私の人生の中で今まで
師匠と呼べる人が二人いた。
一人は私が15歳から45歳位まで頑張っていた
空手の師範(故人)で、
もう一人は
空手を辞めてから今日までやってきている
音楽(ギター)の師匠であるミナガワ師匠である。
師匠と知り合ったのは
私を音楽の道に導いてくれた
盟友・寛ちゃんの紹介で、
その頃私はド素人のくせに同級生の
寛ちゃん(寛ちゃんはプロ級のシンガーソングライター)と夕張ヤンチャーズなるバンドを作り(のちにモローバンド)
当時夕張で宿泊施設も兼ねていた観光施設・鹿鳴館や
夕張で唯一のジャズ喫茶・ファイブペニーズなどで
無謀にも毎月のように寛ちゃんらとライブを重ねていた(私はド素人だが、メンバーは皆凄い人たちだった)。
勢いだけでやっていたが私はどうしてもギターをもっともっと巧くなりたかった。
50歳を過ぎてから初めて持ったギター(これは寛ちゃんがくれた)。
そして、寛ちゃんの紹介でミナガワ師匠と出会い、
その技術に仰天した。
ギターの音色が二人か三人で弾いてるように聴こえるのだ。
あんなテクニックを真近で聴くのは初めてだった。
以来私は師匠と呼びリスペクトした。
師匠はパソコンも得意分野でうちのパソコンも何かあればすぐに直してくれた。
そして、
一番驚いたのはその交友関係の広さで、
とにかく素敵な仲間たちが大勢いたことだ。
その素晴らしい仲間たちにも師匠は、
「夕張に来たらビックモローに寄ってください!!」
と、声をかけて応援してくれた。
時に赤紙と呼ばれた(笑)師匠の関係ライブに、
なかなか行けず逆鱗に触れたこともあったが
それでもすぐにいつもの温厚な師匠に戻り優しく接してくれた。
頭が良く(明治大学卒)、
切れ味鋭いジョークでいつも周りを笑わせ、
ライブのトークも本当に楽しかった。
師匠は高田渡が大好きで
一度ファイブペニーズで師匠のお仲間のコヤマさんが
高田渡の”ブラザー軒”を弾き語りで唄ってくれその
心に染みる独特な世界に
私もキミちゃん(妻)も引き込まれた。
師匠もたくさんたくさん高田渡を唄ってくれた。
名曲・夕張めろん、
離山の唄、
石炭列車ブルース(ロコモーションブルース)
等々
たくさんの名曲を残して師匠は昨夜旅立ってしまった。
いつもメロン時期になると決まって
ビックモローに頻繁に買い物に来てくれ、
いつもの椅子に座り、
キミちゃんの入れたコーヒーを美味しそうに飲みながら煙草を燻らせて
(ビックモローは禁煙だが師匠は何故か許された)
長い時間私たちと冗談を言いながら取り留めのない話をした。
みんないつも笑っていた。
その時間が当たり前のようにビックモローの普通の日常だった。
今、師匠が来ないのが
本当に涙が出るほど寂しい。
おそらく毎年メロン時期が来る度にこういう気持ちになるのだろう。
昨夜師匠が旅立つ時間、
偶然にも私は師匠から譲り受けた思い出のTakamineのギターを
一人弾いていた。
今日、昔夕張勤労青年団で師匠達とバンドを組んでいた
ケンちゃんと黒ちゃんらと最後の別れもできた。
5月29日には
山ちゃんたちが夕張・リスタで応援ライブをやってくださり
師匠の為にチバさん、うずめさんらたくさんの
ミュージシャンやお客さんが来てくれ師匠を励ましたくれた。
穂別のスーさんやのぞみさんらも出店で頑張ってくれた。
本当に素晴らしいライブだった。
こんなに多くの人達に愛されてきた師匠に
今更ながらビックリさせられた。
未だ師匠が亡くなったという現実は信じられないが
師匠が育んだ人間関係の輪はこの先も永遠に続くと思うし
無くしてはならないものだと思う。
ビックモローのいつも師匠が座っていた椅子は
寂しそうだが
ビックモローはこれからも前を向いて
精一杯頑張っていこうと思っています。
師匠・・・
ありがとうございました
なんだか寂しくなりますね。
青空焼肉追悼ライブ楽しみにしていますね。
こちらこそありがとうございました。
焼肉ライブ、
8月お盆過ぎにはやりたいですね~~
今から楽しみです。
みんなで相談して決めましょう。
師匠のギターで心を込めて唄いますよ~~