愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上ノ郷城見学会

2024年04月21日 08時40分43秒 | 蒲郡市
お久しぶりです。
4月20日(土)上ノ郷城の見学会を実施しました。
総勢9名で和気あいあいと巡りました。

お城は高台にあり、そこから三河湾が見え三河湾に浮かぶ島々や遠くに渥美半島を望むことができました。
お城の見学は短くて済みましたので、近くの公民館に行きました。西部公民館と言い、上ノ郷城の模型を見せて頂いたり、DVD上映もしていただけました。

本丸から三河湾を望む
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霧の犬山城

2024年02月26日 05時36分18秒 | 犬山市
2月20日、愛知県地方は濃霧に覆われました。
そんな中、一枚の写真が友人から送られてきました。
犬山城です。
まさに天空の城です。
ちょうどテレビで霧の中に浮かぶ犬山城が紹介されたばかりで、
「まさか、放送の翌月に本当におきようとは思いませんでした。」
とのことでした。
コメント (2)
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上ノ郷城見学会の案内

2024年02月17日 06時05分09秒 | 愛教労 城の会
松平記はちょっと滞っていますが、山城めぐりは再開です。
3月23日(土)1時集合
上ノ郷城、集合場所は、近くの赤日子神社駐車場です
関心のある方は、お電話ください。
チラシのメールでも結構です。
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松平記(60) 松平記

2024年01月31日 16時28分52秒 | 松平記

松平記p60

翻刻 
(家)康衆を引入んと相図をしけるが、不叶して、外のくるハを
焼て早々にげ出ける間、頓而家康御勘気をゆるし給ふ。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門屋敷を城に構へ
大津半左衛門、乙部八兵衛籠りける間、深溝の松平主殿押
寄日々のせり合の戦有、然処乙部八兵衛、主殿助方へ返忠
致し、引入れける間、大津ハ不叶、針崎へ引退、夏目ハ引事も難
叶、土蔵の中へ入て隠れ居たりし処、主殿助衆堅守護して
不出、已に責殺んとしけるに、乙部色々詫言申、今度の忠に
申替て命を助け給へとなげく間、此段家康へ申上らるる
処に、家康大に御感有命を助させ給ひ、後には三郎殿衆に
(成にけり)

現代語
(戸田三郎右衛門は)家康の兵を寺の中に引き入れようと合図をしたが、うまくいかなかった。そこで外の曲輪を焼き、逃げて行った。やがて家康は勘気を許された。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構え、そこに大津半左衛門、乙部八兵衛が籠っていた。深溝の松平主殿伊忠と日々せり合っていた。しかしながら乙部八兵衛が松平主殿助方に寝返りをし、兵を城に引入れた。大津半左衛門はたまらず、針崎勝鬘寺へ引き退いた。夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵に入って隠れていた。松平主殿助は固くとり囲み、出られないようにした。すぐに責め殺してしまおうという時、寝返った乙部八兵衛が色々と命乞いをし、今度の寝返りに免じて夏目の命を助けてほしいと訴えた。主殿助はこのことを家康に報告したところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けられた。後に松平三郎信康の家臣になった。

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戸田三郎右衛門は、家康の人質時代に今川に行くところを、さらわれて織田に売られてしまうという事件がありました(なかったという説もあります)が、その時の首謀者が戸田康光で、この事件に怒った今川義元によって戸田氏は攻められて居城田原城は落城することになりました。戸田康光は、戸田三郎右衛門の伯父にあたります。戸田三郎右衛門の父戸田光忠(康光の弟)は、田原城落城の折、岡崎に逃れて、やがて家康と縁戚を結び家康の家臣となります。今回は、一揆勢に付いたということで、勘気を被ったのでしょうか。
夏目次郎左衛門の話は有名で、「どうする家康」では、コメディタッチで家康がすぐ名前を間違える武将夏目広次として登場します。このあと、夏目は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死しますが、この時のことがあって身代わりをしたと言われています。

夏目広次を演じる甲本雅裕さん(NHK大河ドラマ「どうする家康」より)
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松平記(59)その2 松平記

2024年01月29日 07時33分47秒 | 松平記
小谷甚左衛門
 設楽郡若しくは碧海郡の武将らしい。三河一向一揆が蜂起すると甚左衛門は鳥居又右衛門重正らとともに一揆方に与し、佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。ただし『参州一向宗乱記』は甚左衛門が松平氏方に属していたとして、永禄7年(1564年)松平氏方の斥候が上宮寺方に討たれて首を曝された際、甚左衛門はこれに憤って先駆けして一揆勢を討ち、上宮寺と鳥居党の戦端を切ったとしている。また、天正3年の大賀弥四郎事件(武田氏内通計画)に加わった。しかし同志の山田八蔵重英が翻意して城主松平信康に密告して計画が露見したため、甚左衛門は渡辺半蔵守綱の追走を振り切って遠江二俣城へ逃走し、やがて甲斐国へと逃れたという。(ウィキペディア)
太田善太夫
 永禄6年(1563)に生まれた太田吉政はヒットした。(もちろん別人)上宮寺のサイトには、「三河太田発祥の地記念碑」なるものがあり、上宮寺開創である聖徳太子の手助けをした太田力丸に関するものとして、建てられています。その横に「太田の先人であり戦国時代に活躍した太田善太夫吉政(おおたぜんだゆうよしまさ)の墓碑も安置されています。」とありました。これは、それっぽいので、一度確認しなければと思います。
安藤金助 特にヒットせず。
山田八蔵
 山田八蔵重英(しげふさ)。小谷甚左衛門で述べたように、大賀弥四郎内通事件でその陰謀を徳川家康に通報した人物。「この功により碧海郡柿崎に500石の加増を受け、後に同郡大浜や額田郡上地も加増された。上の経緯から「訴人八蔵」の異名があったという。天正16年(1588年)岡崎で同輩の渥美弥三郎と口論し、殺害された。所領はすべて没収となった。天正17年(1589年)養子の重次が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した。」(ウィキペディア)
安藤太郎左衛門
 三河に安藤氏という国衆があり、その一族であると思います。誰か特定できませんでした。
太田弥大夫 特にヒットせず。先に調べた太田善太夫と関係があるのかも知れません。
太田彦六郎 特にヒットせず。先の太田善太夫、太田弥太夫と同族かも知れません。
安藤治右衛門
 安藤定次のこと。「徳川家康に仕え、永禄6年(1563年)の三河一向一揆に加わったが赦免される。家康の子松平信康にも仕え、信康の死後は石川数正や内藤家長に属した。天正18年(1590年)の小田原征伐では内藤軍に属し武功を挙げた。」(ウィキペディア)この人は、徳川家康の関東移封の際、相模国鎌倉郡阿久和村に知行を得、それ以降子孫は、「阿久和安藤家」として幕末まで続いたそうです。
矢田作十郎
 松平広忠、徳川家康2代に仕え、勇猛で知られた武将だったようです。この戦いの渦中、小豆坂で討死をしてしまいます。
戸田三郎右衛門
 この後記述されるように、はじめは一揆側に付きましたが、徳川家康側にもどり一揆勢と戦いました。
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