陸軍の青年将校が反乱を起こした二・二六事件から76年が経ち、今年は数えて19回目の閏年だ。
当時の日本は不況が長引き、政治は不正献金疑惑が頻発し腐敗していた。陸軍では統制経済と高度防衛体制で不況を乗り切ろうとする陸軍省中央官僚らの統制派と国家社会主義を掲げた青年将校の皇道派が対立していた。統制派は皇道派の要望を黙殺しており、不満を募らせた青年将校らが天皇に直談判しようと画策したのが原因で、計画は政府要人の拉致・殺害にまで発展してクーデターとなった。
反乱軍は斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺陸軍教育総監らを殺害し、陸軍省、陸軍参謀本部、東京朝日新聞を襲撃して当時の政治中枢であった永田町、霞ヶ関一帯を制圧。陸軍省経由で昭和天皇に直談判を画策したが、陸軍は彼らの行動を叛乱として鎮圧部隊を動員し、3日間の説得によって反乱軍は投降、事件は収束。決起軍を指揮した多くの青年将校や社会主義活動家は処刑された。
事件を報じた当時のマスコミは発生直後は反乱軍を厳しく論評したが、不況の影響で疲弊、困窮した地方や腐敗が改善されない政治家を引き合いに報道し、反乱軍を英雄視する世論を形成した。陸軍内部では日中戦争が長期化するうちに皇道派が台頭し、国民の不信、不評を買った政治家はますます力を失い軍の政治介入が激しくなった。その結果、欧米と対立し泥沼の太平洋戦争となった。
18回目の閏年だった08年、マスコミは内閣支持率低迷や大臣の疑惑や原稿の読み違えの揚げ足報道を繰り返した。民主党はその尻馬に乗ったため、翌09年の衆院選は結果的にマスコミが扇動した形で政権が交代した。ところが民主党政権は選挙で訴えた政権公約を何も達成できないままあらゆる政策で迷走。政治腐敗や政治不信を増長させただけの状態。
そして19回目の閏年の今年は軍部に代わって、石原都知事や橋下市長らが台頭している。マスコミは当時と同じ様に彼らを英雄化している。しかしその中にはダガヤのようなタワケもいる。