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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

たんとうこう(站粧功)の実践

2005年10月06日 | 羅漢気功
瞑想よりももっと自由で形式ばらなくてもいい(と、気功の先生が言われる)「入静」は移動の電車の中などでも、心して行うようにはしています。けれど、極めつけの「たんとうこう」は実際問題として、実践することがなかなか出来ないでいました。何故ならば、続けられないからです。身体がどうしても、その気になれないし、情けないことに、苦しくて続けられないのです。ということは、すなわち心も全くその気になれないということで、気功教室に通い始めて半年以上も経つというのに…手付かずの状態のまま放置していました。けれど、ふと思いついて、数日前に、やってみたら、何と!(まぁ、まだまだ15分がやっとですが…)何とか遣り通すことができたのです。あとは継続ですネ!1日15分を目標に、頑張ろうとしないで…投げ出さずに、続けてみようと思っています。でも、本当に辛いのです。 たんとうこう(站粧功)」に関する以前の記事

魔よけ

2005年09月26日 | 羅漢気功
上の写真は、気功教室が行われるお部屋に飾ってある中国の「魔よけ」の飾り物です。左は、私が数年前の沖縄旅行の際に買い求めた魔よけのミニチュアのシーサーの画像です。(強面【こわもて】ですが、とてもお茶目な面差しが気に入っています。)写真にある中国の飾り物は、シーサーと同じような役割を持った魔よけのようです。いかにも中国っぽい雰囲気の魔よけ(お守り?)ですね。

太極(タイキョク) 的世界観

2005年09月06日 | 羅漢気功
↑太陰大極図
森羅万象は陽と陰の要素によって成り立っているという考え方です。陽は極まれば陰になり、陰は極まれば転じて陽になります。ですから、なにが陽でなにが陰かと分類すること自体にあまり意味がありません。しかしとりあえず、陽をポジティブとすれば、陰はネガティブなもの。陽を変化するものとするなら、陰は変化しないもの。陽が顕在化したものなら、陰は潜在化しているものとなります。このように、陽と陰は反対の極に位置する性質を持ったものと、一応は、考えることが出来ます。何かを得ると、必ず何かを失います。逆に何かを失うと、必ず何かを得ます。要するに、陽と陰は対極にありながら、陽は陰にもなるし、陰は陽にもなる存在として、切っても切り離せない存在・関係にあるというわけです。太極的世界観は、課題を陽と陰の要素に冷静に分析することによって、日常的思考では、見つけにくいものを浮かび上がらせてくれる面があります。私は勉強不足ですので、これ以上詳しいことに触れる知識がありませんので、物事には必ず光と影が存在するものだから、物事の両面を見ていく習慣を身につけることが大事。また光も影も同様に同じ価値で大事…というふうに簡単に認識することにしています。

高円寺阿波踊り

2005年08月29日 | 羅漢気功
今年の夏のお祭りはこれが、本当に本当の最後です。「夏は終わった!」と自分に言い聞かせ、浮かれ気分にケジメを付けて、後ろ髪を決して引かれることなく、この季節を自ら潔く締めくくるためにも、お祭り三昧だった、今年の夏の終焉を、「高円寺の阿波踊り」で勢いよく気分を盛り上げ、お祭りというハレの持つエネルギーをしっかりと脳裏に焼き付けようと思い、高円寺に出かけました。(ふ~!何という前口上の長さ!くどい文章なら、私に任せてください!自慢にもなりませんが、私の専売特許です。)この日は、道連れもなく、たった一人の冒険旅行となりました。開始時間の数分前に駅に到着した頃は、それでも駅前ロータリーはまだゆったりとしていましたが、おまわりさんが随所随所で通せんぼの役割をしていて、歩行者は一方通行で進むしかありませんでしたので、そのようにしていたら、いつの間にか、見当違いの方向に歩いていることに気づきました。どちらを見回しても、人・人・人なのですが、何故か、その人の流れに規則性がないので、どこを目指せばいいのかがにわかには掴めませんでした。そこからの行動は直感だけが頼りでした。「多分こっちの方向だろう…」今までの私なら、ただウロウロしているだけで、どうしたらいいのか見当もつけられず、かといって、電信柱に登るほどの勇気もなく・機転もきかず、途方にくれているだけだったと思うのです。ところが、何だか本当に不思議でたまらないのですが、すいすい歩いていくうちに、あっと言う間に最前列のスポットに立っていたのです。「こんなところに居座って怒られないかなぁ…」と少し気持ちが逡巡していた時に、そこに座っていた人が、しぐさで「あっちの方がいいよ!」と指し示してくれたのです。「どうして…こう上手くいっちゃうんだろう?」あり得ない事なのですが、遮るものが殆どない場所でエネルギッシュな踊りの数々を堪能することができてしまいました。最後まで観ていたい気持ちはやまやまだったのですが、7時半頃には帰ることにしました。その時間なら、駅もすいているだろうと判断したのですが、思い違いもはなはだしく、駅は大変な大混乱でごったがえしており、切符を買う人、構内から出てくる人、構内へ入る人を分けるために、駅員さんが人々の流れを三層にロープで仕切っているほどでした。気を落ち着けて、構内へ入る人の流れに加わり、ほどなく無事に改札を抜けると、待っていたかのように電車が滑り込んできました。気功の先生がよく話されるのですが、例えば、車に乗っていて、駐車場を探そうとするとすぐ見つかるとか、何かを意図すると、何気なくその状況が目の前に現れるというようなことで、自分の今のあり方をチェックできるのだそうです。先生は瞬間・瞬間がそんなことの連続だそうです。色々なことがスムーズに流れていくのであれば、今の自分のあり方はOKと判断していいようです。もちろん、すべてのことがそんなに都合よくいくわけはありません。歩く度に信号が赤になるというようなことにも、私たちはしばしば遭遇するわけですし…。ただ、何となく運が悪いと感じたら、チョッと自分の内面に目を向けて、「どこが悪いんだろう?」と考えてみることが、ずれてしまった循環を好転させることの助けにもなるようです。そういえば、この頃の私は、何も考えずに、何かに身を任せるように行動していることが多い割には、私の身の回りの様子や起こってくることをじっと観察するようになってもいます。良いことも、あまり良くないことも、「こうやっていろいろな現象が立ち上がってくるんだ!」と知ることは、現実を対象化して、眺めることの第一歩となります。こうした態度を持つように心がけると、少しだけ余裕が生まれるようです。お祭りという激しくダイナミックな現実の中で、静かに、自分の行動を観察している「もう一人の自分」を感じていました。架空の町を彷徨っているような不思議体験は冷めた興奮を伴った楽しさに満ち満ちていました。8月最後の週末の夜はこうして夢のように過ぎていきました。

気功交流会

2005年07月31日 | 羅漢気功
いつもの気功教室が、この日は中国人の方々との「気功交流会」と合同で行われました。いつもなら、気功教室の生徒は7~8人なのに、この日は大変な盛況振りで、狭い部屋の中では先生の姿も、普通にしていては、見えないほどだったのです。カカム先生も日本語と中国語を交互に使いながらの大奮闘です。でも、先生はいつも以上に楽しそうでした。先生の国籍は日本ですが、やはり母国の人々との交流にはえもいわれぬ嬉しさが伴うものなのでしょう。ほとんどが中国語という状況の中で、また、中国の方たちは非常によくお喋りをされるので、わいわいがやがやとした雰囲気の中で、私の意識はだんだんと弛緩して朦朧となりやがては茫洋となっていってしまったようです。気功の実践に入った時からは、本当の眠りに入ってしまったのです。もちろんあたりがざわついていることやまわりの人の気配はそれとなく感じてはいるようでしたが、起きていられなくなってしまったのです。どのくらいの時が経ってからでしょうか?「冷たいお茶を入れましょうか?」という人の声で目覚めました。この日は、先生の訓話は少なく、ほとんどが武道のデモンストレーションでした。相変わらずの、先生の動きの見事さに、私は当たりもかまわず拍手をしてしまったら、ほぼ同時にみんなが拍手をしていました。先生のコラム記事が中国の新聞に載ったとのことでの緊急集会のようでした。私の隣に座っていた、中国語も日本後も両方理解できる女性が、私にその記事の内容を翻訳して教えてくださいました。『人生の幸福は健康である。有名になることやお金を得ることも幸せには違いないが健康がなければ真に幸せとはいえない。調心・調身・調息を心がけるだけでいいのだから健康になることはとても簡単なことだ。人生で起こる一切の出来事は夢幻(ゆめまぼろし)のようなものなのだから、人生の何たるかを看破して(見破って)物事(特に、欲望や雑念…)に捉われすぎずに健康を保持しよう。』というような内容であることが分かりました。気功は宗教とは異なります。信じようが信じまいが‘気’は信じない人の周りにも確かに存在するものなのです。ただ、信じたほうが、効果が大きいとの説明がありました。不思議な雰囲気に包まれた集会でした。だからでしょうか?目覚めた後には、夢から覚めた後のような感覚(その集会すらが夢の中の出来事だったのではないかというような…)に襲われている自分が、そこにぽつんといたのです。

始めに言葉ありき…

2005年07月17日 | 羅漢気功
言葉は神なりき。そう!言葉は神なのです。気功教室の先生は言葉をとても大切にされます。頓智の利いた方なので、いつも冗談とも本気ともつかないおどけた雰囲気の物言いをなさることばかりですが、はっとさせられることが多いです。言霊という表現があるくらいですから、言葉には命があるということになりますネ。先生の造語もあれば、四文字熟語辞典に載っているものまで混在していそうですが、これまでに先生が口にされた四文字熟語を始めとする言葉を羅列してみます。意味がよく分かっていないものも含まれていますが、その点は悪しからず…
★心想事成=心に思ったことが思うままに現実となること。
★知難易行(孫文)知れば容易く行える。出来ないことはまだ知らないということ。
★顕密双重。顕(見えるもの)密(見えないもの)2つとも共に大事。現実主義過ぎてもいけないし神秘主義過ぎてもいけない。バランスを取ることが大事。
★如是我問=このまま・ありのまま
★拳拳服膺…〔中庸〕・〔「服膺」は胸に着ける意〕常に心中に銘記し、忘れないこと。うやうやしくつつましいこと。
★托手問仏
★無我随順
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★看脚下=足元を見よ!
★放下=ものを置く。手放す。
★看破=見破ること=知ること。大変な時、その状況がどういうことなのかを見破ることがまずは大事。
★儲けるという字は人と人の間に言葉がある。言葉は神。人と人の間に神がいる。あるいは信じる者とも読める。
★欲という字は、谷という字と欠けるという字が重なっている。谷は火の下に口がある。欲張りすぎると心が乱れる。満足すること・足りることを知る。人間の敵は欲。過剰な欲はカットする。バランスの取れた欲。欲をエネルギーに変える。(自分のためだけの欲ではダメ。)過剰な欲は火になってしまう。自分の身体が火に焼かれてしまう。執着すると苦が生まれる。分かる&知ることが大事。
★私という字と和という字は似ている。
★知(口に矢で喋るだけ・・)→智(実践して智になる)
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★求道者=羅漢(物事にとらわれない境地)→菩薩(最高の悟りを開いて、仏になろうと発心して、修行に励む人。)→如来(仏教上の最高の状態にある存在、すなわち仏のこと。)。羅漢・菩薩・如来という順にレベルが上がるようです。

性格とは内臓格(?)のこと

2005年07月17日 | 羅漢気功
発脾気とは怒りの気のことです。脾臓の気が減ると怒りっぽくなり、肝臓の気が減ると決断力が低下し優柔不断になり、物事を実行しようとするパワーがなくなるそうです。大事な時に物事を判断する力がなくなるようでは困ったことになりますね。性格は内臓に支配されているので内臓格とも言うそうです。五臓六腑を強くすることが心身を整えることに繋がるということは、このような理由からだったのですネ。腎臓が弱い人は臆病になり、物事を大げさに捉えるようになるそうです。前向きではなくなり何に対しても水をかけるようになるなんて…人に嫌われそうですね。怖がりになり、悲しい気持ちや落ち込みが激しくなる時は肺に原因があります。ため息は気が抜けてしまうそうですのでため息をつくことは良くないそうです。辛いものは肺の栄養になり、甘いものは疲れた時にいい…この辺の事情は、身体のほうが要求してくるので、皆さんご承知のことですよね!まず、内臓を整えて後に、本当の性格が見えてくるものだとのことです。

カカム先生

2005年07月17日 | 羅漢気功
気功教室ではずっと気功のことだけを習うのだとばかり思っていました。事実、入門してもう4ヶ月近くが経ちますが、これまでは気功の話ばかりが主でした。一度だけ、太極拳の話題も出ましたが、その時は、先生のちょっとしたデモンストレーションがあっただけです。ところが、いよいよ、先生は太極拳のお話もされるようになってきたのです。機が熟してきたのでしょうか?何かが佳境に入ってきた感じなのです。太極拳は気を使った武道です。ゆっくりとした動きなのに、相手のパワーを利用しながら、にわかに、相手を打ち負かしてしまうことの出来る護身術とも言える武道です。訓練して一つの技を‘熟達’の域にまで、身につけてしまった人の凄さには「美」が伴っていることを知りました。まさに自由自在なのです。どんなふうに攻められても、瞬時にその攻撃をかわしてしまうしなやかな動き。先生の身のこなしのあまりの美しさには目を見張るものがありました。私が尊敬してやまない精神療法の大家である精神科医の、あの神田橋條治先生も何かにつけて、気功のことや、太極拳を始めとする武術の話をされますが、武術は武術だけに留まらない無限の拡がりを持った世界を有しているようです。その動きの様はまさに人間関係の表象でもあるようです。カカム先生の動きを見ているだけでそのことを思い知らされる心持がしました。私がこれまでに見たことも聞いたこともない、ワクワクするような未知の無限の世界がそこに開けているような予感がしました。カカム先生は、どんなに濁った池の中ででも、美しく咲き誇る蓮の花のように謙虚で慎ましい方です。本当は孤高の人なのでしょうが、私たちのレベルにまで降りてきてくださって、洒落ともつかないユーモアで場を和ませてしまうお茶目なお人柄でもあります。私たち生徒(弟子?)のことを、私の‘友’と思ってくださるような方です。

たんとうこう(站粧功)

2005年07月10日 | 羅漢気功
立って行う禅でもあるので、立禅とも言います。座って、足の裏に意識を集中させる気功を励行するだけでも万病にかからないと言われている位ですが、たんとうこうは、膝を(線で囲んだ部分です。)少し下に落として、図にある手の位置より、もう少し両手は近づけるようにします。最大で1日15分位出来るようになれば上々ですが、最初は1分も辛いかもしれません。たんとうこうは少しやってみるだけでも如何に大変な気功かがすぐに分かります。姿勢を維持することで精一杯で心の中で他のことを考えられなくなります。嫌でも、たんとうこうの姿勢を崩さないようにということ以外のことは考えられなくなるのです。たんとうこう終了後は椅子に座れることがこんなにも有難いことだったのかという驚きの気持ちに襲われるほどです。図の絵の女性は目を瞑っていますが、テレビを観ながら行ってもいいそうです。いずれにしても、足裏は第2の心臓とも言われるくらいですので、足が丈夫になれば、本当の心臓の調子も整うようになるそうです。足は健康を支える役割を担っています。たんとうこうを行い、姿を調整することによってすべてが調整されていくことになります。とりわけ特徴的なことは、この姿勢によってサプリメントでない天然のカルシウムが生成されることにあります。(たんとうこうの「とう」という字は本当は【きへん(木偏)】のようです。日本にはない字なのでIMEパッドでも変換されませんでしたが、粧という字を使っておられる方もいらしたので便宜上、その字を使っておきました。【きへん(木偏)】の「とう」という字は「切り株」という意味だそうです。)

何一つ自分のものではない…

2005年07月03日 | 羅漢気功
「子どもというものは天からの授かりものではなく天からの預かりもの。」と言った人がいました。「そうだなぁ。」と私でも思います。小さい時は養育者なしには成長できない(生物学的には)弱い存在ですが、時期が来れば、当然のことながら、一人でも生きていけるようになります。またそうでなければまわりも本人も大変に困ったことになるでしょう。助け合い共存しあうことと、パラサイトとなって人に依存しながら生きていくこととは別問題ですから。子どもが親の持ち物でないことは誰でもが知っていることです。でも驚いたことに、気功の先生は、「何一つ自分のものではない。」と言われるのです。与えられたものなのだそうです。私自身のものは一つもない。私の身体でさえ私のものではないのだそうです。ならば、私以外の人が私のものであるはずはありません。でも巷では、「俺の彼女が…」とか「私の彼が…」と言い合って、恋人同士がお互いをお互いの、まるで所有物みたいにして仲良く睦みあっているではないですか?本当に羨ましい光景ですよね。そのことを気功の先生はどう説明されるのでしょうか?でも、有難いことに、唯一つ自分のものといってもいいものがあるそうです。それは「感謝する気持ち」だそうです。物事や誰かに感謝する気持ちだけは紛れもない自分のものなのなのだそうですヨ。自分のものが一つでもあって心底ほっとしました。