先日、実家に帰ったとき、母と二人きりだったので、
そんな機会も滅多にないし、とじっくり腰を据えて
普段父がいるときにはできない話や、
昔の話、病気の話、夫婦の話、結婚の話、老後の話など、
まぁいろんな話を女同士で語り合った。
中でも印象的だったのが、小さい頃(幼稚園~小学校)の自分の話。
当時の父はちょうど今の私くらいの年齢で、仕事に多忙な毎日。
家にいる時はいつも難しい顔をして煙草の煙をくゆらせながら何かを考え、
原稿を書いたりしていたので、
子供心に「近寄っちゃいけない」というオーラを感じていた
母は、と言えば、父方の祖父が10年間ほど寝たきりの生活だったため、
家にいることは少なくて、実際に母の役目を果たしてくれていたのは、
住み込みのお手伝いさん=キクちゃんだった。
なので、私の記憶の中の甘酸っぱい思い出というと、
キクちゃんが登場することが多く、
その温もりや匂い、も彼女のものなのかもしれない
そう言うと母は悲しそうな顔をするので、
当時も今までもあまり言ったことがなかったのだけれど、
それ故にわたしは「手のかからない子」をどこかで演じていたし、
「甘える」ということをしない「子供らしくない子供」だった。
そんな幼少期を過ごし、
そのまま「人に甘える」という術を知らないまま大人になった私。
ここ数年で気付いたのは「私がずっと抱えていたのはさみしさだったのかも」
というすごく単純な感情だった
今更ながらに「さみしさ」に気付いても、その対応には困るわけで。
甘えたくても甘えられる人がいつも横にいるわけではないし
でも「甘えを持つ」というのと「甘えられる」というのは大きく違う。
自分を晒し、人に甘えられなければ、人を受け入れられるわけもない。
ホントに心を許せる相手が1人でもいれば・・・と思うのは
やっぱり年をとったせいからか。
それとも年をとらないとわからないことなのだろうか
そんな機会も滅多にないし、とじっくり腰を据えて
普段父がいるときにはできない話や、
昔の話、病気の話、夫婦の話、結婚の話、老後の話など、
まぁいろんな話を女同士で語り合った。
中でも印象的だったのが、小さい頃(幼稚園~小学校)の自分の話。
当時の父はちょうど今の私くらいの年齢で、仕事に多忙な毎日。
家にいる時はいつも難しい顔をして煙草の煙をくゆらせながら何かを考え、
原稿を書いたりしていたので、
子供心に「近寄っちゃいけない」というオーラを感じていた
母は、と言えば、父方の祖父が10年間ほど寝たきりの生活だったため、
家にいることは少なくて、実際に母の役目を果たしてくれていたのは、
住み込みのお手伝いさん=キクちゃんだった。
なので、私の記憶の中の甘酸っぱい思い出というと、
キクちゃんが登場することが多く、
その温もりや匂い、も彼女のものなのかもしれない
そう言うと母は悲しそうな顔をするので、
当時も今までもあまり言ったことがなかったのだけれど、
それ故にわたしは「手のかからない子」をどこかで演じていたし、
「甘える」ということをしない「子供らしくない子供」だった。
そんな幼少期を過ごし、
そのまま「人に甘える」という術を知らないまま大人になった私。
ここ数年で気付いたのは「私がずっと抱えていたのはさみしさだったのかも」
というすごく単純な感情だった
今更ながらに「さみしさ」に気付いても、その対応には困るわけで。
甘えたくても甘えられる人がいつも横にいるわけではないし
でも「甘えを持つ」というのと「甘えられる」というのは大きく違う。
自分を晒し、人に甘えられなければ、人を受け入れられるわけもない。
ホントに心を許せる相手が1人でもいれば・・・と思うのは
やっぱり年をとったせいからか。
それとも年をとらないとわからないことなのだろうか