ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

痛みを知る

2016-10-11 13:55:13 | 日記
先日、腸の手術をした父は腸の接合部分からの漏れもなく、口からの食事も摂れて、今のところ身体的には大丈夫なのだが、意識の状態は悪化したように思う。

手術前はこちらからの呼びかけに反応があったのだが、術後はそうした反応が無くなり、目は開いているのだが、ほとんどこちらを見ようとせず、いつもぼーっとした状態が続いている。

高齢になると、入院するだけでも認知がひどくなったり筋力が衰えたりするなど弱ってしまうが、父の場合は大きな手術をしているので余計に弱り方が大きいように思う。

現在も入院中の父の身体はますますやせ細り、特に筋肉の無くなった足は骨折防止のガードルがはめられて細い棒のようになった。

先日、父の見舞いに行った時、ベッドに横たわりうつろな目をした父に「具合はどう?」と呼び掛けてみた。

しかし、やはり反応はまったく無かった。

その時だった。父の声が聞こえたような気がした。

「こんなになってまで生きていたくないな」

あぁ、父なら言いそうなことだと思った。

「でも生きなきゃだめなんだよ。寿命が尽きるまで生きなければ・・・」
私も心の中で父に向ってそう話しかけた。

母が末期癌で余命宣告を受けていた時、まだ20代で若かった私は新聞やテレビで「自殺」の報道を見ると、無性に腹を立てていたことがあった。

「まだまだ生きられるのに、なぜ自分で命を絶つのか。
生きたくても生きられない人たちがたくさんいるのに。いらない命ならば生きたい人にあげて」

そう言って、自殺する(しようとする)人の胸ぐらをつかんで張り倒してやりたいくらいだったが、今思うと、なんと思いやりのない自分だったのかと思う。

その時は、自殺したい人には、死にたくなるほどの苦しみがあることまで思いが及ばなかった。

私のそれまで生きてきた中で、落ち込むことや挫折はもちろん何度となく経験していたが、死にたいと思うほどのことは無かったから、自殺する人の気持ちを理解することができなかった。

「うつ?多少なりとも誰でもなることがあるのでは?それで自殺したいなどとは甘えでしょう」

実は私はつい最近までこう思っていた。

しかし、そうではなかったことを身をもって知ることになった。

前に少し書いたが、夏頃は心身ともにエネルギー不足に陥っているような感じがして、特に精神面は非常につらいということが続いた。

その時は理性では理解しているつもりだったので、「大丈夫。こんなことは大したことではない」と自分で自分に言い聞かせていたのだが、どんどんどんどん訳の分からないつらさに囚われていった。

ただ家族や他の人の前では、そのようなそぶりを見せないように普段どおりにふるまっていて、自分を抑圧していた分、今度は体調も悪くなった。

その時に考えていたことは、「うつで苦しむ人というのは、このような大変なつらさの中にいるのかな」ということで、「こんな心境の中にずっといるのは、さぞつらいことだろうな。今まで知らなかったとは言え、なんて傲慢なことを思っていたのだろう」ということだった。

ただ自殺をすることは、今も絶対にしてはいけないと思っているし、弱っている時でも、それはまったく頭には浮かばなかった。

「自殺だけは絶対にしてはいけない」ということは変わらない。

今はもう回復して、あのようなつらさを経験できてよかったと思えるほど元気になった。

そして「人の痛みを知る」と言う言葉があるが、それまでわからなかったうつの人の痛みというのが少しだけわかったような気がしている。

ただできれば、もう二度と経験したくないけれど。

そんなわけで、入院中の父が少しでも元気になってくれて、また笑顔をみせてくれることが今の一番の望みでもある。










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