシア人へのそれの方が一般に知られていますよね。それ以前に迫害が皆無だったとは言えませんが、改宗者の大半は経済的動機でしょう。キリスト教徒の臣民がこぞって改宗したら税収がた減りとなるので、強制改宗には消極的だったはずです。
 ただ、19世紀以降となればバルカンのキリスト教徒以外に中東のアラブでも民族主義運動が起こり、それがムスリム同士の亀裂を生じるようになりました。アラブ民族運動主義者にも弾圧は受けました。しかし西欧人の強調する「圧制と残虐」ばかりで、アラブを支配していたというのは間違いです。アラブ側も独立後、己の失政を認めたくないので、何でもトルコが悪い、奴らが4世紀も支配したからだ、と責任転嫁するようになり、トルコも反アラブ感情が根付いてしまいました。

いずれにせよ、再びブルガリアの歴史を教えて頂いて、有難うございました。
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責任転嫁 (室長)
2009-03-20 09:36:22
「責任転嫁」のため、オスマン・トルコが悪かったように歴史を改ざんしている・・・これが独立後のアラブ諸国、あるいはバルカン半島の「民族国家」の歴史書の実態だと思う。
ブルガリアにおいても、広大な領域を誇ったオスマン帝国は、国境無し、税関無しの自由な通商空間(今のEUのようなもの)が、バルカン半島、小アジア、中東、アフリカに及ぶという利点を利用して、バルカン山脈中の盆地にある、小規模な町が、特産物である絨毯、バラ油などをエジプトにも、シリアにも輸出していたし、イスタンブールにも、オデッサにも、イズミールにもブル人商人の商館(19世紀でも通常「ギリシャ商館」と呼ばれ、ギリシャ人とブル人、セルビア人の区別はないので、ややこしいのですが。また、手紙、簿記などの商用語としては、ブル人でもギリシャ語を使用した。)=販売拠点を構えていました。故に、これらの町の大商人達は、故郷の町に、今訪れてみれば敷地も居住面積も意外に小規模ではありますが、それでも内装、家具、設計など、どれをとってもすごく趣がある、立派な邸宅を構えていました。しかし、本家よりも、外地に設置した商館の方がよほど規模も大きく、立派だったようです。家具なども、ウィーンから取り寄せた最新の流行を追っていたり。要するに、オスマン帝国は、中世的な封建制が崩れて、18--19世紀になると、帝国政府としては問題山積で、軍事強国となった西欧からの圧迫もあり、衰退していくのですが、それでも巨大な領域を一括する今日のEU的な自由貿易圏の存在故に、バルカン半島の手工業的企業は、むしろこの頃大いに経済的には成功していました。
この故に、ブルガリアは独立後に、自国各地の伝統的な手工業企業が、軒並みアフリカに至る広大な取引先、商権を失い、倒産してしまうのです。民族覚醒運動に邁進した「革命家」の一部も、まさにこういった「手工業段階におけるブルジョア階級」に属し、豊富な自己資金の故に、ウィーン、パリ、ハンブルグ、ペテルスブルグ、などに留学して「民族主義」に目覚め、独立を目指したのですが、独立の結果は皮肉にも、少なくとも短期的には、商圏が狭い国境の中に大幅縮小して、例えばオスマン軍の制服、刀剣、ベルト、などの制作に特化していた企業などが、全て倒産して、経済危機を迎えるのです。
小生としては、トルコ時代を礼賛するつもりはないし、バルカン半島が中東圏のオスマン帝国から欧洲に回帰する近代の歴史を否定する気もありませんが、全てをトルコのせいにする「官製の歴史書」「偽の歴史」には、納得できません。
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Re:責任転嫁 (mugi)
2009-03-20 22:05:05
>室長さん

「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話に他ならない」と言ったのはナポレオンですが、拙ブログにコメントされたブロガーさんが実に面白い川柳を載せています。
「歴史とは、自分の都合で、つくるもの」@特ア人
「歴史とは、自分の都合で、隠すもの」@欧米人
「歴史とは、他人の都合で、謝罪です」@日本人
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/cd965f16b0d5347f02f9fb7235129ca5#comment-list

 先のコメントにもありましたが、ブルガリアでギリシア人が商業以外に教会で高位僧職を独占していたことを初めて知りました。つまり、知識人階級でもあったということですね。オスマン帝国時代のバルカンでのギリシア人の国際的な活躍は、世界の何処でも職に就ける現代のイギリス人を思わせます。
 ブルガリア・ローズの名を知っている日本女性も珍しくなく、バラはブルの特産で有名です。イラスム圏でもバラはこよなく愛され、一大市場だったのに、独立後は大打撃を受けたとは…独立の代償は凄まじい経済危機。これも独立後の第三世界を連想させられました。独立後「民族主義」に目覚めたブルジョア階級ブル人活動家は、その後どうなったのでしょうねぇ。共産主義の台頭で失脚?または巧い汁を吸ったのやら。

「官製の歴史書」「偽の歴史」は当然トルコにもあります。帝国解体後、誕生した「民族国家」トルコ共和国もまた、先のオスマン朝を徹底糾弾、王家やその御用学者がいかに売国奴ぞろいだったのか、書き綴る傾向は今も変わらないようです。
 ナショナリズムにより建国された「民族国家」だと、「官製の歴史書」「偽の歴史」が国民統合のドグマになるようですね。
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ファナリオット (室長)
2009-03-21 15:39:57
mugiさん、ギリシャ人に関しては、そう簡単に知識人という風に肯定的にばかりはとらえられないのは、ブルガリア専門家としての小生の性でしょうか。ファナリオットという呼称が、平凡社の『東欧を知る事典』(1993年12月初版1刷、2刷=95年6月)に出ています。この本は、かなり高価な本(8千円だったか?)ですが、我々東欧専門家(バルカン専門家にとっても)には今でも欠かせない参考書です。
この事典のファナリオット項目では、イスタンブールのファナル地区(トルコ語でフェネル=灯台に由来)に住むギリシャ人らは、同地区に総主教座のある東方正教会を中心に団結し、17世紀頃から商業貴族として台頭した。東西貿易で財をなしたが、全員がギリシャ出身ということでもなかった。ファナリオット達は、総主教の選挙に影響力を行使したほか、オスマン政府とも結託して、帝国内の要職に就任した。買収で得た高級官職には、政府主席通訳官、提督通訳官、ワラキア=モルドヴァの公位まであった由。この事典のこの項目では触れていないのですが、ファナリオットとか、その他の有力ギリシャ人達は、オスマン帝国が、売官制度で、徴税官、その他の官職を金銭で売るシステムだったのを利用して、ワラキア公、モルドヴァ公などの公位すら買い取っていたことは、どこかで読んだ記憶があります。
ユダヤ教のミッレトでは、ラビはユダヤ人教徒団によって給料を支払われる例が多く、帝国への納税義務は、各地のユダヤ人社会の信徒団組織(有力商人などの金持ちが指導する組織)が担っており、税の徴収もこの組織が担当した由ですが、東方正教会のミッレトでは、高位僧職を同じくオスマン帝国への金銭的対価を支払うことで入手したファナリオット、その他のギリシャ人富裕者が独占し、彼らが、例えばブル人達から厳しく徴税しました。結局、ギリシャ人僧侶、あるいは彼らが雇用するギリシャ人の徴税人達が、ブルガリアとか、マケドニアの村々で徴税の元締めをしました。もちろん彼らも、ブルガリア人の村々では、ブル人有力者(チョルバジーヤと呼ばれた。チョルバ=スープを食べられるほど裕福、という意味らしい)の協力も確保しつつ、税金の徴収に勤めたわけですが、元来高値で買い取った官職としての高僧の位であるし、この地位が同時にある地域の徴税請負人(同時に税金の中間搾取をできる)でもあったのです。こういう経緯もあり、ブルガリアの民族主義は、ほぼ並行的に、ブルガリア教会の「分離・独立運動」としても闘われました。オスマン帝国に併合される前には、独立のブルガリア教会を持ち、ギリシャ人に教会を牛耳られることはなかったという過去の記憶もあるし、強欲なギリシャ人徴税吏(しかも、彼らは高位のギリシャ人僧侶の手先)の過酷な徴税への反感もあったようです。笑い話ですが、ブルガリア語のネ(ne)はNoの意味ですが、ギリシャ語ではネはYesなのです(ギリシャ語のNoはオヒという)。そのため、ギリシャ人の徴税吏が、要求を述べ、ブル人達がNoの意味でネというと、彼らはほくそ笑んで「Yesかよしよし」と言って高めの税金を徴収したとか?!・・・ギリシャ人は、自分たちの都合の良いように、Yesをネという奇妙な単語にしてしまったのだと?!。
最近でも、ギリシャ人は、EUに先に入っていたことをこれ都合よしとして、他国をいびります。マケドニアには、マケドニアという用語はギリシャ人専用だと難癖を付けて、この国名でのEU加盟交渉をブロックしています。ブルガリアに対しては、既に安全対策も採られたコズロドゥイ原発の3号、4号炉を廃棄することをEU加盟交渉を妨害しない条件として、無理に飲ませました。07年ブルはEU加盟を果たしたが、高価な原発を2基も、経済論理に反してなぜ廃棄せねばならないのか、ブル国民は今も激怒しています。
そういう風に、隣国に対して、あまりにも無理難題をふっかけたり、ギリシャ人のエゴイズムは今日でも、バルカンにおいて必ずしも評判が良くないのです。
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Re:ファナリオット (mugi)
2009-03-21 22:23:10
>室長さん

 恥ずかしながらギリシアに関しても、私の知識は世界史の教科書以上のレベルはありません。 ギリシアといえば、古代文明を連想する程度で、「ファナリオット」という名称も初耳です。コメントを拝読しただけで古代から商業民族として名高いだけあり、ギリシア人も相当強かな民族と感じさせられました。
 
 オスマン帝国で主に経済を牛耳っていたのはユダヤ系ではなくアルメニア、ギリシア系であり、バルカンでもその性分を思う存分発揮したようですね。帝国は末期に帝国国民は民族、宗教の出自を問わず、全て等しくオスマン国民とのスローガンを掲げたことがあります。ユダヤ系は概ね歓迎したのに対し、ギリシア系は不快感を露にしたとか。それまで見下していたユダヤ系と同等とされるのが堪らなかったそうです。
 あなたの紹介されたバルカンのギリシア人、何やら西欧支配下での東南アジアの華僑を髣髴させられました。その強欲とエゴイズムに、古い歴史を持つ民族は洋の東西問わず、共通点があるのか、と。

 韓国語にもネーという言葉があって、これはYesの意味です。あるイギリス人ロックミュージシャンが韓国のTV番組に出ていた時の映像を見たことがありますが、後ろでしきりに「ネーネー」と耳障りな声が聞こえるので、戸惑った表情をしていました。字幕で私も韓国語のYesがネーだったことを知りましたが、もしかすると何でもウリナラ起源説にこじ付けるのが十八番の韓国人、ギリシア人の祖先は韓国人などと言い出しかねない(笑)。

 先に室長さんのブログ記事で、ギリシアがマケドニアに難癖を付けていたのを目にしましたが、トルコのEU加盟交渉も徹底妨害、嫌がらせと難癖に血道を挙げていることでしょう。古代文明発祥国ということもあるのか、英仏独の大国もギリシアには甘いですよね。
 またしても、とても濃いバルカンの歴史のお話を有難うございました。
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自己主張 (室長)
2009-03-22 07:02:25
書き終わった後で、長々と書いたものだと思うのですが、なかなか短くかけないです。韓国語でYesは小生にはイェーと聞こえていたのですがネーだったとは!なお、小生ギリシャ嫌いでもありません、文化的には。
オスマン時代の「ギリシャ人」(あるいは近代ギリシャ人)は、東方正教会信徒で、ギリシャ語をしゃべれたり、ギリシャ地方出身だったりしたもののことで、人種的には古代のギリシャ人とどの程度つながるのか疑問視する声も学者の間に多い由。なにしろ、スラヴ人のバルカン半島進出(6世紀後半)以降、スラヴ人はペロポンネソス半島の先端、更にはエーゲ海の島々にまで移住したそうで、ブル人学者によればギリシャ各地の地名でスラヴ系の名前は、ギリシャ国土のほぼ全域に及ぶらしい(独立後のギリシャは、スラヴ語的な地名を古代の都市名とか、ギリシャ語風に改名した)。すなわち、近代ギリシャ人、現代ギリシャ人の人種的な古代ギリシャ人とのつながりぶりは怪しい、という説にもなる。とはいえ、現代ギリシャ語も古代ギリシャ語と相当違うといえども、やはりギリシャ語ですから、言語、文化を重視すれば、やはりギリシャ人というべきでしょう。
ただし、オスマン朝は宗教別の区別で、ギリシャ人、ブル人、セルビア人の区別はつきにくい。「ギリシャ商館」と呼ばれても、またギリシャ語で簿記をつけ、通信していても本当はブルガリア人だったりしました。ギリシャ人商業貴族のファナリオットも、全てがギリシャ人だったわけではないようです。
20世紀初めに、トルコと「住民交換」して、国内をギリシャ人に「民族浄化」する過程で、ギリシャ政府は、北部マケドニア地方にいた多数派住民=元来ブル人と自ら称していた人々にもギリシャ語教育を強制し、ブル語でしゃべることを禁じました。小生が初めて北部の田舎町を往訪した頃(68年頃)、住民の多くが小生のブル語を理解できました。今ではギリシャ語しか通用しないと思いますが。
小生もギリシャの歌、音楽は好きで、ギリシャ民謡風の1960年代のギリシャ人流行歌手(女性)の歌をレコードで持っているのですが、このねっとりとしたバルカン風の歌は、小生がレコードを聴かせたブル人、マケドニア人、セルビア人などの全てを興奮させるものでした。要するに、バルカン半島の諸民族は、自己主張して、けんかばかりしているのですが、ひとたび音楽が流れると、皆が興奮し、踊り出すという、共通のリズム感を持っています。トルコ式のベリーダンスすら、ブル人女性の多くが未だにこなせます。マケドニアでも、酒が進むとベリーダンスが始まる。
隣人同士憎悪も多いが、オスマン時代に培った「共通文化基盤」もまた根強いと言うべきでしょう。
自由化後にブルガリアでは、早速ギリシャ風味を加えた流行歌チャールガが作曲されるようになり、きれいなお姉様達が歌っています。共産党時代は、音楽すら統制され、国民が好むギリシャ風の音楽は禁止だったのです。
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Re:自己主張 (mugi)
2009-03-22 22:12:09
>室長さん

 韓国語にも方言があるでしょうけど、私が見たTV番組ではネーとしか聞こえませんでした。ただ、私が知っている韓国語はネーとウリナラ、語尾の「スミダ」「ニダ」程度だし、それ以上は関心もありません。

 人類史は移動の歴史でもありますし、現代ブルガリシア人の祖先ブルガール人は元はバルカンに移動してきたテュルク系遊牧民ですよね。移住後はスラブ人と混血、ブルガリア人となりました。移動のことを言えば、ギリシア人の祖先も遥か紀元前はペロポンネソス半島や小アジアに移住してきましたが、それを言い出せばキリがない。
 民主主義発祥の国と思われているギリシアも第二次大戦後、軍事政権により多数の人々が弾圧されました。それでも輝かしい古代文明のために、かなり得をしている国です。トルコの少数民族問題はニュースになっても、ギリシアのことは日本では何故か報じられませんね。

 日本のような均一性の高い国では「自己主張」や喧嘩を忌む傾向が強いですが、バルカン以外の他の文化圏でも自己主張とけんかが絶えないのは普通ですよね。インド、中東なども自己主張してナンボの世界です。海外在住体験のある日本人さえ、まるで自己主張が出来ない者も珍しくない。外国語を話すサル同然に外国人に同調することが友好と思い込んでいる底の浅い日本の知識人もいます。

 作家・塩野七生氏が何かのインタビューで言われてましたが、バルカンで民族紛争が治まった時代は古代ローマとオスマン朝、そしてチトー支配下程度だった、と。帝国や強権型指導者だと多民族、多宗教地帯は巧くいくということでしょうか。
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しつこいようですが (室長)
2009-03-23 09:58:31
長々としたコメントを続けて申し訳ありません。
ひとつ気になるmugiさんの言葉は、「それを言い出せばキリがない」という、日本人的な発想。やはり欧米式では、キリがないと思われることでも、しつこく自己主張して行くのが議論というものでしょう。
バルカン半島の諸民族は、混血が甚だしいので、血液を分析しても意味はないと思われるし、ギリシャ全土にブル人の祖先のスラヴ人達が進出したらしい言語的痕跡(地名論)を小生が述べたとしても、それでギリシャ系の血液が薄まりすぎているというつもりもない。所詮小生は日本人で、ブルガリアの肩を持つ必要もないから。ただし、ブル人の学者はそういう細かい研究をしてでも、中世のブルガリア王国が、ビザンチン(要するに中世ギリシャ)を圧迫するほどの大国だったと証明しようとしているのです。その努力は、少なくとも知って欲しい。
 ちなみに、小生も大好きだったギリシャ音楽の大家ミキス・テオドラキス(日本でも手に入る音楽家としては、他にナナ・ムスクリがいる)は、共産主義者だったので、軍事政権から弾圧され、投獄されていましたが、その音楽は60年代世界中を席巻しました。映画「その人ゾルバ(Zorba the Greek)」のすばらしいダンス音楽などは、テオドラキスの傑作です。
 もっとも「その人ゾルバ」は、1965年頃の白黒映画で、小生の青春の名画ですが、音楽はすばらしくとも内容的、ストーリーとしてはひどい:善良な英国紳士が、ギリシャの貧しい田舎を救済しようと鉱山投資するが、ビジネス的センスがゼロなゾルバが全てを台無しにする。それでも英国紳士は、ゾルバのすばらしいダンスを所望して、背金を問うことなく去る、というふざけた先進国気取りの内容です。
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訂正 (室長)
2009-03-23 10:02:41
先ほどのコメントで、「責任」と書いたつもりが「背金」となっています。どうしてそういう不思議な変換をしたのか不思議ですが。
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