トーキング・マイノリティ

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日本、金持ちでしょ?

2008-11-02 20:44:57 | 世相(日本)
 バブル時代の頃、知人の女性から聞いた話だが、彼女の職場に南アジアか中東風の容貌の若い男がひょっこり訪れたことがあったらしい。彼女が言うには、その男は英語らしき外国語で書かれたカードを見せ、寄付を要求したという。そして、「日本、金持ちでしょ」と言い放ったそうだ。

 知人はすかさず、「私は金持ちじゃない」と言い返し、外国語で何やら話し始めた男に、睨みながら手を交差する仕草をして拒否の姿勢を表した。そのためか男も諦め去ったそうだが、それでもお愛想笑いは振りまいていたらしい。私にこの話しをした女性は憤懣やるかたない様子で、五体満足の若い男が日本人の女の子にヌケヌケとカネを要求するなんて、外国人の男ってこうなのか…と語っていた。知人の話を聞きながら、私も実に不快だった。当時、第三世界出身の男が突然家を訪問、寄付金を要求する出来事が相次いでいた。中には千円札を出した度し難いお人よし主婦もいたらしい。私ならこの類には、マッチの燃えかす1本も渡さないだろうが、日本女性とは胡散臭い者に安易にカネを出すものなのか。

 日本でいい若者が若い女にカネを要求するのは不心得者の典型だが、日本の常識は世界の非常識の警句どおり、第三世界では異様でもないようだ。例えば物乞いは日本なら乞食と蔑まれるが、インド、イスラム圏ではもっと地位が高い。金品を与えても礼を言わぬ者が珍しくないのは、日本人バックパッカーも知っている。聖職者となればもっと面の皮が厚く、礼を言うのは布施をした方、というのが原則。あのM.ガンディーも寄付をしてきた者に礼などしなかったという。富める者が貧しい者を支援するのは当然との考えなのだ。
 同教徒にさえ、このような姿勢なら、まして異教徒に金を捻出させることなど、何の痛痒も感じない。ヒンドゥーにとって外国人は穢れきったアウトカーストに過ぎぬし、ムスリムにも所詮異教徒はカーフィル、不信仰者であり、神の偉大さも分らぬカーフィル如きがムスリムに布施をするのは功徳かジズヤ(人頭税)程度に思っているのだろう。

 ただ、人間は宗教、民族を問わず欲深い生き物であり、全く見返りを求めず援助をする者は稀だろう。布施することが喜びと殊勝なことをのたまう方も、名誉欲と無縁なのか、果たして怪しいものだ。だからこそ昔の賢人は陰徳をつめ、と説いたのだが、陰徳を行う者がいかに少なかったのか伺える。人間は施されるより施す立場になりたがるので、前者は後者に表面上感謝しつつ、体面や誇りもあり複雑な思いを抱くのは自然な情である。厚情に報いてくれる人間など、何時の時代も少ない。小説『アヴェンジャー(復讐者)』(F.フォーサイス著、角川書店)にはこのような台詞があった。「人が恩人に対して抱く嫌悪感ほど激しいものはない」。

 民放の人気シリーズ『家政婦は見た』が今年の7月、ついに終了した。最終回はアフリカのODAをめぐる外交官一族の内幕を描いたストーリーだったが、退屈すぎて早々TVを消してしまった。シリーズ中、このファイナルが一番つまらなかった。日本の援助がアフリカの独裁体制を助長している…などお体裁と正義感を振りかざすドラマには心底ウンザリさせられる。分りきったことを何故殊更大仰に取り上げるものやら。日本の援助を糾弾したい者たちが好むストーリーだが、人道援助とは自国の国益と利権の誘導が真の目的なのだ。今年の春のチベット騒乱時、中国のネットでチベット人の「忘恩行為」を罵倒する書込みが相次ぎ、ウイグル人による事件に「殺し尽し焼き尽くすしかない」と意気を上げる者もいたことが河北新報の外電に掲載されていた。

 '80年代はじめに書かれた新書によれば、産油国で仕事に従事する日本人は大別して2種類に分けられたそうだ。1つは約束をすっぽかすことなど平気な相手の態度に悩みつつ、己の仕事が結局はその国の発展に繋がると信じ、苦闘する「純情派」と、そして「我が社」と日本企業が儲かればよし、その国の民衆の生活向上など関知せぬ「エコノミック・アニマル型」。産油国の幹部に信頼され、仕事もうまく行くのは後者のタイプだったとか。これは現代アフリカも変わりないだろう。

人間というものは、恩義の絆で結ばれている愛情などは、利害が絡めば平然と断ち切ってしまうものである。一方、恐怖でつながれている場合は復讐が恐ろしく、容易には断ち切れないものなのだ」-マキアヴェッリ

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