(原作漫画とアニメーションの関係2の続き)
「猫の恩返し」を監督している時、原作を改変する案に固執する私を見て、あるスタッフが、
「森田さんはまるで作家ですね」
と言った。もちろんこれは、皮肉を言われたのである。
アニメーションの監督が作家として認められる例など珍しいからだ。作家はむしろライターの方ではないだろうか。特に、私ははじめに原作ありきの監督だからなおさらである。
せっかく原作があって、ストーリーが出来ているのだから、その通り作ればいいじゃないかという感覚は、MONSTERで示したとおり間違いではない。この感覚でそれぞれの位置づけをありていに言えば、原作を「主」として、アニメーションのスタッフは「従」と言ったところか。
そして、スタッフの中にも「主と従」がある。たとえば、演出とアニメーター。原画マンが、自分の描きたいように描かせてもらえないと苛立ちを感じるのはよくあることだけれど、これなどは、原作漫画とアニメーションの関係に似ている。前回の言葉を借りて言えば、
「物事を直接観察し、発見したことがらをもとに表現を構築するというプロセスは、演出が絵コンテを描く時点で終わってしまっている」
ということになるからだ。
私はもともとアニメーターなので、これまで演出と切磋琢磨しながら原画を描いてきた。監督になっても、それと同じ感覚で、原作と向き合う。私にとって、原作を前にした監督とは何かを考えるとき、無意識にアニメーターたちのことを考えている。その実感から断定するけれど、スタッフ同士の関係は「主と従」だけでは割り切れない。アニメーターが演出に、ただ従順なだけでは絵は生き生きと動かないし、かといって好き勝手にされても作品はまとまらない。
「森田さんはまるで作家ですね」
と言われた時、私は答えに窮した。なぜなら、自分は作家なのか作家ではないのかなどという枠組みで、ものを考えたことがなかったからだ。
さきにも書いたが、ライターはどうなるのか? 原作者が「主」で、アニメーションのスタッフが「従」で、ライターも「主」なのか? 「主」が二席あるのか?
監督とライターで「主」の座を取り合うというようなトラブルはよくある話だけれど、監督とライターはどっちが偉いのか?などという問いかけにはうんざりする。それは共同の表現作業の本質を見誤ったのちに出てくるものではないかと私は思うのだ。
「主」に敗れて「従」に下ったかと思うと、卑屈な気持ちになるではないか。監督やライターはまだ名誉があるからよい。しかし、私はアニメーターにも主体性を持って仕事をして欲しいし、自分もそうしたいのである。
かといって、スタッフはみな平等、というのも嫌いだ。原作者とそれをアニメ化する監督、或いは監督とアニメーターが平等なわけがない。
アニメーションを作る関係者の椅子が、「主」と「従」の二方向しかないとすると、寂しいことになるのだけれど、みんな平等、みんな同じというのも納得できない。
「主と従」に代わる、もう少し、融通の利くスタッフの枠組みはないか?(つづく)
「猫の恩返し」を監督している時、原作を改変する案に固執する私を見て、あるスタッフが、
「森田さんはまるで作家ですね」
と言った。もちろんこれは、皮肉を言われたのである。
アニメーションの監督が作家として認められる例など珍しいからだ。作家はむしろライターの方ではないだろうか。特に、私ははじめに原作ありきの監督だからなおさらである。
せっかく原作があって、ストーリーが出来ているのだから、その通り作ればいいじゃないかという感覚は、MONSTERで示したとおり間違いではない。この感覚でそれぞれの位置づけをありていに言えば、原作を「主」として、アニメーションのスタッフは「従」と言ったところか。
そして、スタッフの中にも「主と従」がある。たとえば、演出とアニメーター。原画マンが、自分の描きたいように描かせてもらえないと苛立ちを感じるのはよくあることだけれど、これなどは、原作漫画とアニメーションの関係に似ている。前回の言葉を借りて言えば、
「物事を直接観察し、発見したことがらをもとに表現を構築するというプロセスは、演出が絵コンテを描く時点で終わってしまっている」
ということになるからだ。
私はもともとアニメーターなので、これまで演出と切磋琢磨しながら原画を描いてきた。監督になっても、それと同じ感覚で、原作と向き合う。私にとって、原作を前にした監督とは何かを考えるとき、無意識にアニメーターたちのことを考えている。その実感から断定するけれど、スタッフ同士の関係は「主と従」だけでは割り切れない。アニメーターが演出に、ただ従順なだけでは絵は生き生きと動かないし、かといって好き勝手にされても作品はまとまらない。
「森田さんはまるで作家ですね」
と言われた時、私は答えに窮した。なぜなら、自分は作家なのか作家ではないのかなどという枠組みで、ものを考えたことがなかったからだ。
さきにも書いたが、ライターはどうなるのか? 原作者が「主」で、アニメーションのスタッフが「従」で、ライターも「主」なのか? 「主」が二席あるのか?
監督とライターで「主」の座を取り合うというようなトラブルはよくある話だけれど、監督とライターはどっちが偉いのか?などという問いかけにはうんざりする。それは共同の表現作業の本質を見誤ったのちに出てくるものではないかと私は思うのだ。
「主」に敗れて「従」に下ったかと思うと、卑屈な気持ちになるではないか。監督やライターはまだ名誉があるからよい。しかし、私はアニメーターにも主体性を持って仕事をして欲しいし、自分もそうしたいのである。
かといって、スタッフはみな平等、というのも嫌いだ。原作者とそれをアニメ化する監督、或いは監督とアニメーターが平等なわけがない。
アニメーションを作る関係者の椅子が、「主」と「従」の二方向しかないとすると、寂しいことになるのだけれど、みんな平等、みんな同じというのも納得できない。
「主と従」に代わる、もう少し、融通の利くスタッフの枠組みはないか?(つづく)
ただ、記事を読ませていただいた限り、「主」と「従」の二項優劣の点のみを突き詰めていくと、閉塞感に繋がるような気もします。
「主」と「従」に、「重」と「軽」をつけ加えて、お考えになってみては如何でしょう。
森田さんには、森田さんの「重」と「軽」があり、まわりの方にはまわりの方それぞれの「重」と「軽」があるというように。
話し合いで、「軽」は「重」になり、「重」は「軽」になりえます。どうでしょうか?
貴重なご意見ありがとうございます。
ただ、あくまで客観的に解釈できる「枠組み」を問題にしたいので、「人それぞれの重と軽」という切り口は、すっきりしません。
もしもお暇があれば、ですが、
8月22日の「ファシリテーション」からお読みいただけると、私の意図が分かっていただけるかと思うのです。
「ひっで~!」と口走った覚えがあります。なんでこんな代物を映画にしなくっちゃいけなんだろう、と。
公開当時、映画は腐しました。でも、あのマンガでなんとかしろと言われたら、私でも頭を抱えるのココロ。
どのへんが「ひっで~!」だったのか分かりませんが、
たしかに当時、なんでこれを?と疑問を感じる知人は多かったです。
>なんでこんな代物を映画にしなくっちゃいけなんだろう、と。
理由は、1)宮崎駿が決めたから
2)耳をすませばが根強い人気だったから
3)柊あおいさんのファンがジブリに結構多い
4)私が興味を持ったから
です。
コナンの原作の「残された人々」や「ハウル」の原作をお読みになるといいですよ。宮崎さんが原作に選ぶ作品は「巧く出来ていなくても、他にはない魅力のあるアイディアが含まれているもの」だと思います。
猫の原作の脳天気な味はよかったけどな。楽しい企画ってなかなかないですよ。