(写真↑ 記事とは関係ない、桜島。先日鹿児島に行った日、このように、噴煙を止めて、静かになっている時もあった。)
森田宏幸です。
今日は2010年1月31日です。
今日は、ジェームス・キャメロン監督の話題作「アバター」について書きます。
私はこの「アバター」を正月に見て、そのあと、世界市場における歴代の映画の興行収入を塗り替えた、というニュースを見て、とても考えさせられました。
このアバターの成功の理由は、最新の立体視映像の技術と、中国の市場に切り込んで行った興行戦略の「合わせ技」にあると、私は考えました。
特に、私に、映像業界のウラの情報がある、というわけではないですが、日頃のニュースとか、現場のはじっこで見聞きする話の総合で、そのような結論になります。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/01/27/02.html
「革新的3D映画「アバター」あっさり興収世界一」
この「アバター」のヒットが報じられたとき、同時に大きく話題になったのが、中国での騒ぎです。
「アバター」が売れすぎて、国産映画、とくに、国策映画の「孔子」が売れなくなるので、中国当局が動いて、アバターの上映館を減らして、「孔子」に振り向けた、というニュースです。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100127/chn1001271714006-n1.htm
「中国、『アバター』通常版打ち切り「孔子」上映 強制収用連想嫌う?」
(産経ニュースから、一部を転載はじめ)
【北京=川越一】世界での興行収入記録を塗り替えた米映画「アバター」(ジェームズ・キャメロン監督)に、中国政府が過敏になっている。中国国内では通常版の上映が打ち切られ、国産映画「孔子」(胡●監督)に切り替わった。それを発端に、国内外で愛国教育や宅地の強制収用を連想させるストーリーとの関連を指摘する声が上がり、当局も疑惑の払拭に乗り出している。
現在、約110カ国・地域で公開中のアバターは、25日までの興業収入が18億5500万ドル(約1670億円)を超え、1997年に18億4290万ドル(約1660億円)を売り上げた同監督の「タイタニック」を抜いた。中国でも今月4日の公開以来、すでに5億元(約70億円)を超え、昨年、米映画「2012」(ローランド・エメリッヒ監督)が打ち立てた国内記録を更新した。
本来は2月末まで、全国約2500カ所の映画館で上映される予定だった。それが今月22日、通常版を上映していた1628カ所のスクリーンから消えた。代わって公開されたのが、胡錦濤共産党総書記(国家主席)の旗振りで制作された国策映画の「孔子」。北京市では、春節(今年は2月14日)休みの宿題として「孔子」を鑑賞した感想文を児童・生徒に課した小中学校もあるというから、党の指導に従うよう教育するという当局のもくろみは明らかだ。
(●=王へんに枚のつくり)
(転載終わり)
森田宏幸です。
ここで、注目していただきたいのは、全体の興行成績、ではなく、興行館数の、2500箇所という数字です。多い!
1628箇所減らされて、872箇所に減るにしても、やっぱり多い。少なくとも、当初は、2500箇所で公開されたのですから。(この「箇所」という表現。「2500館」ではないのでしょうか。映画館ではないということでしょうか? 私には分かりません。。 )
日本で、鳴り物入りで、公開される、ハリウッド大作は、500館とかだと聞いたことがあります。「スターウォーズ」みたいなやつ。ちなみに「猫の恩返し」は250館ぐらいでした。宮崎駿の千尋などでは、だいたい、300館ぐらいだったと思います。
アメリカでの「アバター」は、3452館、7000スクリーンだそうです。さすがに本場は凄いですが。
http://www.cinematoday.jp/page/N0021499
シネマトゥデイ映画ニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/4486696/
シゴトの計画
つまり、「孔子」がどうのこうの、と、相変わらず、中国市場は閉じられている感じはしますが、少なくとも、日本の市場の規模は越えています。そして、これからもっと増える。そして、何より、アバターの、国別の興行収入を見ても、日本は、中国にすでに抜かれているようです。
http://www.moviecollection.jp/news/detail.html?p=842
「『アバター』日本でも公開3週間で興収50億円突破の大ヒット中!」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100121-OYT1T01033.htm
ここの記事↑には、中国で、1月4日~21日で5億元(約70億円)と出ています。
思うのは、いつの間に、このようなことになっただろうかと。だって、中国は、海賊版大国、違法コピーの国ではなかったの? ということです。私自身も、「千と千尋2」というタイトルの「猫の恩返し」の海賊版を知ってます(笑)
一昨年と、去年だったか、さかんに、中国は、違法コピーで、海賊版大国で、コンテンツの市場にはならない、と、ニュースで宣伝されてました。だけれど、中国の人たちは、ちゃんとお金を払って、「アバター」を見ている。
もっと言うと、ネット上のYoutubeとか、ニコ動とかのせいで、もう、映像産業は成り立たなくなるのではないか、などと言われてました。実際本当に、DVDが売れないそうです。そのことで、今、アニメ業界も調子が悪い。仕事も減っています。
なのに、皮肉なことに、去年の日本の映画界の興行収入は、これまた歴代1位を記録しました。どういうことでしょうか?
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100128-OYT1T00941.htm
「映画興行収入、3年ぶり2000億円超す」
だから、映像産業が、斜陽だなどということも、ない。だけれど、映画の興行収入ではなく、DVDの売り上げで、帳尻を合わせる、小規模興行の日本のアニメーションや、低予算の実写映画などは、苦しいわけです。あと、アジアの市場に、ネットワークがないと、ダメということになるのでしょう、きっと。
今年、また、リーマンショックを超える、金融危機がアメリカで起こって、さらに、景気は悪くなるそうです。そうして、数年かけて、アメリカ中心だった市場経済が、アジア中心に変わる。そのことが、一般論として、ちまたで言われるようになっています。私はこのことを、副島隆彦という人の著作で知りました。(「あと5年で中国が世界を制覇する」ビジネス社)
そうした趨勢を、無意識に感じてか、数年前から日本の観客は、ハリウッド映画に飽きて、邦画をよく見るようになりました。日本の有数の大企業が、製作委員会に大同団結して、コンテンツ産業を盛り上げたということもあると思います。アメリカの時代が終わって、これから日本人は、自国の映画を愛するようになって、日本の映画作りの状況がよくなるのかな、と、私もちょっと楽天的になった瞬間がありました。
しかし、そうした間にも、アメリカの映画人たちは、着々と次の時代の準備をしていたのだと思います。
ここからは、私自身の持論です。
どうやら、アメリカでは、映像産業の序列がはっきりしているような気がします。そのことをまず、論じたい。
分かりやすく、ぶっちゃけて書きますが、映画が一番上で、次が放送、そして、DVDなどの、ソフト(ゲームもこの中に入るのでしょう)。この順番で、映像産業の構造が構築されているような気がします。
なぜかというと、劇場映画は、最新のテクノロジーの市場における実験場となりうるからだと思います。
立体視映画自体は、かなり前からあるものです。ディズニーランドにもある。私は一昨年の広島国際アニメーションフェスティバルで見ていました。それは狭い部屋で、大きめのテレビモニターで、上映されたものでしたが。
私が言っているのは、立体視映像のような、新しい技術開発を、テレビで行うのか、スクリーンで行うのか、という話ではありません。そうではなくて、そうした新しい技術を市場で、売り物になるかどうか試すとき、テレビモニターが先行するのか、スクリーンが先行するのか、という話なのです。それが、おそらく、電気機器であるテレビで行うよりも、映画館で行う方がリスクが小さいということなのだろうと思います。
たとえば、皆さん、ロードショウという言葉の、そもそもの意味を知っていますか。私はこのことを最近、知人の若いプロデューサーから教わりました。ウィキペディアなどにも、それを裏付ける話が書いてあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロードショー_(映画)
今の日本では、映画の封切りのこと自体をロードショウと言ってますが、本来は、映画のフィルムと映写機をトラックに積んで運んで、その行く先々で映画を見せてまわる、映写機を積んだトラックが道を行くから、「ロードショウ」なのだそうです。
何が言いたいかというと、映画の興行とは、それぐらい、安く、小回りの利く物だ、というとらえ方が伝統的にあるということです。数年前から日本の全国に広まったあの「シネコン」。地方の郊外に、広々とした駐車場とともに出現する、あの建物も、実は、とても安く作られているらしいです。見るからに、それほど堅牢な建物ではないでしょう。或いは、総合ショッピングモールの一角に、間借りするように作られたりします。映画館というのは、そのように、出来るだけお金をかけずに作られている。
これは、私の類推に過ぎませんが、テレビなどの家電を、市場に送り出すリスクに比べたら、映画館は楽に建てられるのだろうと思うのです。売れなかったら、たたんで、またほかの土地を探す、パチンコ屋のようなものなのではないか、と。
そうした映画館の性質、体質は、まさに、アジアやアフリカの新興国で武器になります。テレビの放送インフラを広めるとか、何年かかるか。放送枠をとって、広告料を集めるには、どれだけの根回しが必要か。映画館なら土地さえ見つかれば、数ヶ月、いや数日で作れる。
そうして、成功したら、効果は絶大に表れる。映像に盛り込まれた最新の技術は、大きなスクリーンでこそ、倍増しますから。そして、映画館に人を集めるということは、やっぱり力があるのだと思います。口コミが一気に広がる。
ハリウッド映画が、実はアメリカの国策であるという点も忘れてはならないと思います。その点は中国の「孔子」と同じです。ただし、アメリカでは、たくさんの資本が注ぎ込まれて、新しい技術開発が行われている。
日本では、そうした開発の意識が希薄なので、そのへんの序列が違うのだと思います。テレビやパソコンを作る家電メーカーの技術力が高いということも、関係しているかも知れません。映画の興行は宣伝目的と割り切って、DVDの売り上げで稼ごうとか、テレビの宣伝のほうが大事だとかと、序列の逆転が起こります。
けれどハリウッドの映画は違うようです。
パソコンを世界中に普及させ、インターネットで、自国(アメリカ)の文化を新興国に発信する。デジタル技術で海賊版が出回ってもなんのその。Youtubeやネット配信などで、DVDが売れなくなってもかまわまい。なぜならそれらは、序列の上では下層の媒体だから。むしろそれらは、タダでくれてやってもいいから、ネット上の広告収入などで帳尻が合えばいい。映画の魅力を安く広めた上で、映画の興行を輸出していく。それも、コピー不能、(少なくとも今の段階では)無断撮影不能な、映画館でしか見られない立体視映画なのだから、お客さんはちゃんとお金を払ってくれる、という計算なのだと思います。
上に引用した記事にあるとおり、中国で、「アバター」の上映館が縮小されたと言っても、それは、立体視ではない映画館に限った話だと、報じられています。中国当局の気遣いと言えなくもない。。
中国が、いくら海賊版の違法コピーのけしからん国でも、ハリウッド映画の上層の人たちは、いつのまにか中国の財界と話をつけて、さっさと進出しています。ひょっとしたら、それはもう、ハリウッド映画ではないのかも知れませんけど。
今朝の読売新聞に「アバターは反米映画だ」という批判が、米国の保守派から起こっているという記事がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100130-OYT1T00839.htm
「アバターは反米・反軍映画」保守派いら立ち
なんでも、「アバター」の 自然の中に神が宿るという、キリスト教などの一神教とは相いれない信仰をナヴィが持っている点に、批判が出ているそうです。
これからますます、アメリカの市場がダメになることが、映画界の上層の人たちには分かっているのだと思います。だから、なりふりかまわず、中国を中心にしたアジアに、進出する必要がある。それは自国の、一定の層を敵に回してでも、ということだと思います。そうした戦いの中で、日本のメディアや映像産業のことなど、彼らの眼中にはない。
私も正月に「アバター」を見て驚きました。思い出したのは、高校生の時、スピルバーグやジョージルーカスの映画の、ドルビー音響システムが生み出す、迫力のサウンドに度肝を抜かれた時のことです。その後、家庭用のビデオが普及しても、映画はやっぱり映画館に限る、などと言っていた。
「アバター」を見て、もうこれからは、映画は3Dの立体視で見なければ損、と、誰もが言うようになるだろうと思いました。実際、私のまわりの友人たちは、皆、そう言っています。
余談になるけれど、「カールじいさん」の方が、立体視の奥行き感が、豊かなような気がしたのは、私だけでしょうか? 「アバター」は、空間は感じられるけど、物の立体感はうすっぺらい気がしました。「カールじいさん」の方が、立体感が自然に感じられました。3Dメガネの種類が違ったから、何か秘密があるのでしょうか? 3DCG特有の絵の立体感が、助けになっているのでしょうか。まだ、よく分からないのですが。。
そして、ここからは、作り手の立場で感じたことなのですが、このように、立体視映画が普及するようになれば、制作手法の分野で、日本はまた、欧米に(と同時にアジアのほかの国々にも)遅れることになるだろうということです。
立体視映画には、それならではの、従来の映画にはない演出手法が、あるだろうということを感じます。比較的、手前に飛び出したものを観客は見るとか、視線の移動の設計の仕方が変わってくるのではないかと思いました。 あと、「アバター」が、やっぱり、よかったのは、カメラが、縦横無尽に空間を飛び回ることです。それはこれまでのアクション映画でもありましたが、立体視映画の効果を引き出すには不可欠という気がします。これまで、広島国際などで見た、立体視映画の小作品には、それがなかったから、あまり画面に引き込まれる感じがしなかったのだと思いました。
ああした、自由なカメラ移動は、どのようにストーリーボード(絵コンテ)に描いて、効果を計算するのか、私には、さっぱり分かりません。少なくとも、絵コンテで、さきにレイアウトを決めて、画面を構築するという方法では、ダメでしょう。うまく書けませんが、実写的な作り方を取り入れるとか、そんなことではないかと思います。
そうした、技術の肝心の勘所(かんどころ)が、実は、日本の現場には伝わってきていないのを感じます。手描きのアニメーション(最近、これを2Dなどと呼びますが、、)も同じです。東映動画の時代から、ディズニーに習いつつも、独自の手法で発展してきた良さは、私も身をもって知るところですが、技術論の体系化を怠ってきたばかりに、人材の育成に大変苦労している。日本の作り手たちは、欧米の技術の体系に習って、それに独自のものを加えるという風にしていったほうが良いのではないか、と思います。少なくとも、アジアのほかの国々はそれをやるでしょう。
「これからは手描きではない。3DCGの時代だ」と、言われ始めたのは、私がアニメーターになった、80年代でした。私たち、日本の作り手たちは、それを聞いてなんとなく、手描きと3Dの絵肌の違いを、どっちがいいのかなぁ、と議論してました。でも、アメリカの本場の人たちは絶対に、その時、すでに、今の、立体視の映画の興行形態を計画していたはずだと思うのです。そうした、話は、我々には伝わって来ません。
念のためですが、3Dをやればよかった、と言っているのではありません。今日は、まるで、手描きのアニメーターとしての立場を忘れているみたいに書いていますが、そうではありません。手描きのアニメーターにも関係がある話として、書いています。実は、最近、私は3Dアニメーションの演出の仕事もやってます。監督ではありません。自分が監督ではない仕事に関して、ここにあれこれ書くのは、ちょっと気を遣うのです。なので書けませんが。
しかし、少なくとも、私は、手描きのアニメーションをやめるつもりはありません。自分が、もっともいい動きを作れるのは、手描きだと思うので。このへんの自分の立ち位置については、長くなるので、また改めてまた書きます。
話を戻しますが、とにかく、この「アバター」で、私が痛感したのは、今後も、日本の映像産業は、あい変わらず欧米の背中を追いかけていくことになるということです。それどころか、中国を中心にした、アジアのクリエーターたちにも、追いつけなくなるかも知れない。そうなれば、それはもう、仕方がない。
ただし、強いて希望を申せば、今後、アジアが重要な市場になるということであれば、同じアジア人である、日本人の感覚や趣向が、有利に働くということはあるだろうと思います。
あそこまで、自然の、まるで魔法じみた力に、人間の運命を委ねる「アバター」の世界観に、どれだけの観客が納得するのでしょうか? アメリカがイギリスの植民地としてスタートする時代のポカホンタスの物語を、ラストだけひっくり返したストーリーは確かに痛快でしたが、日本人なら、自然への畏れや敬いの気持ちを、もっと自然に、ネイティブに描けるのではないかと思います。宮崎駿が、30年も前からやっていたことですから。
日本のアニメーションの作家たちが、その役割を担える可能性はあると思います。
最後に、とってつけたようになってしまいますが、すごく古い本から引用します。
瓜生 忠夫(うりう ただお)という、戦前の評論家ですが、このすぐれた評論家を、私はまだ、アニメーターになって数年のころ、友人から教えてもらって、読みました。
私の立場として、手描きのアニメーションが、かつて、たしかに時代の最先端だった、その魅力を再確認していただきたいと考えて引用します。
瓜生 忠夫(うりう ただお) 著
「映畫のみかた」 岩波新書(﨧版)57 昭和26年2月20日 発行
(195ページから転載はじめ)
夢と現實
1 ディズニイの「ファンタジア」
幸運にも偶然の機會に、ウォルト・ディズニイの長篇テクニカラー動畫「ファンタジア」を見ることができたのは、一九四三年の春であった。・・・・・・はげしいショックであった。何という高い技術を縦横に驅使した「ファンタジア」であったことか。日本では想像もつかぬ高度の映畫技術。
一九三八年の一月、ニューヨークのラヂオ・シティ・ミュージック・ホール(收容人員六千名)で封切られたディズニィの長篇極彩色漫畫「白雪姫」は、六週間のロングランを打って世を驚かせた。「シリー・シンフォニイ」や「ミッキイ・マウス」などで、ディズニイの手腕はすでに知られていたけれど、いざ、「白雪姫」が出てみると、美しいテクニカラーの長篇漫畫が、どんなに大きな魅力のあるものか、誰でも改めて考え直さずにはいられなかった。いったい映画は、ある一つながりの動きを、できるだけ細かく分解(トーキーでは一秒間に二十四コマ)撮影し、それを復元するものだけれど、動畫(漫畫)は、その理窟を使って、分解された動きを先ず一コマずつ撮影し、やがてそれを一つながりの動きとして現わすものである。だから撮影され映寫されるフィルムを調べても、ふつうの映畫と動畫との間には、どこにもちがいはありはしない。しかしその元をたずねてみると、一方はもともと生きて(あるいは自然に)動くものを、そのまま再現するのに對して、一方は元來、生きてはいない靜止しているものを、あたかも生き物のようにスクリーンにうつしだすのだから、それら二つの間には本質的なちがいがあるのであった。というだけでは足りぬ。もし、全く生きてはいない描かれた畫や人形を、一コマずつ撮影することによって、生き物や自然物と全くおなじように動くものをスクリーンの上に創り出すことができるなら、人間は可能な限りの空想を、あたかも「現實の記録」とおなじように取扱うことができるのであるから、人間の空想と現實の間には、映畫に關する限り少しも區別はいらないことになってしまう。人間は映畫において、もっとも空想的なフィクションを、もっとも現實的に創りあげてみせることができるのである。恐るべき、が、魅力ある空想である。その魅力にひかれて、「動畫」を完全にわがものとした人が、すなわちウォルト・ディズニイであった。
(転載終わり)
長くなりましたが、これで終わりです。
森田宏幸です。
今日は2010年1月31日です。
今日は、ジェームス・キャメロン監督の話題作「アバター」について書きます。
私はこの「アバター」を正月に見て、そのあと、世界市場における歴代の映画の興行収入を塗り替えた、というニュースを見て、とても考えさせられました。
このアバターの成功の理由は、最新の立体視映像の技術と、中国の市場に切り込んで行った興行戦略の「合わせ技」にあると、私は考えました。
特に、私に、映像業界のウラの情報がある、というわけではないですが、日頃のニュースとか、現場のはじっこで見聞きする話の総合で、そのような結論になります。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/01/27/02.html
「革新的3D映画「アバター」あっさり興収世界一」
この「アバター」のヒットが報じられたとき、同時に大きく話題になったのが、中国での騒ぎです。
「アバター」が売れすぎて、国産映画、とくに、国策映画の「孔子」が売れなくなるので、中国当局が動いて、アバターの上映館を減らして、「孔子」に振り向けた、というニュースです。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100127/chn1001271714006-n1.htm
「中国、『アバター』通常版打ち切り「孔子」上映 強制収用連想嫌う?」
(産経ニュースから、一部を転載はじめ)
【北京=川越一】世界での興行収入記録を塗り替えた米映画「アバター」(ジェームズ・キャメロン監督)に、中国政府が過敏になっている。中国国内では通常版の上映が打ち切られ、国産映画「孔子」(胡●監督)に切り替わった。それを発端に、国内外で愛国教育や宅地の強制収用を連想させるストーリーとの関連を指摘する声が上がり、当局も疑惑の払拭に乗り出している。
現在、約110カ国・地域で公開中のアバターは、25日までの興業収入が18億5500万ドル(約1670億円)を超え、1997年に18億4290万ドル(約1660億円)を売り上げた同監督の「タイタニック」を抜いた。中国でも今月4日の公開以来、すでに5億元(約70億円)を超え、昨年、米映画「2012」(ローランド・エメリッヒ監督)が打ち立てた国内記録を更新した。
本来は2月末まで、全国約2500カ所の映画館で上映される予定だった。それが今月22日、通常版を上映していた1628カ所のスクリーンから消えた。代わって公開されたのが、胡錦濤共産党総書記(国家主席)の旗振りで制作された国策映画の「孔子」。北京市では、春節(今年は2月14日)休みの宿題として「孔子」を鑑賞した感想文を児童・生徒に課した小中学校もあるというから、党の指導に従うよう教育するという当局のもくろみは明らかだ。
(●=王へんに枚のつくり)
(転載終わり)
森田宏幸です。
ここで、注目していただきたいのは、全体の興行成績、ではなく、興行館数の、2500箇所という数字です。多い!
1628箇所減らされて、872箇所に減るにしても、やっぱり多い。少なくとも、当初は、2500箇所で公開されたのですから。(この「箇所」という表現。「2500館」ではないのでしょうか。映画館ではないということでしょうか? 私には分かりません。。 )
日本で、鳴り物入りで、公開される、ハリウッド大作は、500館とかだと聞いたことがあります。「スターウォーズ」みたいなやつ。ちなみに「猫の恩返し」は250館ぐらいでした。宮崎駿の千尋などでは、だいたい、300館ぐらいだったと思います。
アメリカでの「アバター」は、3452館、7000スクリーンだそうです。さすがに本場は凄いですが。
http://www.cinematoday.jp/page/N0021499
シネマトゥデイ映画ニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/4486696/
シゴトの計画
つまり、「孔子」がどうのこうの、と、相変わらず、中国市場は閉じられている感じはしますが、少なくとも、日本の市場の規模は越えています。そして、これからもっと増える。そして、何より、アバターの、国別の興行収入を見ても、日本は、中国にすでに抜かれているようです。
http://www.moviecollection.jp/news/detail.html?p=842
「『アバター』日本でも公開3週間で興収50億円突破の大ヒット中!」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100121-OYT1T01033.htm
ここの記事↑には、中国で、1月4日~21日で5億元(約70億円)と出ています。
思うのは、いつの間に、このようなことになっただろうかと。だって、中国は、海賊版大国、違法コピーの国ではなかったの? ということです。私自身も、「千と千尋2」というタイトルの「猫の恩返し」の海賊版を知ってます(笑)
一昨年と、去年だったか、さかんに、中国は、違法コピーで、海賊版大国で、コンテンツの市場にはならない、と、ニュースで宣伝されてました。だけれど、中国の人たちは、ちゃんとお金を払って、「アバター」を見ている。
もっと言うと、ネット上のYoutubeとか、ニコ動とかのせいで、もう、映像産業は成り立たなくなるのではないか、などと言われてました。実際本当に、DVDが売れないそうです。そのことで、今、アニメ業界も調子が悪い。仕事も減っています。
なのに、皮肉なことに、去年の日本の映画界の興行収入は、これまた歴代1位を記録しました。どういうことでしょうか?
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100128-OYT1T00941.htm
「映画興行収入、3年ぶり2000億円超す」
だから、映像産業が、斜陽だなどということも、ない。だけれど、映画の興行収入ではなく、DVDの売り上げで、帳尻を合わせる、小規模興行の日本のアニメーションや、低予算の実写映画などは、苦しいわけです。あと、アジアの市場に、ネットワークがないと、ダメということになるのでしょう、きっと。
今年、また、リーマンショックを超える、金融危機がアメリカで起こって、さらに、景気は悪くなるそうです。そうして、数年かけて、アメリカ中心だった市場経済が、アジア中心に変わる。そのことが、一般論として、ちまたで言われるようになっています。私はこのことを、副島隆彦という人の著作で知りました。(「あと5年で中国が世界を制覇する」ビジネス社)
そうした趨勢を、無意識に感じてか、数年前から日本の観客は、ハリウッド映画に飽きて、邦画をよく見るようになりました。日本の有数の大企業が、製作委員会に大同団結して、コンテンツ産業を盛り上げたということもあると思います。アメリカの時代が終わって、これから日本人は、自国の映画を愛するようになって、日本の映画作りの状況がよくなるのかな、と、私もちょっと楽天的になった瞬間がありました。
しかし、そうした間にも、アメリカの映画人たちは、着々と次の時代の準備をしていたのだと思います。
ここからは、私自身の持論です。
どうやら、アメリカでは、映像産業の序列がはっきりしているような気がします。そのことをまず、論じたい。
分かりやすく、ぶっちゃけて書きますが、映画が一番上で、次が放送、そして、DVDなどの、ソフト(ゲームもこの中に入るのでしょう)。この順番で、映像産業の構造が構築されているような気がします。
なぜかというと、劇場映画は、最新のテクノロジーの市場における実験場となりうるからだと思います。
立体視映画自体は、かなり前からあるものです。ディズニーランドにもある。私は一昨年の広島国際アニメーションフェスティバルで見ていました。それは狭い部屋で、大きめのテレビモニターで、上映されたものでしたが。
私が言っているのは、立体視映像のような、新しい技術開発を、テレビで行うのか、スクリーンで行うのか、という話ではありません。そうではなくて、そうした新しい技術を市場で、売り物になるかどうか試すとき、テレビモニターが先行するのか、スクリーンが先行するのか、という話なのです。それが、おそらく、電気機器であるテレビで行うよりも、映画館で行う方がリスクが小さいということなのだろうと思います。
たとえば、皆さん、ロードショウという言葉の、そもそもの意味を知っていますか。私はこのことを最近、知人の若いプロデューサーから教わりました。ウィキペディアなどにも、それを裏付ける話が書いてあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロードショー_(映画)
今の日本では、映画の封切りのこと自体をロードショウと言ってますが、本来は、映画のフィルムと映写機をトラックに積んで運んで、その行く先々で映画を見せてまわる、映写機を積んだトラックが道を行くから、「ロードショウ」なのだそうです。
何が言いたいかというと、映画の興行とは、それぐらい、安く、小回りの利く物だ、というとらえ方が伝統的にあるということです。数年前から日本の全国に広まったあの「シネコン」。地方の郊外に、広々とした駐車場とともに出現する、あの建物も、実は、とても安く作られているらしいです。見るからに、それほど堅牢な建物ではないでしょう。或いは、総合ショッピングモールの一角に、間借りするように作られたりします。映画館というのは、そのように、出来るだけお金をかけずに作られている。
これは、私の類推に過ぎませんが、テレビなどの家電を、市場に送り出すリスクに比べたら、映画館は楽に建てられるのだろうと思うのです。売れなかったら、たたんで、またほかの土地を探す、パチンコ屋のようなものなのではないか、と。
そうした映画館の性質、体質は、まさに、アジアやアフリカの新興国で武器になります。テレビの放送インフラを広めるとか、何年かかるか。放送枠をとって、広告料を集めるには、どれだけの根回しが必要か。映画館なら土地さえ見つかれば、数ヶ月、いや数日で作れる。
そうして、成功したら、効果は絶大に表れる。映像に盛り込まれた最新の技術は、大きなスクリーンでこそ、倍増しますから。そして、映画館に人を集めるということは、やっぱり力があるのだと思います。口コミが一気に広がる。
ハリウッド映画が、実はアメリカの国策であるという点も忘れてはならないと思います。その点は中国の「孔子」と同じです。ただし、アメリカでは、たくさんの資本が注ぎ込まれて、新しい技術開発が行われている。
日本では、そうした開発の意識が希薄なので、そのへんの序列が違うのだと思います。テレビやパソコンを作る家電メーカーの技術力が高いということも、関係しているかも知れません。映画の興行は宣伝目的と割り切って、DVDの売り上げで稼ごうとか、テレビの宣伝のほうが大事だとかと、序列の逆転が起こります。
けれどハリウッドの映画は違うようです。
パソコンを世界中に普及させ、インターネットで、自国(アメリカ)の文化を新興国に発信する。デジタル技術で海賊版が出回ってもなんのその。Youtubeやネット配信などで、DVDが売れなくなってもかまわまい。なぜならそれらは、序列の上では下層の媒体だから。むしろそれらは、タダでくれてやってもいいから、ネット上の広告収入などで帳尻が合えばいい。映画の魅力を安く広めた上で、映画の興行を輸出していく。それも、コピー不能、(少なくとも今の段階では)無断撮影不能な、映画館でしか見られない立体視映画なのだから、お客さんはちゃんとお金を払ってくれる、という計算なのだと思います。
上に引用した記事にあるとおり、中国で、「アバター」の上映館が縮小されたと言っても、それは、立体視ではない映画館に限った話だと、報じられています。中国当局の気遣いと言えなくもない。。
中国が、いくら海賊版の違法コピーのけしからん国でも、ハリウッド映画の上層の人たちは、いつのまにか中国の財界と話をつけて、さっさと進出しています。ひょっとしたら、それはもう、ハリウッド映画ではないのかも知れませんけど。
今朝の読売新聞に「アバターは反米映画だ」という批判が、米国の保守派から起こっているという記事がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100130-OYT1T00839.htm
「アバターは反米・反軍映画」保守派いら立ち
なんでも、「アバター」の 自然の中に神が宿るという、キリスト教などの一神教とは相いれない信仰をナヴィが持っている点に、批判が出ているそうです。
これからますます、アメリカの市場がダメになることが、映画界の上層の人たちには分かっているのだと思います。だから、なりふりかまわず、中国を中心にしたアジアに、進出する必要がある。それは自国の、一定の層を敵に回してでも、ということだと思います。そうした戦いの中で、日本のメディアや映像産業のことなど、彼らの眼中にはない。
私も正月に「アバター」を見て驚きました。思い出したのは、高校生の時、スピルバーグやジョージルーカスの映画の、ドルビー音響システムが生み出す、迫力のサウンドに度肝を抜かれた時のことです。その後、家庭用のビデオが普及しても、映画はやっぱり映画館に限る、などと言っていた。
「アバター」を見て、もうこれからは、映画は3Dの立体視で見なければ損、と、誰もが言うようになるだろうと思いました。実際、私のまわりの友人たちは、皆、そう言っています。
余談になるけれど、「カールじいさん」の方が、立体視の奥行き感が、豊かなような気がしたのは、私だけでしょうか? 「アバター」は、空間は感じられるけど、物の立体感はうすっぺらい気がしました。「カールじいさん」の方が、立体感が自然に感じられました。3Dメガネの種類が違ったから、何か秘密があるのでしょうか? 3DCG特有の絵の立体感が、助けになっているのでしょうか。まだ、よく分からないのですが。。
そして、ここからは、作り手の立場で感じたことなのですが、このように、立体視映画が普及するようになれば、制作手法の分野で、日本はまた、欧米に(と同時にアジアのほかの国々にも)遅れることになるだろうということです。
立体視映画には、それならではの、従来の映画にはない演出手法が、あるだろうということを感じます。比較的、手前に飛び出したものを観客は見るとか、視線の移動の設計の仕方が変わってくるのではないかと思いました。 あと、「アバター」が、やっぱり、よかったのは、カメラが、縦横無尽に空間を飛び回ることです。それはこれまでのアクション映画でもありましたが、立体視映画の効果を引き出すには不可欠という気がします。これまで、広島国際などで見た、立体視映画の小作品には、それがなかったから、あまり画面に引き込まれる感じがしなかったのだと思いました。
ああした、自由なカメラ移動は、どのようにストーリーボード(絵コンテ)に描いて、効果を計算するのか、私には、さっぱり分かりません。少なくとも、絵コンテで、さきにレイアウトを決めて、画面を構築するという方法では、ダメでしょう。うまく書けませんが、実写的な作り方を取り入れるとか、そんなことではないかと思います。
そうした、技術の肝心の勘所(かんどころ)が、実は、日本の現場には伝わってきていないのを感じます。手描きのアニメーション(最近、これを2Dなどと呼びますが、、)も同じです。東映動画の時代から、ディズニーに習いつつも、独自の手法で発展してきた良さは、私も身をもって知るところですが、技術論の体系化を怠ってきたばかりに、人材の育成に大変苦労している。日本の作り手たちは、欧米の技術の体系に習って、それに独自のものを加えるという風にしていったほうが良いのではないか、と思います。少なくとも、アジアのほかの国々はそれをやるでしょう。
「これからは手描きではない。3DCGの時代だ」と、言われ始めたのは、私がアニメーターになった、80年代でした。私たち、日本の作り手たちは、それを聞いてなんとなく、手描きと3Dの絵肌の違いを、どっちがいいのかなぁ、と議論してました。でも、アメリカの本場の人たちは絶対に、その時、すでに、今の、立体視の映画の興行形態を計画していたはずだと思うのです。そうした、話は、我々には伝わって来ません。
念のためですが、3Dをやればよかった、と言っているのではありません。今日は、まるで、手描きのアニメーターとしての立場を忘れているみたいに書いていますが、そうではありません。手描きのアニメーターにも関係がある話として、書いています。実は、最近、私は3Dアニメーションの演出の仕事もやってます。監督ではありません。自分が監督ではない仕事に関して、ここにあれこれ書くのは、ちょっと気を遣うのです。なので書けませんが。
しかし、少なくとも、私は、手描きのアニメーションをやめるつもりはありません。自分が、もっともいい動きを作れるのは、手描きだと思うので。このへんの自分の立ち位置については、長くなるので、また改めてまた書きます。
話を戻しますが、とにかく、この「アバター」で、私が痛感したのは、今後も、日本の映像産業は、あい変わらず欧米の背中を追いかけていくことになるということです。それどころか、中国を中心にした、アジアのクリエーターたちにも、追いつけなくなるかも知れない。そうなれば、それはもう、仕方がない。
ただし、強いて希望を申せば、今後、アジアが重要な市場になるということであれば、同じアジア人である、日本人の感覚や趣向が、有利に働くということはあるだろうと思います。
あそこまで、自然の、まるで魔法じみた力に、人間の運命を委ねる「アバター」の世界観に、どれだけの観客が納得するのでしょうか? アメリカがイギリスの植民地としてスタートする時代のポカホンタスの物語を、ラストだけひっくり返したストーリーは確かに痛快でしたが、日本人なら、自然への畏れや敬いの気持ちを、もっと自然に、ネイティブに描けるのではないかと思います。宮崎駿が、30年も前からやっていたことですから。
日本のアニメーションの作家たちが、その役割を担える可能性はあると思います。
最後に、とってつけたようになってしまいますが、すごく古い本から引用します。
瓜生 忠夫(うりう ただお)という、戦前の評論家ですが、このすぐれた評論家を、私はまだ、アニメーターになって数年のころ、友人から教えてもらって、読みました。
私の立場として、手描きのアニメーションが、かつて、たしかに時代の最先端だった、その魅力を再確認していただきたいと考えて引用します。
瓜生 忠夫(うりう ただお) 著
「映畫のみかた」 岩波新書(﨧版)57 昭和26年2月20日 発行
(195ページから転載はじめ)
夢と現實
1 ディズニイの「ファンタジア」
幸運にも偶然の機會に、ウォルト・ディズニイの長篇テクニカラー動畫「ファンタジア」を見ることができたのは、一九四三年の春であった。・・・・・・はげしいショックであった。何という高い技術を縦横に驅使した「ファンタジア」であったことか。日本では想像もつかぬ高度の映畫技術。
一九三八年の一月、ニューヨークのラヂオ・シティ・ミュージック・ホール(收容人員六千名)で封切られたディズニィの長篇極彩色漫畫「白雪姫」は、六週間のロングランを打って世を驚かせた。「シリー・シンフォニイ」や「ミッキイ・マウス」などで、ディズニイの手腕はすでに知られていたけれど、いざ、「白雪姫」が出てみると、美しいテクニカラーの長篇漫畫が、どんなに大きな魅力のあるものか、誰でも改めて考え直さずにはいられなかった。いったい映画は、ある一つながりの動きを、できるだけ細かく分解(トーキーでは一秒間に二十四コマ)撮影し、それを復元するものだけれど、動畫(漫畫)は、その理窟を使って、分解された動きを先ず一コマずつ撮影し、やがてそれを一つながりの動きとして現わすものである。だから撮影され映寫されるフィルムを調べても、ふつうの映畫と動畫との間には、どこにもちがいはありはしない。しかしその元をたずねてみると、一方はもともと生きて(あるいは自然に)動くものを、そのまま再現するのに對して、一方は元來、生きてはいない靜止しているものを、あたかも生き物のようにスクリーンにうつしだすのだから、それら二つの間には本質的なちがいがあるのであった。というだけでは足りぬ。もし、全く生きてはいない描かれた畫や人形を、一コマずつ撮影することによって、生き物や自然物と全くおなじように動くものをスクリーンの上に創り出すことができるなら、人間は可能な限りの空想を、あたかも「現實の記録」とおなじように取扱うことができるのであるから、人間の空想と現實の間には、映畫に關する限り少しも區別はいらないことになってしまう。人間は映畫において、もっとも空想的なフィクションを、もっとも現實的に創りあげてみせることができるのである。恐るべき、が、魅力ある空想である。その魅力にひかれて、「動畫」を完全にわがものとした人が、すなわちウォルト・ディズニイであった。
(転載終わり)
長くなりましたが、これで終わりです。
アバターは自分も見ましたが、映像の迫力が大変なものであるのと同時に前半激しく酔った記憶があります。
慣れれば大丈夫なのかもしれませんが、自分にはまだ平面な映画のほうが心地よいです。
アバターの感想は実は楽しみにしていたので読めて良かったです。
主題、要点、相手に読んで貰いたい部分、考えて貰いたいを明確にお願いします。
勢いで一気に書き込んだのか分かりませんが落ち着いて…
読みづらいことこのうえない。
人の文章を論ずる以前の問題です。
他人に伝えようと考えて書いてください。
ピクサーの3Dアニメーションの成功以来、それを真似する映画が続々と出ていますが、興行は言うほどふるっていません。中身が薄かったからです。
少なくとも日本はどのような媒体にしろ、製作サイドの魂が垣間見れるかと、観ていて気持ちいいか、そうでないかが、評価と興行成績の大きなキーポイントだと私は思います。
アバターの話ではないですが、制作費130万位のホラー映画がものすごい興行成績を叩き出していますね。アメリカって凄いなあと思いました。
僕は痒い所に手が届く“手描き”が好きですが・・・。