その一、その二の続き
イタリア人医師の仮説に対し、「地理的な意味では成る程と思わない訳でもない」と前置きしつつ、一つ目の巨人や男を殺して食べてしまう人魚やら、恐ろしい怪物がいっぱい出てくるのではないか?それにオデュッセウス一人が寄り道したのではなく、彼には大勢の部下がいた、と反論する塩野七生氏。それにも医師は仮説への根拠を述べ立てた。
怪物たちこそ、オデュッセウスのファンタジアの豊かさを物語る証拠以外の何者でもない。いかにトロイ落城の第一の功労者オデュッセウスも、家に帰れば羊飼いの頭に戻るしかないと同じく、ギリシア軍第一の智将の部下として肩で風切る勢いであった彼の部下たちも、いずれは元の羊飼いに戻るしかない。寄り道したかったのは何も頭に限ったことではなく、恐らく部下たちも同じ気分であったのに違いない。
でも、部下たちは怪物に食べられたり、船が沈没して死んでしまう、と言う塩野氏に、またも医師はその説明は簡単だ、と言い返す。 『オデュッセイア』の中に、彼らはその花を食べるや、もう帰宅する気を失ったので、オデュッセウスが無理矢理船に引きずり込んだ、と述べた個所がある(※wikiの「ロートパゴス族」の解説にその個所アリ)。あれは実に示唆に富んでいる。
要するにタダの羊飼いに戻るのが嫌になり、そのままそこに住み着く気に、部下たちが既になっていたという証拠です。彼らは何も殺されたり 死んだりしたのではない。大将、オレたちはもう国に帰るのは止めた、と宣言したから、オデュッセウスも結局彼らの意志を尊重する他なかったのだろう。部下たちにもイタケに家族がいたに違いない。だから、家族の気持ちを考えて、夫たちは南の国の人魚のような若い女のもとに残ったと正直に言う代りに、一つ目の巨人に殺されたとか言ってやったのだ、と。
では、何故オデュッセウス一人が帰国する気になったのか?と問う塩野氏。イタリア人医師はまたも痛快に切り返す。オデュッセウスは羊飼いの頭程度であっても、あくまで一国の領主です。それにテレマコスという息子もだいぶ成長したであろうとの男親の愛情もあったでしょうから…
寄り道が十年もの長期に亘るとは、妻の側から見ると到底許されないと憤慨する塩野氏に、地中海男の医師はオデュッセウスの本音を説明。やっと帰る気になったオデュッセウスの問題は、いかにして妻のペネロペに帰宅の遅れを納得させるか。彼にとって都合の良いことに、部下たちは途中下車してしまい証人がいない。聡明さでも知られる妻が裏付けをとろうとしても、それが不可能なこととなれば、奇想天外な話をでっち上げるしかない。
かくして人魚や一つ目巨人、黄泉の国の訪問とかの、オデュッセイア漂流記が出来上がる訳だ。つまり『オデュッセイア』という世界文学史上最高の傑作は、ハシゴ酒に徹しすぎた恐妻型亭主の苦肉の策として読むと、実に含蓄に富む文学作品だと医師は言う。こう読んでこそ、初めて怪物や黄泉の国に懐疑的な人々にも愉しめる文学になると、結論付けている。
件の医師は、妻について述べたことも興味深い。それにしても、妻という存在は恐ろしい。英雄をたちまちタダの男にしてしまう。イタケに帰った後のオデュッセウスについて、ホメロスはもう語ろうとしない。オデュッセウスがタダの男になってしまったからだろう。彼が十年も家に帰るのを延ばし延ばしにした気持ちを、世の男たちは理解してやらねばならない…
医師風情に言い負かされたのが癪なので、塩野氏は翌日『オデュッセイア』全文を読み返してみたそうだ。しかし、医師の仮説を反証するどころか、読めば読むほど彼の仮説で解釈する方が生き生きしてくる個所にぶつかり、読み進むにつれ笑いも進む、という結果に終わったとか。大学で古典を専門にしていたのに残念でならないと、塩野氏も率直に述べている。
確かに日本の大学では西欧の古典について、このような解釈を教えることは考えられないだろう。これは日本のみならず、もしかすると西欧でも似たようなモノかもしれない。ならばBBCの地球伝説も、必ずしもお体裁好みのイギリス人の倫理観による解釈とは限らないのではないか。現代でも地中海世界と英国では風習が隔たっているのだから。
その四に続く
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「現実的でない神話」なら聖書も十分それに含まれますが、こちらの方は『オデュッセイア』と異なり、聖職者や原理主義信者には“真実の神の御言葉”とされています。彼らに聖書は必要性がないと面と向かって言えば、タダでは済まないでしょう。