森田宏幸のブログ

Morita Hiroyukiの自己宣伝のためのblog アニメーション作画・演出・研究 「ぼくらの」監督

スタッフの起承転結その7

2006年11月03日 11時22分53秒 | 監督日記
(その6の続き)
 近頃、どこからどう話が伝わるのか知らないけれど、「珍しく宮崎さんに逆らえた人」とか、「ものをハッキリ言える人」「無神経さが強み」とか言われる。これまでは悪い気はしないと思っていたけれど、たとえばまったく関係ない、梅原健二さんのような人にまでそんなことを言われた日には、さすがに気になった。よくよく振り返ってみるに、これはやはり、誤解されている。いや、たしかに私は自分の考えに固執し頑固で、相手の気持ちに無神経に軽口を叩いてしまうから、性格のことをそのように言われるのはしょうがないけれど、いくらなんでも、ただその性格だけで、監督なんていう難しい仕事ができるわけないじゃないかとも言ってみたい。いろいろあったけれど結果的に私は、企画者・宮崎駿と、原作者・柊あおいの意図したところの大半には理解力があった。だから、潰されずに済んだのだと自分では思っている。

 前回の続きだけれど、「千と千尋の神隠し」が忙しくなりはじめていた時期に、仕事中の宮崎さんを尋ねて難しい話を相談するのだから、度胸がいったのは確かだった。けれど、宮崎さんの物語冒頭のアイディアを聞いたとき、確かに何かが見えた気がしたのだ。その見えた何かをもう一度掴みたかった。もう一度教わりたい一心で尋ねに行ったのだ。
 
 「あの・・・見失ってしまいました」
 私がこう言うと、宮崎さんは仕事の手を止めて、たしかたばこをくわえただろうか・・。そして、ため息まじりに、
「また見失ってしまいましたか」
 と、言った。けれど、一呼吸置いて、周囲に気を遣った小声でいろいろ話してくれた。
「ラクロスと聞いたらちょっと珍しいから、面白そうだと思って入部したんじゃないかな。だけど、うるさい先輩とか上下関係とか、下らない決まり事ばかり押しつけられて、結局は他の体育部と変わらなかった。俺が体育部だとか体育会系が嫌いだから、そんな風に思うだけかもしれないけれど、ハルはそういう安易な規範に縛られたくない子なんだよ。何だか分からないけれど、違う何かを求めている、そういう子なんじゃないかな」

 教わった結論は「ハルは何かを求めている子」だった。
 ハルは何も考えていない子であり、安易な成長は拒否する子である上に、もうひとつ、決定的な特徴が加わった。それは同時に、これまで宮崎駿が作ってきたヒロインの、秘密そのものなのではないか、とも思った。
 
 最近アニメの可愛い女の子キャラのことを「萌えキャラ」などと言い、オタク消費文化の中心を賑わせているけれど、何を隠そう宮崎駿は、そのルーツである。ナウシカ、クラリス、ラナよりも前、遠く遡ると東映動画の「どうぶつ宝島 」のキャシーになる。
 より厳密に言えば、宮崎駿は東映動画の骨太で、重々しい造形の中に、漫画や童画の世界にあった、かわいらしい軽やかな造形の少女を登場させた。そうした造形は、その後、漫画を原作にした魔女っ子ものなど、テレビアニメーションの中に数多く見受けられ、別のルーツもたどることが出来るけれど、アニメーションの動きやしぐさによって、少女を生々しく表現することをいち早く成功させたのは宮崎さんだった。
 宮崎さんがアニメーターとして描いていた少女は、もともと萌えキャラのようなもので、その後継は数多くあるというのが私の見方だ。けれど、その宮崎駿が演出になり、作家性を延ばしていくにつれて、描かれる少女たちは、いわゆる「萌えキャラ」とは一線を画していった。その秘密が、この「何かを求める態度を備えている」ということなのではないかと思う。
 そしてこれは、ヒロインの表現に限った話ではない、とも思う。宮崎駿の作品はいつも、私たちの暮らしを一段高めてくれるような何かを体現してくれている。それが、他にはなかなか真似できない、宮崎駿作品の本質なのだろうと思った。
 これは、黒澤明や山田洋次など、娯楽性とテーマ性を両立させられるヒットメーカーには共通して言える本質論なのだと思うけれど、これこそが難しいのだと思う。ジブリ作品のヒットを追って、あの優しげな絵を真似たり、ファンタジックなエンターテインメントを凝ってみたり、善良なキャラクターを展開させてみても、それらの要素は、たまたま、時代ごとに宮崎駿作品が備えた属性に過ぎず、本質ではない。

 宮崎さんから新たに教わった話を、早速田中直哉さんにしてみたら、「体育会系は安易な規範に縛られている」という論点で引っかかっていた。直哉さんは趣味でテニスをやったりするような人なので、無理もない。かくいう私も、中学から高校まで陸上部に所属した経験があるので、体育部嫌いに響かない人は、周囲にいくらでも出てくるだろうということは、理解できた。
 そこで、私は「部室をバーンと出てくる」というアイディアは諦めたのである。これは、決して私が、宮崎さんに逆らったとか、そういうことではない。このアイディアが育たなかっただけの話だ。ここでこのアイディアにこだわったならば、表面的に真似て、本質が伴わないという落とし穴が待っていただろう。別に宮崎さんは、体育会系を批判する映画を作りたいわけではなかったのだから。「ハルは何かを求めている子」というイメージを、私はしっかり掴んでいた。冒頭は、原作通りでやればよい。現状に満足できないハルは、朝目覚めが悪いけれど、美味しそうに朝食をとる母親の、豊かな暮らしを羨ましがり、限りなくそれを求めながら、遅刻してはいけないという規範を守って頑張っている子、というオープニングで行けると思った。
 「猫の国」へ連れて行かれる理由も、「ハルが何かを求めたから」で整理できる。そして、思いがけないことだったが、「何かを求めている子」の、現状に満足していないというところと、下らない規範に縛られたくないという反骨は、私が最初にイメージしていた「ちょっと悪い子」のハルと根底で重なった。原作に忠実でも、自分のモチベーションを生かせる。願ったりかなったりだった。
 以上の構想を聞いたプロデューサーの高橋望さんは、脚本家に話して通用する客観性をある程度備えていると見込み、吉田玲子さんに脚本を発注することを決めた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スタッフの起承転結 その6 | トップ | スタッフの起承転結 その8 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

監督日記」カテゴリの最新記事