ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

見送って

2016-10-07 14:30:33 | 日記
来春、就職予定の会社の内定式に出るため長男パインが帰省していた。

そして数日間自宅にいた後、大学のある街へ戻っていった。

次女ピーチの時もそうだが、子どもが家を出ていく姿を見送るのは何度やっても寂しい。

子どもが居なくなった家は、急にがらんとして広くなったような気がする。

ただ、これもしばらくするといないことに慣れるのだけれど、数日間は寂しさが続く。

思うことは、子どもに限らず「見送られる方」と「見送る方」のどちらが寂しいかと問われれば、私は断然「見送る方」に一票を入れる。

なぜなら見送られる方は新しい世界へ向けて出発するが、見送る方は昨日までその人が存在した世界から、存在しない世界へ変わるから。それが愛する人であれば尚更さびしい。

そういえば関東の大学に通うピーチのアパートに数日間滞在し、ピーチを残して帰る日のことだった。

帰る側の私は寂しさよりも、帰ることで頭の中はいっぱいだった。

「何時何分のバスに乗って、新幹線に乗って、電車にも乗って、空港には遅くても何時までに着かなくてはいけない」

ただでさえ方向音痴なのに、飛行機に無事に乗ることができるかどうかで私は精一杯。

とてもピーチの寂しさまで思いやる余裕がなかった。

一緒に行った長女チェリーと共に慌ただしくピーチのアパートをあとにして、しばらく歩いてからアパートのほうを振り返ったら、ピーチがカーテンのかげから顔を半分だけ覗かせてずっとこちらを見ていた。

そしてピーチに向かって手を振ったら、小さく振り返してくれた。

想像すると、私たちが帰ってしまうことで、きっとピーチは寂しかったのだろうと思う。

そんなことがあったと、帰宅してから夫に話すと「鬼!かわいそうに、そんなピーチを残してよく帰ってこれたな。俺なら無理だ、飛行機をキャンセルしてでもアパートに戻る」と言っていた(父親は娘に甘い 笑)

というわけで、やっぱり見送られる方より見送る方が寂しいと思う。

しかし、これは子どもに対する執着心とはまた違うような気がする。

執着心とは、例えば、「子どものために」という間違った考えの元、実は「子どもを自分の思うがままにしたい」という気持ちなのではないかと思うのだが・・・

ところで先日の夜、寝ようとして布団に入った途端、不思議な感覚を覚えた。

それは「執着心」という言葉が急に頭に浮かんだことだった。

「そうだ、私も死ぬまでに、執着心をもっともっと手離そう」
目をつぶりながらそう思ったら、身体がひとつずつ軽くなっていくような感覚がした。

それはまるで地上とつながっている鎖が次々と解かれていくような、そんな不思議な感覚だった。

それまで身動きができないくらい地上に重く縛り付けられていた身体が、どんどん軽くなって、まるで宙に浮かび上がるような気がした。

このことからも執着心をたくさん持っていると、結局つらいのは自分自身なのだとわかった。

子どもにも、ほかの家族にも、他人にも、そしてもちろん物質にも、できるだけ執着心は持たないようにしていきたい。

ただ間違ってはいけないのは、執着心を手放す=無関心ではないのだということ。

思いやりの気持ちは忘れずに持っていたいものだと思う。もちろん最善の努力も。







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