◇昨日に続いて『国際プロレス』の思い出話を書き綴っていこうと思いますが……何しろ40年近くも前の事なので記憶が定かでない点が多いのですが,その辺の事はお許し下さい。(笑)
今の時代と違って,その当時は「プロレス&ボクシング」誌と「ゴング」誌(共に月刊誌)と,トウスポ等のプロレスを扱っている一部の新聞が唯一の”情報源”だった事もあり,(ちょっとオーバーな言い方をするならば)目を皿の様にして隅から隅まで読みあさっていたものでした。(笑)
特に,海外に関しては限られたニュースを知るのみでした。今の様にアッという間に試合結果や出来事を知ったり,写真(グラビア)や映像ですぐに見るなんて事は夢のまた夢……でした。(笑)
さて,国プロの思い出といえば,私がまだファンだった頃,ポスターかパンフレットを欲しくてお金を送ったところが,その当時に来日した<ザ・カンガルーズ>の厚紙で出来た”ブーメラン”が一緒に送られてきた事がありました。これは子供心にとても嬉しかった事を,ハッキリと覚えています。
老舗・日本プロレスとは違って,日本人レスラーの”知名度”が低い分,1970(昭和45)年2月頃だったか……”三大メジャー団体”の一つだったAWAの”帝王”と言われてたバーン・ガニア の初来日を境に”まだ見ぬ強豪”と言われた米マット界の大物たちが続々と”国プロ”にやって来たのです!
”スーパースター”ビリー・グラハム,バロン・フォン・ラシク,ニック・ボックウインクル,レイ・スチーブンス,ディック・ザ・ブルーザー,クラッシャー・リソワスキー,マッドドッグ・バション,ワフー・マクダニエル,ダスティ・ローデス,ディック・マードック……等々,書き切れないぐらいです。(笑)まさしく,当時のAWAのトップ・イベンターの殆どが国プロにやって来たと言っても過言では無いと思います。
私が「プロ&ボク」誌に入る少し前にガニアが初来日をしましたが……当時の”空の玄関口”だった羽田空港の<VIPルーム>で記者会見を終えて出て来たガニアに,色紙を片手に数名の”熱狂的”なファンが群がって行きました。勿論,その輪の中に”私”もいましたが……。(笑)
ガニアの二度目の来日時に? 札幌でガニア VS ストロング小林の”AWA世界戦”が行われ,その時は私も遥々,札幌まで取材に行って来ました。が,飛行機で一つ飛び……という訳にはいかず,延々と列車(勿論,新幹線なんてありませんし)と今は無き”青函連絡船”を乗り継いで,一日掛かりで行ったものです。
この時の取材で,ガニアと懇意となった私はAWAの在ったミネアポリスに住み着いて取材活動……公私に渡って非常にお世話になりました。それゆえ,昨年のガニアの事件には驚いてしまいました……。<茨城>
今の時代と違って,その当時は「プロレス&ボクシング」誌と「ゴング」誌(共に月刊誌)と,トウスポ等のプロレスを扱っている一部の新聞が唯一の”情報源”だった事もあり,(ちょっとオーバーな言い方をするならば)目を皿の様にして隅から隅まで読みあさっていたものでした。(笑)
特に,海外に関しては限られたニュースを知るのみでした。今の様にアッという間に試合結果や出来事を知ったり,写真(グラビア)や映像ですぐに見るなんて事は夢のまた夢……でした。(笑)
さて,国プロの思い出といえば,私がまだファンだった頃,ポスターかパンフレットを欲しくてお金を送ったところが,その当時に来日した<ザ・カンガルーズ>の厚紙で出来た”ブーメラン”が一緒に送られてきた事がありました。これは子供心にとても嬉しかった事を,ハッキリと覚えています。
老舗・日本プロレスとは違って,日本人レスラーの”知名度”が低い分,1970(昭和45)年2月頃だったか……”三大メジャー団体”の一つだったAWAの”帝王”と言われてたバーン・ガニア の初来日を境に”まだ見ぬ強豪”と言われた米マット界の大物たちが続々と”国プロ”にやって来たのです!
”スーパースター”ビリー・グラハム,バロン・フォン・ラシク,ニック・ボックウインクル,レイ・スチーブンス,ディック・ザ・ブルーザー,クラッシャー・リソワスキー,マッドドッグ・バション,ワフー・マクダニエル,ダスティ・ローデス,ディック・マードック……等々,書き切れないぐらいです。(笑)まさしく,当時のAWAのトップ・イベンターの殆どが国プロにやって来たと言っても過言では無いと思います。
私が「プロ&ボク」誌に入る少し前にガニアが初来日をしましたが……当時の”空の玄関口”だった羽田空港の<VIPルーム>で記者会見を終えて出て来たガニアに,色紙を片手に数名の”熱狂的”なファンが群がって行きました。勿論,その輪の中に”私”もいましたが……。(笑)
ガニアの二度目の来日時に? 札幌でガニア VS ストロング小林の”AWA世界戦”が行われ,その時は私も遥々,札幌まで取材に行って来ました。が,飛行機で一つ飛び……という訳にはいかず,延々と列車(勿論,新幹線なんてありませんし)と今は無き”青函連絡船”を乗り継いで,一日掛かりで行ったものです。
この時の取材で,ガニアと懇意となった私はAWAの在ったミネアポリスに住み着いて取材活動……公私に渡って非常にお世話になりました。それゆえ,昨年のガニアの事件には驚いてしまいました……。<茨城>