先週は「越境学習」に関するインタビュー受けて、今週は慶應大学の講義受けたり、大学院の授業を聴講したりとまさに「越境学習」して、越境学習者の集まりと言ってよい「日吉の会」にお邪魔して・・・ここんとこ、あたしのまわりは「越境学習」が溢れてる。
えっと、今、あたし結構落ちてます。
なぜあたしは越境学習をするのか?そして、それはあたしに何をもたらしているのか?
これをぐるんぐるんと考えて、さ、がんばってみようかな?と思ったら、いろいろいろいろカラ回ってます。
この問いに対する答えを整理しないことには先に進めないような気がするので、まだ十分に練れてないけど、書き残しておくことにします。
イシヤマさんに「日本を代表する越境学習者」などと恐れ多いご紹介をいただいちゃいましたが、あたし自身はここでも何度も書いているように、楽しいから、好きな人に会いに行くって感覚で越境学習しておりました。
とは言え、4年前に大学の通教課程に行ったのは、明らかにカイシャから逃げて、カイシャ以外の場が欲しかったからだし、2年前に大学院に行ったのは、スクーリングとか、順番に課題を出して試験を受けて単位をもらうっていうプロセスとか…通教で学ぶってことが意外と楽しくって、せっかくだからこのまま何か続けようかなって思ったことがベースにはあるけど、じゃあなんでMBAコースだったのか?って言ったら、当時おつきあいしていた人がアメリカにMBA取りに行ったこと(待ってる間にあたしも!と思ったから。その後の話は・・・・まぁ、そういうことだ
)、通教で奨学金もらえちゃったこと(大学院の授業にもついていけるんじゃん?)というのが理由。もちろん、キャリアに箔がつく、とも思っていた。
だから大学院での学びは苦行でした。最初の数カ月は特に。
それが「楽しい」に変わったのは(正確には”楽しいかも?”くらいのニュアンスですが)、長岡先生の授業から。
答えを出すのではなく、答えを出すプロセスこそが大事っていう学び方は衝撃的だった。学びには「場」が必要だっていうことも。
ワークプレイスラーニングとか、加藤先生@慶應とか、外の世界をいろいろご紹介いただいて、外に出るってことを知った。
ん?すでに、大学院に行ってる時点で、カイシャの「外」には出ているはずだけど、さらにもう一歩外に出たってことではエポックでした。
はじめは紛れもなく中原先生のおっかけからスタートしたし、最初の頃は外に出ても、壁の花になることもあったし、対話を楽しむなんてレベルでは到底なかった。いつの頃からかその場に身を処すことが楽しくなっていった。慣れたのかもしれない。はじめまして、の人と話をするってこと、違いを楽しむってことに。そして、話がはずまなくてもそれはそれで“気づき”なんだ、って思えるようになったってことかもしれないね。
手作りスイーツ差し入れたり、文集作ったり、(そういや大学院のときも、論文の発表会を有志で開いたりしたなー。まさに「ポスターセッションおかわり」だ)本流とは違うところで楽しめるようになってからはさらに加速。
修論のテーマを決めた頃から、キャリアに箔をつける、学んだことをカイシャで生かす、みたいな色気がなくなって、純粋に自分のために学び始めた。このきっかけは書くと長くなるので端折りますが、カイシャからの協力が得られない中で、組織の課題を解決する論文なんか書けるはずがない。最初はそのギャップに苦しんでたけど、上田先生の「プレイフルシンキング」を読んで憑き物が落ちた。自分がプレイフルでなくてどーしてカイシャの課題が解決できよう。ここからあたしの視座は完全に「個人」のものになっていきます。
そして、この頃から、絶対的に仕事でストレス感じなくなった。
正確にはストレスを感じないように、不干渉≒不感症になったんだと思う。この頃からあたしはカイシャで怒らなくなった。悔しくて泣く、みたいなこともなくなった。上司からは「やっとあいつもオトナになった」と評価されたし、怒らずに平穏でいた方が精神衛生上はいいのかもしれないけれど、でも、自分で気づいてました。暑苦しくない自分は「らしくない」ってことに。理不尽な思いをしている人のことは放っておけなかったんじゃないの?って。
あたしには、カイシャ以外にも居場所があって、そっちが結構大変だったり、おもしろかったりしたわけです。修論書いてたから物理的にも時間が欲しかったってのもあるけど、マインドシェア的には、外で学ぶ>>>>カイシャだった。
つまりね、
あたしにはカイシャ以外にも大事な場所があって、そこを守るためには、カイシャや仕事でストレス抱えてる暇はないんだよ、ってこと。カイシャでストレス溜めて、悩んで、その結果として、外学びの場に向かうキモチが萎えたり、外学びの時間が侵害されるのはたまんないなーってこと。だから、今までのあたしだったら怒ってたようなことも「見ないふり」してやり過ごしてきた。ホントはキモチ悪い。けど、そんなことしてる暇ないんだもん、って言い聞かせて。
カイシャと家庭(あたしはシングルなので、ここはあんまり意識したことないけど)以外の場があるから、ストレス溜めずにバランス取れてたっていうのはあるけど、ホントのところはそういうこと。
外で学んでるあたしってイケてるでしょ、あたしは仕事やカイシャの愚痴を言ってるだけの人じゃないんだよ、って思いが深層にあったことは否めない。間違いなくある。
もちろん、カイシャ以外で出会う人、聞く話からものすごーーーーく刺激も気づきももらうし、仕事のヒントもたくさんもらう。それは外に出ているからこそ。「外に出ているあたしがイケてるから」だけで外で学んでいるわけではない。ピュアじゃないよなー。
でも、そんなもんかも。
もちろん、外に出て学ぶこと、そのものにも意味はあるし、学んだ内容は紛れもなくなんらかの形・効果にはなっているはず。
でも、外で学んでいる=カイシャと家の往復だけじゃない、っていうライフスタイルがかっこいい、っていうのはある。あと、あたしはあなたたち(って誰のことを言ってるのかわかりませんが(^^ゞ)とは違うのよ、という優越感とか。
「日吉の会」のときに石山さんが、
「越境学習者は迫害される、勉強して辞めるつもりだろ、と思われたり、スキルがつくことを疎まれたりする。勉強に行くので帰りますっていうと白い目で見られるけど、婚活しに行ってきますって言うと温かい」と冗談めかしておっしゃっていたけど、確かにそれはあるなー。資格取って独立する気じゃろ?ってのは昔からあっただろうし、キャリアに生かさないでなんで勉強してるの?って逆説もあるだろうね。
あたしも最近はめんどーなので、休みを取ることにしてます、理由は特に言わない。休んでもだいじょうぶな日に、そして休んでもだいじょうぶなように仕事を調整して。ホントは、もっと大腕振って行って、行ってきたらそれを還元するってサイクルにしないといかんのだと思うけど。迫害されるのわかってるからめんどくさくて言わない。でも仕事には相当生かしてると思うけど(あくまで、自分基準で)。
でも、そんなことじゃいかんのだよねー。
あたし自身も「何のために越境しているのか?」って問いに答えられるようにしなくちゃならないし、自分自身が越境学習してよかった!って思っているならそのよさを普及しないといけんよね。でも、それって結構ハードル高くってくじけそうになる。そう、今落ちてるのはそこ。まだ自分の中で整理がついてないので、外化できないけど、越境学習すること=外に出ることが、その人個人だけでなくカイシャ組織のパフォーマンスを上げるってことをきちんと説明できないから、くじけるんだ。
越境学習することがその人個人の能力を高めてくれそうなのは感覚的にわかるけど、それはカイシャが求める能力向上なのか?ってのが結び付かないから自信ないんだよね。そして能力高めるって言うけど、きっと能力の高い人はどんな手段であっても高まっていくし、いろんなことに気づいて自分で可変していくようにも思う。
越境学習はなんでいいのか?っていうのを端的に語れるようにならないといかんね。がんばります。
でも、ホントのところは、時間をもてあましそうだから、ってのも結構大きいなぁ。あたしの場合は特にね。
えっと、今、あたし結構落ちてます。
なぜあたしは越境学習をするのか?そして、それはあたしに何をもたらしているのか?
これをぐるんぐるんと考えて、さ、がんばってみようかな?と思ったら、いろいろいろいろカラ回ってます。
この問いに対する答えを整理しないことには先に進めないような気がするので、まだ十分に練れてないけど、書き残しておくことにします。
イシヤマさんに「日本を代表する越境学習者」などと恐れ多いご紹介をいただいちゃいましたが、あたし自身はここでも何度も書いているように、楽しいから、好きな人に会いに行くって感覚で越境学習しておりました。
とは言え、4年前に大学の通教課程に行ったのは、明らかにカイシャから逃げて、カイシャ以外の場が欲しかったからだし、2年前に大学院に行ったのは、スクーリングとか、順番に課題を出して試験を受けて単位をもらうっていうプロセスとか…通教で学ぶってことが意外と楽しくって、せっかくだからこのまま何か続けようかなって思ったことがベースにはあるけど、じゃあなんでMBAコースだったのか?って言ったら、当時おつきあいしていた人がアメリカにMBA取りに行ったこと(待ってる間にあたしも!と思ったから。その後の話は・・・・まぁ、そういうことだ

だから大学院での学びは苦行でした。最初の数カ月は特に。
それが「楽しい」に変わったのは(正確には”楽しいかも?”くらいのニュアンスですが)、長岡先生の授業から。
答えを出すのではなく、答えを出すプロセスこそが大事っていう学び方は衝撃的だった。学びには「場」が必要だっていうことも。
ワークプレイスラーニングとか、加藤先生@慶應とか、外の世界をいろいろご紹介いただいて、外に出るってことを知った。
ん?すでに、大学院に行ってる時点で、カイシャの「外」には出ているはずだけど、さらにもう一歩外に出たってことではエポックでした。
はじめは紛れもなく中原先生のおっかけからスタートしたし、最初の頃は外に出ても、壁の花になることもあったし、対話を楽しむなんてレベルでは到底なかった。いつの頃からかその場に身を処すことが楽しくなっていった。慣れたのかもしれない。はじめまして、の人と話をするってこと、違いを楽しむってことに。そして、話がはずまなくてもそれはそれで“気づき”なんだ、って思えるようになったってことかもしれないね。
手作りスイーツ差し入れたり、文集作ったり、(そういや大学院のときも、論文の発表会を有志で開いたりしたなー。まさに「ポスターセッションおかわり」だ)本流とは違うところで楽しめるようになってからはさらに加速。
修論のテーマを決めた頃から、キャリアに箔をつける、学んだことをカイシャで生かす、みたいな色気がなくなって、純粋に自分のために学び始めた。このきっかけは書くと長くなるので端折りますが、カイシャからの協力が得られない中で、組織の課題を解決する論文なんか書けるはずがない。最初はそのギャップに苦しんでたけど、上田先生の「プレイフルシンキング」を読んで憑き物が落ちた。自分がプレイフルでなくてどーしてカイシャの課題が解決できよう。ここからあたしの視座は完全に「個人」のものになっていきます。
そして、この頃から、絶対的に仕事でストレス感じなくなった。
正確にはストレスを感じないように、不干渉≒不感症になったんだと思う。この頃からあたしはカイシャで怒らなくなった。悔しくて泣く、みたいなこともなくなった。上司からは「やっとあいつもオトナになった」と評価されたし、怒らずに平穏でいた方が精神衛生上はいいのかもしれないけれど、でも、自分で気づいてました。暑苦しくない自分は「らしくない」ってことに。理不尽な思いをしている人のことは放っておけなかったんじゃないの?って。
あたしには、カイシャ以外にも居場所があって、そっちが結構大変だったり、おもしろかったりしたわけです。修論書いてたから物理的にも時間が欲しかったってのもあるけど、マインドシェア的には、外で学ぶ>>>>カイシャだった。
つまりね、
あたしにはカイシャ以外にも大事な場所があって、そこを守るためには、カイシャや仕事でストレス抱えてる暇はないんだよ、ってこと。カイシャでストレス溜めて、悩んで、その結果として、外学びの場に向かうキモチが萎えたり、外学びの時間が侵害されるのはたまんないなーってこと。だから、今までのあたしだったら怒ってたようなことも「見ないふり」してやり過ごしてきた。ホントはキモチ悪い。けど、そんなことしてる暇ないんだもん、って言い聞かせて。
カイシャと家庭(あたしはシングルなので、ここはあんまり意識したことないけど)以外の場があるから、ストレス溜めずにバランス取れてたっていうのはあるけど、ホントのところはそういうこと。
外で学んでるあたしってイケてるでしょ、あたしは仕事やカイシャの愚痴を言ってるだけの人じゃないんだよ、って思いが深層にあったことは否めない。間違いなくある。
もちろん、カイシャ以外で出会う人、聞く話からものすごーーーーく刺激も気づきももらうし、仕事のヒントもたくさんもらう。それは外に出ているからこそ。「外に出ているあたしがイケてるから」だけで外で学んでいるわけではない。ピュアじゃないよなー。
でも、そんなもんかも。
もちろん、外に出て学ぶこと、そのものにも意味はあるし、学んだ内容は紛れもなくなんらかの形・効果にはなっているはず。
でも、外で学んでいる=カイシャと家の往復だけじゃない、っていうライフスタイルがかっこいい、っていうのはある。あと、あたしはあなたたち(って誰のことを言ってるのかわかりませんが(^^ゞ)とは違うのよ、という優越感とか。
「日吉の会」のときに石山さんが、
「越境学習者は迫害される、勉強して辞めるつもりだろ、と思われたり、スキルがつくことを疎まれたりする。勉強に行くので帰りますっていうと白い目で見られるけど、婚活しに行ってきますって言うと温かい」と冗談めかしておっしゃっていたけど、確かにそれはあるなー。資格取って独立する気じゃろ?ってのは昔からあっただろうし、キャリアに生かさないでなんで勉強してるの?って逆説もあるだろうね。
あたしも最近はめんどーなので、休みを取ることにしてます、理由は特に言わない。休んでもだいじょうぶな日に、そして休んでもだいじょうぶなように仕事を調整して。ホントは、もっと大腕振って行って、行ってきたらそれを還元するってサイクルにしないといかんのだと思うけど。迫害されるのわかってるからめんどくさくて言わない。でも仕事には相当生かしてると思うけど(あくまで、自分基準で)。
でも、そんなことじゃいかんのだよねー。
あたし自身も「何のために越境しているのか?」って問いに答えられるようにしなくちゃならないし、自分自身が越境学習してよかった!って思っているならそのよさを普及しないといけんよね。でも、それって結構ハードル高くってくじけそうになる。そう、今落ちてるのはそこ。まだ自分の中で整理がついてないので、外化できないけど、越境学習すること=外に出ることが、その人個人だけでなくカイシャ組織のパフォーマンスを上げるってことをきちんと説明できないから、くじけるんだ。
越境学習することがその人個人の能力を高めてくれそうなのは感覚的にわかるけど、それはカイシャが求める能力向上なのか?ってのが結び付かないから自信ないんだよね。そして能力高めるって言うけど、きっと能力の高い人はどんな手段であっても高まっていくし、いろんなことに気づいて自分で可変していくようにも思う。
越境学習はなんでいいのか?っていうのを端的に語れるようにならないといかんね。がんばります。
でも、ホントのところは、時間をもてあましそうだから、ってのも結構大きいなぁ。あたしの場合は特にね。
なぜあたしは越境学習をするのか?
に触発されて、ブログ更新しました。
というか、ほとんど日記状態(笑)
ブログ続いてますねー。すごいすごい。
しかもテーマが一貫しているのがすごい!
ブログ拝読しました。
なるほど~と新たな気づきあり。
このテーマ語るだけで番外編のひとつふたつできちゃいますね(笑)