トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

古代世界の経済援助 その①

2007-09-07 21:26:43 | 読書/中東史
 古代の帝国であるローマとペルシア(パルティアサーサーン朝)は互いの覇権をかけ、例外的な一時期を除き果てしなく戦争を繰り返した。これが最終的に両国とも弱体、滅亡を招くことになるが、戦争の主な争点はやはり領土問題がある。キリスト教とゾロアスター教といったイデオロギーも背景にあるが、軍事のみならず経済をめぐる争いもあった。交易ルートの確保である。

 シルクロードと聞けば、歴史のロマンに思いを馳せるのが大抵の日本人だろう。しかし、この有名な東西の通商路支配をめぐってもローマとペルシアは争いを重ねる。ローマの支配する地中海世界にとって、文字通り中国の絹とインド及び東南アジアの香辛料は重要な輸入品だった。ローマは絹や香辛料の代金を金貨で支払ったが、この金貨の行き先はインドや中国ばかりではなかった。ペルシア人は中国との絹取引の仲買人として相当な利益を上げており、一時期は中央アジアまでその支配権を伸ばし、生産地での出荷時点でシルク取引を牛耳ったこともある。

 地中海地方からさらに東に行く最も便利なルートはペルシアの支配地域を通るものだが、ペルシアの勢力範囲以遠にまでルートを延ばせば、経済的及び戦略的にも明らかな利点があった。他にも、中国からユーラシア大陸草原地帯のトルコ領を通り黒海やビザンツ帝国領内に出る北回りの陸路や、インド洋を経由する南回りの回路もある。南回りはインド洋からペルシア湾を経てアラビア半島に入るか、或いは紅海経由で陸路に入り、エジプトやスエズ海峡に抜けるもの、若しくは西アラビアのキャラバン・ルート経由でイエメンからシリア国境地帯に出るものなどがあった。

 ローマ、後のビザンツ帝国の関心事はインドや中国とのこうした外回りの通商路を確立、保持し、ペルシア帝国支配下の中央部を迂回することだった。ペルシアはこうした輸送路を横切る場所に位置する地の利を活かし、ビザンツ帝国の交易から平次には利ざやを稼ぎ、戦時には交通を遮断した。それ故、この2つの帝国の間では、双方の国境以遠の国々への影響力の行使をめぐって争いが絶えなかった。商業、外交、まれにしても軍事面でのそうした介入はどちら側にも少なからぬ影響を与えた。その筆頭が北部ではトルコ系種族や君侯国、南部ではアラブ系種族とその君侯国だった。

 トルコ人もアラブ人も両帝国の国境から遥か離れた未開かそれに近い大草原や荒野で暮らしており、ペルシア人、ローマ人共に帝国の拡張期にさえ、こうした人々を征服するのにあまり関心がなかった。逆に彼らとあまり深い関わりを持たぬよう気を付けている。4世紀のシリア生れのローマの歴史家マルケリヌスは、大草原に暮らす人々についてこう書いている。
こうした地域の住民は残忍かつ戦争好きで、戦いや騒動があると大喜びし、戦闘で生命を失った者は他の人たち以上に幸福であると見なされる。自然死した人に対しては、堕落した者とか臆病者という罵りの言葉を浴びせる…

 さらにこの歴史家は南部の荒野の住民にも、「サラセン人は…味方にも敵にもしたいと思ったことは一度もない」と評している。こうした隣人を武力により征服するのは不経済な上、難しく危険であり、征服出来たとしても有益ではない。その代りにペルシア、ローマ両帝国は親善を図ることに務める。つまり、様々な方法でそうした部族民の機嫌をとり、財政、軍事、技術面での援助、称号や勲章の授与などで接したのだ。

 部族長たちは北部でも南部でも、こうした状況を自分たちに有利に利用することを知っており、ある時は一方に、ある時は他方に、時には両方を当てにしたり、どちらにも背を向けることもあった。隊商による交易で生じた富で豊かになった彼らは、自分たち自身の都市や王国を樹立し、独自の政治体制を布き、ペルシア、ローマの衛生国や同盟国になったことさえある。両帝国の方は、そうすることが安全と判断すれば、辺境の君侯国を征服、直接の支配下に入れた。だが、出来れば何らかの形の間接的支配、または従属国とすることの方が多かった。
その②に続く
■参考:「イスラーム世界の二千年」バーナード・ルイス著、草思社

よろしかったら、クリックお願いします


最新の画像もっと見る