
世界的なクラシックピアニストであったアルフレート・ブレンデル氏の訃報が届いた。
個人的には正直、先日の長嶋さんの訃報より何十倍も衝撃的であった。
・・・とは言っても、引退後既に15年以上が経ち、行年94とのことだから、まさに大往生であり、嘆き悲しむ必要はないのかもしれない。
むしろ嘆き悲しむべきは、生前、引退する前に、幾度も機会があったはずなのに、結局、一度も生演奏に触れられずに終わってしまったことだろう。
私がある程度ちゃんとクラシックを聴くようになったのは1999~2000年頃からだが、それ以降は来日しなかったか、あるいはしてても私が気づかなかったかで、ともかくもコンサートを聴くことなく終わってしまった。
痛恨のきわみである。円生師匠や大滝詠一やエリック・ドルフィーを生で聴けなかったのも痛恨だが、そちらは世代的に不可能だったからあきらめもつく。が、ブレンデルはその気になれば、聴く機会はあったはずなのに、と、本当に残念でならない。
が、たとえ録音を通じてだけでも、ブレンデル氏は、この人と同時代に生きられて良かったと思わせてくれる稀有なアーチストである。
ブレンデルは、ルービンシュタインやホロヴィッツのような千両役者タイプというか、いかにも「華がある」という感じの長嶋さん型のスターではない。だが、CD等の録音メディアでも、そしてYouTube等にアップされた映像でも、これほど音の美しいピアニストを、私は他に知らない。
演奏そのものは巷間よく言われる通り、ブレンデルはアルゲリッチのような派手なコケオドシズム的ギミックを使わないため、「芸術は爆発だ」的なリスナーからはあまり評価されてこなかったきらいがあるが、どの録音も比較してみれば、他のどのアーチストよりも美しく心にしみとおる演奏ばかりである。
もちろん、人によっては異論もあろうが、私の主観では、ベートーヴェンを筆頭に、モーツァルトもシューマンもリストも、あるいはハイドンもシューベルトもブラームスも、この人の音源があるならそれを選んでおいてまず間違いはないという安定度である。とにかく音色が美しい!
ブレンデルの旧フィリップス時代の音源は、本当に本当に名盤の宝庫で、徹頭徹尾「外れナシ」なので、具体例を挙げるまでもなく、「全てが名盤!」なのだが、それでも強いて挙げるなら。・・・
まずは、本人のライフワークであるベートーヴェン。
ピアノソナタ全集は、70年代のものと90年代のものと、どちらも徹底的に練りこまれ考え抜かれた、理詰めでいながら極めて美しい、完璧な演奏なので、甲乙つけがたいのだが、無理やりにでも選ぶなら、70年代のほうか(90年代のほうは、演奏内容はパーフェクトながら、曲によっては、エコーが効きすぎているのが残念!)。
それから、ピアノ協奏曲全集も、同様に、80年代のレヴァイン/シカゴ響と90年代のラトル/ウィーンフィルと、どちらも本当にいい。こちらもあえてどちらかと選ぶと、レヴァイン盤のほうだろうか。ピアノの美しい音色はどちらも最高だが、オケがより自然で癖のないほうということで。ベトPコン1のカデンツァなんて、旧盤でも新盤でも緊張の糸の張りつめたような、非常にスリリングな名演!
それから、ベートーヴェンだと、『6つのバガテル』他の小品集も実にいいし、後述するシューマンの交響的練習曲に併録された変奏曲も完璧無双である。
合わせものだと、ヴァイオリンソナタやピアノ三重奏曲は残念ながら録音されていないようだが、エイドリアン・ブレンデルとのチェロソナタ集については、息子を共演者に起用したのは親バカのゴリ押しか?なんていう先入観を抜きに虚心坦懐に聴けば、普通に納得の優秀絶美盤である。
ついで、シューベルト。『さすらい人幻想曲』や後期ソナタ、そして即興曲集は、やはりブレンデルの右に出るものはない。即興曲のD935の2番のAフラットメジャーは、私の葬式の時にブレンデルの演奏でかけたいなんて思っている。
また、ベルリンフィルのメンバーと共演したピアノ五重奏曲D667(いわゆる『ます』)も、実に美しい響きで、同曲の名盤の筆頭に挙げられるだろうし、フィッシャー=ディースカウの『冬の旅』D911の歌伴も実に上手い!と唸らずにはいられない。
それから、シューマンも、緊張感ある『クライスレリアーナ』と対照的に癒し系美音の『子どもの情景』など、本当に見事な演奏であるし、『交響的練習曲』もブレンデルにしては珍しく剛腕系の、劇的な名演。
ピアノ協奏曲イ単調も、昔からの定盤としてのアバド/ロンドン響盤、再録のザンデルリンク/フィルハーモニア管盤、引退後の発掘音源たるラトル/ウィーンフィル盤と、いずれをとっても、やはり同曲のファーストチョイスにして間違いない完成度である。
そして、シューマンで忘れてはならないのが、オーボエのホリガーとの共演盤。作品自体なかなか渋めで、あまりビギナー向けとは思わないが。・・・
そして、リスト。
『巡礼の年』やロ短調ソナタなんかも、他の追随を全く許さず、独擅場である(リスト弾きであっても、『カンパネラ』みたいな大向こう受けする派手な曲はレパートリーにしないところがブレンデルらしい)。とくに、『巡礼の年』の「イタリア」なんて、何度聴いても味わい深い。
アバド/ベルリンフィルとのブラームスの交響曲1番・2番なんかも、ライバル盤は多数ながら、私は断然イチオシである。ブラームスだと、前出のラトルとのシューマンPコンに併録された変奏曲も楽しい。
もっと新しい時代の音楽で、ムソルグスキーなんかも変わったレパートリーで興味深いし、逆に古いところで、バッハなんかもスキのない名演奏だが、何よりハイドンのソナタなんて、「ハイドンのピアノ音楽って、こんなに良かったんだ!」と目からウロコの銘盤である。
あとは、私個人があまり思い入れのない作曲家であるがゆえに後回しになってしまったが、やはりモーツァルトか。ソナタも協奏曲も室内楽も、あまりに非の打ち所がないので、かえって論評しにくくて困ってしまうが、ほんの一例として、「トルコ行進曲」(K331)なんて、あの短いシンプルな曲を、ここまで表情豊かに、かつスリリングに即興味あふれる演奏ができるとは、この人は本当の「芸術家」なんだなあ、と、感嘆する。
(とともに、これほどの人を過小評価してアルゲリッチあたりを持ち上げたがる日本の評壇ってのは、本当に全然アテにならんね、と苦笑したくなる)
改めて、私に幸せな音楽ライフを与えてくれたブレンデル氏に感謝の意を表するとともに、心からご冥福をお祈りします。
とともに、ポール・ルイス兄(あに)さんには、どうか落ち込まないで、師のかわりにいつか素晴らしいベートーヴェンをライブで聴かせてください・・・とお願いも。