(写真は、明治時代に入ってからも斬首刑が行われた
「山崎刑場跡」)
次頁の写真の「第二平等川」を「甲運橋」で渡ります。
第二平等川が、江戸時代には笛吹川の主流でした。
当時、この辺りは、川田河岸と呼ばれ、この河岸から
駿河の国(静岡県)の岩淵までの舟運がありました。
そして、ここには「川田の渡し」があり、夏は舟渡し、冬は
仮橋でした。
明治40年の大水害で流れが変わり、現在の笛吹川が主流に
なり、この第二平等川は笛吹川の支流になりました。
甲運橋を境にして、「笛吹市」から「甲府市」に入ります。
甲運橋を渡った橋の脇の右手に、次頁の写真の
1860年建立の「川田道標」があります。
正面に「右 富士山 大山 東京道」、側面に「左 甲府 甲運橋
身延道」と刻まれています。
正面の「東京道」は、当初は「江戸道」と彫られていた
ために、彫り直した跡があります。
次いで、「平等川」を「平等橋」で渡ります。
街道を進むと、左手に「旧家の長屋門」があります。
他にも旧家らしき立派な門や塀の家がありました。
その右手には、上の写真の様に、大きな南無妙法蓮華経
の題目碑と共に、六地蔵、無縫塔、墓塔などが並んでいます。
ここが「山崎刑場跡」です。
明治5年、武田信玄以来の農民に有利な年貢率(大小切)が、
新政府により一方的に廃止されたため、暴動(大小切騒動)が
起きました。
この暴動を指導した者2名が、ここ山崎刑場で処刑され
ました。
え、えっ~、江戸時代じゃなくて、明治時代に入ってからも、
ここで斬首してたの?
説明版によると、ここには、斬首場が2ケ所、首洗い井戸が
4ケ所、骨捨て井戸が1ケ所があったそうです。
怖っ~・・・!
甲州街道の左手には、箱根駅伝の常連校の「山梨学院大学」が
あります。
甲州街道の「酒折駅前」交差点の周りは、通学の山梨学院大学
の付属中高生で溢れていました。
街道歩きの私は動きが取れず、仕方なく、生徒たちの列の間に
挟まって進みます・・・
生徒たちの通学路は、酒折駅前交差点の近くの「酒折
(さかおり)宮」に参拝する私と同じルートみたいで、
交差点を右折し踏切を渡ります。
私も、山梨学院大学の付属中高の職員みたいな感じで、隊列に
加わったままで進みます・・・
踏切には、学校の職員が立って生徒たちを誘導していました。
JR中央線の踏切を渡ると、その先に目的の「酒折宮」が
ありましたが、生徒たちは、その酒折宮の手前を右折して
行きました。
右折した先に、山梨学院大学付属中高校があるのでしょう。
やれやれ、やっと隊列から解放されました・・・