トーキング・マイノリティ

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人権という名の言論封じ その①

2007-05-08 21:16:33 | マスコミ、ネット
 少し前までは「人権派」と言えば、リベラルで人道主義のために戦う熱血漢のイメージがあった。ネットをするようになってから「人権派」の実態を知り、印 象は完全に覆されたものだ。人権を訴える人物に胡散臭い者がいるように、ネットでも人権を強調する者は、表現の自由を好ましく思わないらしい。先日その典 型的なコメントを頂いたが、報道姿勢に人権を関連付ける発想は興味深い。

(ありんこ) 2007-05-02 14:57:47 
「…憶測でものを言うのを控えるのは、憶測が名誉毀損になるかもしれないし、相手の感情を傷つける可能性がある(高い)からです。同僚や友人のことを憶測でいうのは控えませんか?人間関係にひびが入るから。マスコミや大衆は、「公人」という理由の元に、憶測を使いすぎていると思われませんか?それは人権侵害ではないでしょうか?日本の皇室報道、以前の美智子バッシングとか、BBCの雅子妃の報道とか。彼らは、庶民のゴシップ種に用いられる「モノ」なのでしょうか?かれらに人権はないのでしょうか?
 表現の自由とは、憶測で物を言うことも含むのでしょうか?表現の自由は人権とも兼ね合せて考えるべきではないでしょうか?


  私の手元にある国語辞典(小学館)で“憶測”を調べると、「いい加減に推し量ること、当て推量、推測」とある。ありんこ氏の言うとおり、マスコミやネット では憶測記事があふれており、私自身も含め的外れな判断も珍しくもない。マキアヴェッリのような歴史に名を残す思想家さえ、「私の体験からも言えることだ が、人間の意見なるものがいかに誤りに満ち、いかに誤った判断で歪められているかは、呆れかえるほどである」と書いている。まして凡夫なら絶望的だ。常に 正しい判断が可能なら、その人は人間以上だろう。

 しかし、それ故憶測でモノを言うのは控えようとするのは言論否定の道に直結する。収入 を得ているプロの言論人集団であるマスコミ、報酬ゼロで趣味でやっているブロガー共に確実な情報に基づいて記事を書くのがベストだ。だが、確実に正確な情 報など何時でも容易に手に入るとは限らず、決定的な根拠がなければモノが言えないとするなら、言論世界など成立不可能である。これは言論姿勢に対する極論 より暴論そのものだ。

 職場勤めを体験された方なら、いかに同僚の噂話を好む者が多いか、知らない人はいないだろう。酒席などその場にい ない者が話の肴にされる。人は人のことを言うものであり、同僚や友人を憶測で言うのは人間関係にひびが入るから、と控える者は残念ながら少ないのが人間社 会だ。ただ、それを一々気にしていたら、どこの職場でも勤まらないし、噂話や冗談さえ言えなくなってしまう。まして、友人相手にも気を使いすぎて何も言え ないなら、元から人間関係はないも同然の稀薄さだったのだろう。

 マスコミの人権侵害例は数多くあるし、私も報道の自由の名で人権を顧み ないのは問題だと思う。だが庶民と公人はまた別物だ。後者は様々な特権を与えられており、特権には必ず義務が付随する。しかも公人は庶民の税金を得て生活 しているのだ。日本は優しい性質の人が多いので、「公人にも人権を配慮すべき」等の意見に同調する者もいる。しかしこの種の意見は、人権を掲げた言論封じ が目的である可能性が極めて高い。いかに「思想の自由」が認められていても、結局のところ権力に奉仕する思想であり、この類の意見が通るなら、言論の自由 に次いで思想の自由もまた簡単に失われる。人権侵害というもっともらしい大儀によって。そして行き着く先は言論、表現、思想の自由なき全体主義体制。

 ありんこ氏が初めて私のブログにコメントを寄せたのが「議論症候群」 という記事だった。この記事に対する長い書込みをしているから、この人物もまた身に覚えがあると思われ、「議論症候群」の一人だろうと私は見ている。あり んこ氏の「誠実に答えようとしたら、一日中ブログにはりついていなければならないかもしれません」とのコメントもまた、到底実現不可能な極論だ。それなら 誠実な返答が出来るブロガーは世界中に一人もいないとなる。私もいい加減で身勝手な人間だが、究極のエゴイストのコメンターもいるようだ。人権を言う割にこの御仁は、ブロガーの人権は念頭にないのだろう。
その②に続く

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