その一の続き
『仏教とっておきの話366 春の巻』(ひろさちや著、新潮文庫)に、紹介されている葉隠の中の話は興味深い。佐賀藩主・鍋島直茂はある時、女8人、男6人を成敗した。理由は彼らが三の御殿にて密通したからだ。たかが密通で14人もの男女を殺害するのは惨いと思うのが現代人の感覚だが、戦国時代当時の日本はもちろん、東洋、西洋問わず密通は死罪だった。
男女の処刑後、城中には毎夜幽霊が出るようになる。侍女達は怖がり、外にも出ない有様。御祈祷や施餓鬼など、いろいろなされたが、一向に効き目はない。ところが、これを聞いた直茂は次のように語った。
―さてさて嬉しき事哉。彼者共は首を切り候ても事足らず、憎くき者共なりて候。然る処、死に候ても行き処へは行かず、迷い廻り候て幽霊になり、苦を受け浮び申さずは嬉しき事なり。成る程久しく幽霊になりて居り候へ。
現代語風にいえば、「まことに嬉しい限りである。あの者共は首を切っただけでは足りない憎い奴らだ。それが死んでも浄土に行けず、迷って幽霊になり、成仏せずに苦しんでいるとは嬉しいことだ。出来るだけ長く幽霊になっておれ!」という主旨になる。『葉隠』は「その夜より幽霊出で申さず候由」と報告している。
幽霊は人々に恐怖を与えるために出てくるのだが、それを怖がるどころか、「ざまあみろ!お前は浄土に行けず苦しんでいるのだ。もっと苦しめ!」というのでは、幽霊のレーゾン・デートル(存在理由)がなくなってしまう。出るに出られなくなった…と著者は言っている。
幽霊も悪霊に入るが、私には迷信深かった時代に直茂のような剛毅な人物がいたのに感心させられる。不摂生な暮らしをしていれば眠れず気分が悪くなるのは当たり前なのに、その原因を悪霊のせいにする軟で病的な現代人よりも、この密通成敗者に共感が持てる。前に「金縛り」という記事でも書いたが、私には霊的な体験は殆どない。地元の有名な霊界スポットに行ってもその種の現象もなかったし、悪霊なるものが存在すれば、人を選ぶのかもしれない。幽霊も怖がらない人の前には出たがらないだろう。
どちらか言えば、心霊を信じる者は女に多いのではないか。ТVに登場する霊能者も女が多いようだし、女は他人や動物に感情移入しやすい傾向があるのだ。その結果己と他人を混同してしまい、恣意的な思い付きを一般論に当てはめる。
暫く前、私のメル友でもある男性ブロガーに、悪霊の存在を信じるか質問したことがある。彼の答えはこうだった。
「私も悪霊は信じておりませんし、仰るとおり、それで人を脅し、金品を巻き上げるのは詐欺でしょうね。悪霊も悪魔と同じで、それ自体の怖さよりも、それを口実にして脅す人間の方がより悪質でしょう」
真っ当至極な返信で安心させられる。やはり卒業後、親元を離れ地方から上京、自活して久しい人物の社会観は健全なのだ。このような勤め人こそが日本社会を支えており、悪霊退散に塩と言う輩とは段違い。悪霊におびえるのは所詮頭と心の弱い者なのだろう。恐ろしいのは、悪霊よりも生きている人間の方ではないか。
「カルトで苦しむ人というのは、結局それなりの資質を生まれ持った人のようです」と言うブロガー氏の意見があった。そのような資質を生まれ持った背景は不明だが、これもその人物の運命なのだろうか。
◆関連記事:「父が子に語る宗教への対応」
「思想の法廷-J.ネルーの宗教観」
「人を幸福にするはずの宗教?」
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世の中の理屈を善悪二元でくくってしまうことは簡単で明瞭なことなのですが、それで何もかもうまく説明しきれるものでもないようですね。
日本の神道も、ゾロアスター、マニなどの古代宗教、そして実はキリスト教も突き詰めれば「善悪」を問題にする二元宗教です。宗教の理屈が、最終的に善と悪に集約されてしまうのは自然の成り行きなのかもしれませんね。
一神教に比べ、神道やヒンドゥー教の様な多神教はやや「善悪」の基準が曖昧で、その問題への追及が手緩い傾向があります。ただ、どの宗教も道徳や倫理と結び付いており、結局は善と悪の区分になりますよね。
「「神はいない?」偉人たちの無神論的な50の格言」というサイトに、私が痛快と思ったジョージ・バーナード・ショーの言葉があります。
「信仰を持つ者が無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せなことに似ている」
http://labaq.com/archives/50944400.html?l=o
それとは対極的に、キリスト教を露骨に嫌悪していたにもかかわらず、キリスト教の洗礼を受けてICUや同志社等に推薦で進学した人を私は多数知っています。中にはそのままキリスト教関連の仕事に就いた人も少なくありません。ビジネスとしてキリスト教を利用している人は山ほどいる、というこの事実も、私の周囲のクリスチャンの間ではタブーでした。
私を含め一般日本人はクリスチャンのコミュニティー内部のことを知らない人が大半だと思います。あるカトリックブロガーが「気軽に教会に寄ってみよう」と呼びかけていたので、教会を敬遠する人が多いとも解釈できます。私自身、教会は不気味で行く気もありませんが、貴方のお話からそれでよかった(笑)。
ま、お寺でも仏教に批判的なことは言い難い雰囲気がありますが、排除までは行かないはず。これも檀家ゆえの安心感があり、批判よりもジョーク的な意見になってしまうと思います。
それにしても、キリスト教を露骨に嫌悪していたにも拘らず、洗礼を受けて国際基督教大学や同志社等を推薦で進学した人もいたのですか??洗礼を受ければ、推薦に有利なのでしょうが、さらにキリスト教関連の仕事に就いたとは理解できません。ビジネスや出世に利用するにせよ、動機が不純なら布教も歪んできますよね。
私が宗教を敬遠するのは女ということもあると思います。歴史を概観しただけで、あらゆる宗教は宗派問わず女性抑圧の手段に使われてきました。魔女狩り、サティー、名誉の殺人…今でもそれらは続いている。田嶋陽子の様なマスコミにでるフェミニストが、それを決して言わないのも意図的ですね。日本のТVでは宗教批判はタブーとなっています。
ICUって実は「無教派」なんですよ。ってことはエホ症とかの洗礼でもOKなんでしょうかね?
仏教系でも、花園、大正、龍谷、大谷あたりは寺門優先、皇学館や国学院は社家優先ですが、こちらは「当たり前」の世界です。
キリスト教系の場合「言ってることとやってることが随分違うんじゃないの?」ということになるでしょうね(笑。
キリスト教系大学をよく知らなくとも、「梅花」や「桃山学院」以外は知られていますね。「梅花」や「桃山学院」は名称からしてキリスト教系らしくない。まさか、キリスト教系大学と知らないで入学する学生はいないですよね?
そもそも「国際基督教大学」なので、ICUはエホ症でも統一狂、漏る門でも受け入れるかもしれません。
いかに日本でクリスチャンが少数派にせよ、言ってることとやってることの差が違いすぎる。言動不一致はもちろん他宗教にもありますが、これも日本のキリスト教系の特徴でしょうか?
アメリカの大学の場合、入試は日本の入試のように偏差値がどうとかそんなにシビアではないようです。入学月は、多くて年4回あります。さすがにMITとかになると入試はシビアかもしれませんが、概ね人物調査程度のものらしいですね。ですから、例えばハーバードが牧師の推薦状の有無でさじ加減を変える、というようなことはありえないことでしょう。
梅花は名称からやはり女子校でしたか。「梅花 新島襄」で検索したら、こんなサイトがヒットしました。
http://machikomizaq.jp/users/os-joto01/article/582/
今の大河ドラマの主人公は新島襄の妻ですが、私はドラマを見ていないため批評できません。今時なぜこの人物が?という思いですが、日本のドラマではクリスチャンは総じて美化して描くような印象があります。
それにしても、アメリカの大学の入学月は多くて年4回もあるのですか!むしろ日本のように一律4月というほうが珍しいのでしょうか?アメリカの大学が新島襄のような留学生を受け入れたのも、日本キリスト教化のための宣教師に仕立てる目的もあったのは確かです。アメリカは19世紀半ば、中東でも積極的に宣教活動を行っていました。
そんな感じで新島について言わせていただけるならば、新島は「キリスト教徒」という感じがしません。新島にとってキリスト教は、日本を西洋化させるための「道具」だったのです。キリスト教徒というべき同門の輩は、海老名弾正でしょう。海老名が組合教会の基を成したといえば違和感がなくなります。
おっしゃる通り、日本の昔のクリスチャンは美化される傾向があります。しかし、新島はアメリカに憧れてアメリカを見たかった。そして日本をアメリカのようにしたかった。そういうことなんですよ。だから、スコットランドの匂いのする長老教会が嫌いだったのです。つまらない人間だったのですよ(笑。