トーキング・マイノリティ

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エンヴェル・パシャ-国を破滅させた夢想家 その②

2007-07-24 12:39:31 | 読書/中東史
その①の続き
 汎テュルク主義を掲げてトルコ帝国の支配者となったエンヴェルだが、肝心の軍事的指導力は拙劣そのものだった。1911-12年のイタリア・トルコ戦争ではエンヴェルの戦略的失敗により、北アフリカに残っていた唯一のトルコ領(現リビア)を失う。ケマルも現地に派遣されるが指揮権もろくに与えられず、彼が主張した作戦を蹴ったのもエンヴェルだった。同じ頃に起きた第一次バルカン戦争でも総指揮権を握ったエンヴェルのトルコは前線の至る所で敗れ、首都の防衛さえ危うくなったほど。敗戦の責任者は当然エンヴェルにあり、誰の目にも軍人、政治家としての生命が終わったかに思えた。しかし、奇跡が起こる。

  第一次で得たトルコ領の分割をめぐり、バルカン諸国が争う第二次バルカン戦争が始まり、ブルガリアが劣勢に立たされる。エンヴェルにとり絶好の名誉挽回の 機会であり、4ヵ国相手に戦っているブルガリアを背後から突く位、いかに第一次バルカン戦争で数多くの軍団を失ったトルコでも可能だった。トルコはブルガ リアに宣戦布告、敵の劣勢に乗じバルカン東部の旧トルコ領を次々奪還し、ついにエディルネ市まで取り戻す。この都市は1453年コンスタンティノープルを トルコが陥落させるまでの帝国の首都だった。その奪還にトルコ人は狂喜する。

 トラキアと呼ばれるバルカン半島の一角を取り戻したエン ヴェルは勝利の象徴となった。久しい間対外戦争で勝利に見放されていたトルコ人は英雄に飢えており、エンヴェルは軍神扱いされる。この“大勝利”の功績 で、オスマン朝の皇女と結婚し、陸軍大臣となったエンヴェルはこの当時が人生の絶頂だったろう。この32歳の青年将軍は事実上のトルコの独裁者となってし まう。国会は休会されたまま、大宰相はじめ閣僚は全て「統一と進歩委員会」メンバーで占められていた。

  しかし、エンヴェルにより閣僚に任命されながらも、彼の熱烈すぎる親独路線を快く思わない者もいた。大宰相マフムトさえ疑念を持つが、まもなく彼は暗殺さ れる。ケマルもまたドイツへの急激な接近に危機感を持った一人で、エンヴェルや軍の高級幹部に親独路線への危険性を主張した文書を何度も送るも全く顧みら れなかった。エンヴェルにケマルは暗殺の必要性を感じるほどの大物ではなかった。第一次大戦がまもなく起き、トルコ軍部は政府の宣戦布告を待たずに独断専 行に出る。

 ドイツに引き込まれるかたちで参戦したかのようなトルコだが、「大トルキスタン復活」を夢見た陸相エンヴェル自らトルコ精鋭 部隊を全て率い、東部に進軍する。コーカサスを越え進撃、トルコ民族の解放を果たすどころか、逆に大敗北を喫し、東部戦線はトルコ軍の一方的な敗退を重ね る場となった。ロシア軍も対独戦線があり、トルコへの本格的な進出は出来なかった。そしてエンヴェルは膠着した戦線を後にして、早々イスタンブールに戻っ てしまった。彼は戦線を立て直すことより、敗戦を理由に自分の失脚を狙っている「委員会」幹部の動向が気がかりだったのだ。主要メンバーは野心家ぞろい で、エンヴェルが必ずしも絶対権を把握していた訳ではなかった。

 1916年夏、エンヴェルはケマルを東部戦線に送り込む。前年のゲリボ ル半島(英語読みはガリポリ)の激闘に勝利したケマルは国民的英雄になっており、戦の後ドイツと手を切り、連合国と単独和平を結ぶよう説き回っていたの だ。エンヴェルは厄介払いと自分の尻拭いを兼ねてケマルを対ロシア線に向かわせた。だが、ここでもゲリボルの再現が起きる。ケマルの到着したばかりの東部 戦線のトルコ軍は軍隊としての体をなしてなかったのにも係らず、翌年には失地を回復し、逆にロシア領への進撃さえ伺うようになっていた。ロシアへの攻撃寸 前、ケマルの元にエンヴェルからの至急電報が届く。進撃の中止と、シリア戦線への転任を命じる内容だった。エンヴェルはケマルにこれ以上の戦功を望まな かったのだろうが、この期に及んでも祖国の勝敗より己の面子を重んじる人物だった。

 シリア戦線にケマルを送ったエンヴェルだが、まもな く司令官の職を解任してしまう。ケマルがこの方面の最高司令官であるドイツ人将軍と衝突したからだ。しばらくしてトルコ皇太子のドイツ訪問に同行するよう 命じる。ケマルもドイツに行けば、自分のように親独派になるだろうとエンヴェルは計算したが、ドイツ滞在中のケマルは丸め込まれるどころか、夕食会の席で もヒンデンブルグ元帥にずけずけ言う始末。しかし腎臓と肝臓がかなり悪くなっていたケマルは、ドイツ嫌いでもドイツの医術の高さは認めており、約半年ドイツの病院で過ごすことになる。

  一方、バルカン方面でも戦況はトルコ帝国にとって日ごとに不利になっていた。1918年9月末にブルガリアも降伏、トルコの敗北は時間の問題だった。イス タンブールに迫りつつあった連合国首脳部はトルコが降伏しても、メフメット6世(在位1918-22年)に身分と財産の安全は保障すると密約を提示してお り、皇帝はその密約に飛びつく。エンヴェル一派の軍部首脳には秘密のまま、皇帝政府は降伏声明をメフメット6世の命で発表した。皇帝に出し抜かれたエン ヴェル一派はドイツに亡命する。

 「大トルキスタン」を生涯の夢としたエンヴェルはドイツ降伏後、赤軍と反対勢力による内戦が続いている ロシアに潜入、トルコ系民族を煽りたて反革命運動を起こした。しかし、ここでも彼の夢は破れた。初めの内こそ数千人の兵士を率い赤軍と各地で戦うも、やが て部下は少しずつ去り、戦うどころか逃亡の毎日を送らねばならなくなる。
 エンヴェルは赤軍の掃討作戦によって次第に東方へ追い込まれ、1922年8月4日、フェルガナ盆地東部で赤軍の奇襲を受け、付き従っていた30人の部下と共に機関銃の銃撃を受けて戦死する。結局のところ夢想家エンヴェルは自分の夢に殉じた。
※参考:「ケマル・パシャ伝」新潮選書、大島直政著 

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