旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

硫黄島の玉砕

2006年10月25日 22時24分44秒 | Weblog



昭和20年2月6日、台湾・沖縄方面の戦況悪化にともない、大本営は硫黄島の守備隊員を見殺しにすることを決定した。

2月16日、米軍が硫黄島に総攻撃を開始した。3日間で叩き込まれた爆弾120トン、ロケット弾2250発、海からの砲弾38500発。
2月26日、第28連隊の海兵が、早朝擂鉢山に大きな星条旗を押し立てた。

総司令官栗林中将は、水際に兵をはりつけて敵の撃退を図るとか、夜間切り込み、バンザイ突撃をさせなかった。地下陣地に立てこもって、ひたすら持久戦に持ち込んだ。気温40度以上、食料、水はないに等しい絶望的な地下壕内で将兵たちは抗戦した。

3月15日、硫黄島全土に星条旗が翻った。

3月16日、栗林中将、1兵の救援もよこさなかった大本営に決別の電文を送る。電文の最後に「終リ左記駄作御笑覧ニ供ス」とあり、三首の和歌が書き添えられていた。うち二首。

国のため重きつとめを果たし得で 
矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又
七度生まれて矛を執らむぞ

米軍の兵力は6万人、対する日本の守備隊約2万人は壊滅状態。

3月17日、栗林中将を大将に親任。(親任を伝える方策なし。)
3月26日未明、残存兵が最後の突撃。栗林自身も白だすきを肩にかけ、軍刀をかざし「進め、進め・・・。」と先頭に立った。

日本軍の損害は戦死約19900名、負傷して動けなくなった戦傷捕虜約1000名。米軍は戦死6821名、戦傷21865名。太平洋戦争で反攻を開始した後、米軍の死傷者が日本軍を上回ったのはこの硫黄島の戦いのみである。

硫黄島は、北東の端から南東の端まで最長8.3キロメートル、面積約20平方キロメートル、周囲が22キロメートルの小島。

「栗林忠道 硫黄島からの手紙」の解説をした半藤一利による。


涙がとまらなかった。硫黄島だけではない、日本の将兵たちはこのような犬死を、ただ繰り返したのだ・・・。