探り探り始めたこのブログですが、だんだん慣れてきましたので、ここで、私がこのブログを始めた理由と、今後の抱負など書いて、読んでくださっている皆さんに、ご挨拶しておきたいと思います。
私がこのように文章を書くことは何も初めてではありません。実は、「裸木」という同人誌にここ数年、ずっと書いてきました。これは、本や新聞の校閲の仕事をしている知人たちが集まって、年に一冊作っている文芸同人誌(漫画ではない)で、書店はおろか、コミケなどにも出さず、仲間とその友人たちのあいだで読み合うためのものです。論考やエッセイ、時には小説も試してみました。
ただ、これには製本等のための出費が必要なわりに、多くの人には読んでもらえないというわけで、私は最近参加を躊躇しています。ただ、参加している同人たちは真剣で、そうした交流を通じて私も勉強になっております。
たとえば、同人の中にはプロのライターもおられ、その中のひとり木村礼子さんという人が、同じく同人小冊子「裸木通信」に面白いことを書いていました。それは「物語でしか話せない人々」がいるという話です。
皆さんのまわりでも、話し始めると、つい話が長くなってしまう人がいないでしょうか? 話を要領よくかいつまみ、短く端的に話すのではなく、始まりから終わりまで、すべて話し切らないと気が済まない人。実は、自分で身銭を切って同人誌のようなものを作り、文章を書くのが趣味という人がまさにこの「物語でしか話せない人」だと、木村さんは言うのです。
中には要領が悪いだけ、という人もいるかも知れません。必要優先の順に話を整理できない人。けれど、「物語でしか話せない人」の本物は、物事を一面だけで見ることに納得できない人、前後や裏表、過去も未来もすべて含めて、ひとつの物事であると、考えたがる人のことで、実は私自身もそうなのだと言いたいわけです。
「猫の恩返し」の公開当時は、様々な媒体の関係者が取材に来ていただき、私もいろんなことを話す機会に恵まれて、ちょっと面白かったです。しかし、こうした取材は、なかなか長く話させていただくというわけには行かないのが普通で、いかに短くうまく話せるかということが試される場でもありました。
最近、仕事の関係者からこんなことを言われました。
「森田さんって、ストーリーにもこだわりがあるのですね」
これを聞いて私は、これは失敗していると反省するわけです。
思い返してみれば無理はないのです。私は常日頃からアニメーターを自称することを誇りにしていて、自分の名刺にも「アニメーション作画・演出」と刷っている。そして「猫の恩返し」のキャンペーンでも、
「僕はアニメーターで、監督はアニメーターの仕事の延長と考えています」
と、繰り返し言っていました。自分のアイデンティティを短くうまく表明したつもりでした。でも、これを聞いた人のほとんどが、私のことを、ストーリー性やテーマ性には関心がなく、アニメーションの映像作りを中心に監督業を考えている人と、思うのは当然のことです。今思えば、ですが。
私が「監督はアニメーターの仕事の延長」と話すとき、それはアニメーターのテリトリーの中に監督業も含まれる、という逆説の意味のつもりでした。
たとえば、ストーリーとは、「いつどこで誰が何をした」という文脈で語られるものという定義が、シナリオの教本などに出てきます。私に言わせれば、アニメーターが作るキャラクターの動きも「いつどこで誰が何をした」という文脈で語られるもので、同じなのです。数年前、“複雑系の科学”というものが流行りました。この時、「ストーリーと動きはつまりフラクタルな関係にあると捉えるべきですね」などと、私は仕事場で話していました。(誰も頷いてくれなかった・・)フラクタルな関係とは、部分の関係性と全体の関係性が同じであるということで、そうした分野に多少でも関心を持ったことのある方なら、私の言うことに頷いていただけると思うのですが。(無理か・・)ストーリーのテンポやテーマ性を云々することと、動きのテンポや表現を云々するセンスは、まったく同じと私は考えています。だから、動きにこだわるなら、自然とストーリーやテーマ性に手が伸びる。私はそういう考え方をすると言いたかったのです。
ほら、もうこんなに長くなってしまいました。とにかく今回はっきり表明したいのは、私はこのブログには、普段の生活や仕事の中では伝えきれないような、雑誌の取材などでは語れないような、面倒くさい長い話を書くということであります。(つづく)
私がこのように文章を書くことは何も初めてではありません。実は、「裸木」という同人誌にここ数年、ずっと書いてきました。これは、本や新聞の校閲の仕事をしている知人たちが集まって、年に一冊作っている文芸同人誌(漫画ではない)で、書店はおろか、コミケなどにも出さず、仲間とその友人たちのあいだで読み合うためのものです。論考やエッセイ、時には小説も試してみました。
ただ、これには製本等のための出費が必要なわりに、多くの人には読んでもらえないというわけで、私は最近参加を躊躇しています。ただ、参加している同人たちは真剣で、そうした交流を通じて私も勉強になっております。
たとえば、同人の中にはプロのライターもおられ、その中のひとり木村礼子さんという人が、同じく同人小冊子「裸木通信」に面白いことを書いていました。それは「物語でしか話せない人々」がいるという話です。
皆さんのまわりでも、話し始めると、つい話が長くなってしまう人がいないでしょうか? 話を要領よくかいつまみ、短く端的に話すのではなく、始まりから終わりまで、すべて話し切らないと気が済まない人。実は、自分で身銭を切って同人誌のようなものを作り、文章を書くのが趣味という人がまさにこの「物語でしか話せない人」だと、木村さんは言うのです。
中には要領が悪いだけ、という人もいるかも知れません。必要優先の順に話を整理できない人。けれど、「物語でしか話せない人」の本物は、物事を一面だけで見ることに納得できない人、前後や裏表、過去も未来もすべて含めて、ひとつの物事であると、考えたがる人のことで、実は私自身もそうなのだと言いたいわけです。
「猫の恩返し」の公開当時は、様々な媒体の関係者が取材に来ていただき、私もいろんなことを話す機会に恵まれて、ちょっと面白かったです。しかし、こうした取材は、なかなか長く話させていただくというわけには行かないのが普通で、いかに短くうまく話せるかということが試される場でもありました。
最近、仕事の関係者からこんなことを言われました。
「森田さんって、ストーリーにもこだわりがあるのですね」
これを聞いて私は、これは失敗していると反省するわけです。
思い返してみれば無理はないのです。私は常日頃からアニメーターを自称することを誇りにしていて、自分の名刺にも「アニメーション作画・演出」と刷っている。そして「猫の恩返し」のキャンペーンでも、
「僕はアニメーターで、監督はアニメーターの仕事の延長と考えています」
と、繰り返し言っていました。自分のアイデンティティを短くうまく表明したつもりでした。でも、これを聞いた人のほとんどが、私のことを、ストーリー性やテーマ性には関心がなく、アニメーションの映像作りを中心に監督業を考えている人と、思うのは当然のことです。今思えば、ですが。
私が「監督はアニメーターの仕事の延長」と話すとき、それはアニメーターのテリトリーの中に監督業も含まれる、という逆説の意味のつもりでした。
たとえば、ストーリーとは、「いつどこで誰が何をした」という文脈で語られるものという定義が、シナリオの教本などに出てきます。私に言わせれば、アニメーターが作るキャラクターの動きも「いつどこで誰が何をした」という文脈で語られるもので、同じなのです。数年前、“複雑系の科学”というものが流行りました。この時、「ストーリーと動きはつまりフラクタルな関係にあると捉えるべきですね」などと、私は仕事場で話していました。(誰も頷いてくれなかった・・)フラクタルな関係とは、部分の関係性と全体の関係性が同じであるということで、そうした分野に多少でも関心を持ったことのある方なら、私の言うことに頷いていただけると思うのですが。(無理か・・)ストーリーのテンポやテーマ性を云々することと、動きのテンポや表現を云々するセンスは、まったく同じと私は考えています。だから、動きにこだわるなら、自然とストーリーやテーマ性に手が伸びる。私はそういう考え方をすると言いたかったのです。
ほら、もうこんなに長くなってしまいました。とにかく今回はっきり表明したいのは、私はこのブログには、普段の生活や仕事の中では伝えきれないような、雑誌の取材などでは語れないような、面倒くさい長い話を書くということであります。(つづく)
必ず全部読みます。
デジハリがなんなのか知りませんが、講義を受けられる機会があれば是非もなく受けたい。