萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

インドを走る!part2 第15話「バイラワからタンセンへ」

2007年07月11日 | 自転車の旅「インドを走る!」

※「インドを走る!」について

 いよいよ山岳地帯に向けて出発である。出発の際、雨がパラパラと降る。この時期インドは乾季であり、めったに雨は降らない。山が近いと乾季でも雨が降るのだろう。サイドバッグやフロントバッグにビニールの蓋いをかける。アシック(宿のボーイ)にボールペンをやったり、一緒に写真を撮ったりする。スイスから来た娘二人、二階から我々を見ている。なんでもおかしい年頃なのか、ころころとよく笑う。M君が「スイスにはきれいな山が沢山あるのになんでネパールに来たんだ?」と聞くと「だって、こっちのほうが高いんだもん。」と答えた。なるほど。妙に感心しながら、宿を発つ。

 走り出しは曇りがちで涼しく、自転車に乗るには丁度よかったが、徐々に晴れ間が出てきた。ブトワルというところからいよいよ登り開始。やっとヒンドスタン平原とおさらばである。登りだしてひとつカーブを曲がると、いきなり秘境の風景にでくわす。大昔、インド亜大陸が泳いできてユーラシア大陸にぶつかり、歪んでできたシワがヒマラヤだ、という説はとてつもなく豪快な話だ。その最南端にあたる小さなシワはそれを頷かせるに足る地層で、荒削りで堂々たる山肌である。灼熱の道端で立ち小便をする女などもあり、まさに秘境そのものの光景であった。

 天気はすっかり回復した。正午の灼熱は我々を萎えさせ、チャイ屋に飛び込ませた。三人とも、盛んに「暑い暑い」を連発。日本なら楽勝に登れるコースだが、この暑さと荷物の重さと蓄積された疲労が我々を萎えさせる。少し曇って来たので、その隙に出発。この休憩でインドのパナマタバコからネパリのヤクタバコに変える。

 ヨロヨロと登る我々の口からは「ヒンドスタン平原は楽だったなあ。」「山が恋しいと思っている時が一番幸せだった」とか「大体ここは人が集まって来ないし、サイケレ集団もいねーじゃないか。」などと愚痴がポンポン出る。人間の身勝手な面なり。山道はさらに続く。

 タンセンの手前十六キロ地点で休止。そこに動物学を学ぶ草刈正雄に似ている学生がいた。こんな山の中において置くのはもったいないとM君は言う。この人の話によるとタンセンまではさらにきつくなり、そこからポカラまではもっときついから、もうバスで行ったほうがいい、という。ここでこの言葉に従っては日本男児の“男”が廃る。意をさらに固めて、重い自転車を上へ上へと持ち上げるようにこぐ。天気は曇り勝ちになり、小雨がパラついてくる。この方が走りやすい。しばらく行くと山の頂上に街並みが見える。「あそこがタンセンか?」と近寄ってきた子供に聞くと、そうだという。ネパールの人はなんだって、あんな山のてっぺんに住むのか?

 タンセンに住む高校生ぐらいの十数人のグループがスピーカーとラジカセとカメラをもって歩いてきた。金持ちの子息の集まりのようでもあるが、よくわからん連中だ。我々日本人サイクリストを珍しがり話しかけてくるが、英語があまり通じず、「日本からずーと自転車でタンセンを目指して来た」という風に捉えたようだ。面倒なので、そういうことにしておいた。タンセンまでの九キロを直線的な近道を歩いて登って行く連中と、萎え萎えでつづら折の舗装路を自転車で登る我々は何度も路上で出会った。見かねた連中が我々の自転車を押してくれた。写真も撮ってもらった。インド・ネパール通じて初めてのことである。

“自転車押し”は村の子供達もやってくれた。特にM君は病み上がりで、ひどく萎えていたので子供達にモロに頼っていた。子供達は喜んでやってくれた。M君、サンキューの代わりに「マモリー、マモリー」と叫ぶ。(「マモリー」とは我々の所属するクラブの1年先輩で「松森」という人の愛称である。)ネパリの子供達ははじめはうまくマネできずに「サラリー、サラリー」と言っていたが、最後の頃は「マモリー、マモリー」と発音がしっかりしてきた。タンセンでは「マモリー」という日本語が流行るかもしれない。

 後2、3キロというところで風雨が強くなる。勾配のきつさに負けて、力を抜くと重い愛車がぐらっと傾く。ここは一挙に登りきってしまうに限る。私はスピードをあげるが二人はついて来れず、三人の隊列はバラバラになる。一番元気な私がこのまま、先行してタンセンの街に行って宿をとり、E君はM君をフォローしながら来る。暗黙の内に連携プレーが決まる。

 タンセンのバスステーションに着いた時はすっかり日が暮れていた。さっそく、泊る予定にしていたホテルを捜す。「ホタル! シッダルタ!ウェアー イズ シッダルタ!」と喚く。すぐそこの建物がそれであり、マネージャーを見つける。雨風に打たれ、息をはずませ、いきなり飛び込んできたこの珍客にマネージャーは少しビビッていたが、なんとか部屋を提供してくれた。土曜日とあって混んでいたのか、小汚い客の為か、部屋は屋根裏であった。23ルピーだからまあいいだろう。

 ME両君遅れて到着。M君かなり疲れている模様。すぐ部屋へ連れて行って寝かす。明日はもう一泊ここに滞留せざるをえまい。自転車は三階に運ぶが雨でさらに重くなっていて、3台運び上げるのは難儀した。着替えて一服してから、飯を食いに食堂へ行く。チキンチョーメン(鶏肉の入ったヤキソバ、のようなもの)を食う。昨日までの宿のよりはましだったが、空腹なのに味はイマイチ。

 夜になって「あの平らで何もないヒンドスタン平原から、いきなりこの風雨の中を65km、標高差1500mというハードなコースを走らすことは無かろう」と誰にとも無く三人で文句を言う。雨風強まる中、眠りにつく。夜半になって、ものすごい嵐となる。釘で止めてあるだけのドアがぶち壊れて、部屋に雨が入る。蚊がいなければいないで、何か眠りを妨げるものがありやがる。

それでも、ぐっすりと眠れた。


                           つづく


<27年後のひとこと>

 小生はこの時代、タバコを吸っていたんですナ。確かに18歳から35歳の間はヘビー(チェーン?)スモーカーでした。35歳の10月にタバコをやめて、この15年間は1本も吸っていない。1日3~4箱は吸っていたので、今も吸い続けていたら健康も害していたろうが、金もかかったろう。ざっと試算しただけで500万円ぐらいになる。ちょっとした外車が買える額だ。そうか、そう仮定すればタバコをやめたご褒美に外車ぐらい買ってもいいのかも。

 この最後の雨の中の登りは思い出深い。激しい風雨、といった悪条件になると血が騒ぐ性分なので、実力以上の力が湧いてきた覚えがある。タバコを吸っててもパワーに関係ない“若さ”が身に備わっていたのだろう。また、嵐の中でもぐっすり眠れるような逞しい生命力が無ければ、こういう旅は続けられなかっただろうと、今にして思う。
コメント (4)
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