『十字軍物語2』(塩野七生著、新潮社)を先日読了した。2巻目では第2回十字軍を取り上げ、1187年10月2日のエルサレム陥落までが描かれている。後半にはいよいよサラディンが登場。やはり歴史書はサラディンのような歴史上の“スター”が現れるのが読んでいても楽しい。第2巻は4章に構成されており、「守りの時代」「イスラムの反撃始まる」「サラディン、登場」「「聖戦」(ジハード)の年」の順で展開されている。
第1回十字軍の勝利で、レバントのような東部地中海沿岸地方にはさぞ欧州人キリスト教徒が移住、「フランク人」(※中東のムスリムによる欧州人キリスト教徒への呼称)が激増したかと思いきや、必ずしもそうではなかった。エルサレム王国以下の十字軍国家は慢性的にフランク人兵士が不足していた。第1回十字軍でも聖地エルサレムの解放という神の誓いを果たしたという理由で、“解放”直後、欧州に帰って行った十字軍兵士がかなり多かったという。エルサレム“解放”で巡礼者は増えたが、ムスリムの襲撃から彼らを守る兵士は絶対的に足りなかった。
それを補ったのが、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団などの宗教騎士団。身分上は修道士であれ騎士団の団員になるには、中世では何よりも武器を持って戦うことが求められた。彼らはプロの戦闘集団でもあり、これら宗教騎士団がシリア・パレスチナの十字軍国家での戦闘や防衛に専念していた。
特にテンプル騎士団は、欧州人巡礼者たちをムスリムの襲撃から保護するために結成された事情があるにせよ、異教徒と見れば直ちに殺すことを義務付け、会則にも明記した。キリスト教側の宗教騎士団には、武器をとることは禁じられていなかったという。もっとも端からイスラム教徒を見たら即座に殺せ、と義務付けた上で始まった宗教騎士団はテンプル騎士団くらいだったそうだが。
フランス人の騎士が集まって結成されたテンプル騎士団に対し、聖ヨハネ騎士団はイタリアの商人によって創立された。聖地に巡礼者への診療所を兼ねた宿泊所を設立したことに始まる。つまり、医療サービスを目的に設立されたのであり、はじめは全く武装集団ではなかった。聖ヨハネ騎士団は第1回十字軍以前から聖地で活動してきたが、十字軍以降はテンプル騎士団の影響も受けたのか、組織も戦士集団が主流に変貌していった。それでも団員には入院患者の世話や専門の医師の手助けを義務付けていたという。
テンプル騎士団には、クレルヴォーのベルナールという強力な協賛者がいた。第2回十字軍を提唱、実現させた功労により死後21年目の1174年、聖人に列せられ、以降「聖ベルナール」と呼ばれることになる。だが、彼の提唱した第2回十字軍は惨めな失敗に終わり、その結果を告げられたベルナールは次のように言ったという。
「神が良しとされない者たちが行ったのだから、失敗に終わるのは仕方がなかった」
ベルナールについて著者の塩野氏は、皮肉を込めてこう書いている。
―自分が推し進めておきながらそれが失敗に終わっても、カトリック教会の聖職者には常に言い訳の言葉が用意されているのである。信仰心が足りなかったからだ、という実に都合のよい弁明は、今なお少しも変わっていない。(97頁)
生前でもベルナールは欧州の超有名人だったし、テンプル騎士団を称賛した書を発表している。その書には次のような文章があったそうだ。
―イスラム教徒は諸悪が詰め込まれた壺である。悪魔の手によって作られた。我々の中でも現実に眼にすることが出来る、悪の標本だ。この者たちに対しては、対策は一つしかない。根絶、がそれである。
殺せ!殺せ!そしてもしも必要になった時は、彼らの刃にかかって死ぬのだ。何故ならそれこそが、キリストのために生きることになるのである。
要するに異教徒を抹殺する行為は、キリストの戦士にとって正しい生き方であると明言しているのだ。しかし、ベルナールがそれほどまで称賛したテンプル騎士団は、後に騎士団の資産を狙ったフランス王により滅亡させられている(1314年)。テンプル騎士団は異端扱いされたが、これは冤罪だったのは現代では明らかになっている。ただ、ベルナールの論法を適用すれば、これも信仰心が足りなかった故だろう。
その二に続く
◆関連記事:「十字軍物語1」
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