ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

『『絆』連呼に違和感』に一票!

2011年12月14日 | 日本とわたし
『絆』連呼に違和感精神科医・斎藤環
 
◇自由な個人の連帯こそ

3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉に『絆』がある。
『3.11』『帰宅難民』『風評被害』『こだまでしょうか』といった震災関連の言葉とともに、今年の流行語大賞にも入賞を果たした。

確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。
昨年は流行語大賞に『無縁社会』がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。

しかし、疑問もないわけではない。
広辞苑によれば『絆』には、
(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱
(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)、
という二つの意味がある。

語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。
だから『絆』のもう一つの読みである『ほだし』になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。

訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。
しかし被災後に流行する言葉として、『縁』や『連帯』ではなく『絆』が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。

おそらく『絆』には、二つのとらえ方がある。
家族や友人を失い、家を失い、あるいはお墓や慣れ親しんだ風景を失って、それでもなお去りがたい思いによって人を故郷につなぎとめるもの。
個人がそうした「いとおしい束縛」に対して抱く感情を『絆』と呼ぶのなら、これほど大切な言葉もない。

しかし「ピンチはチャンス」とばかりに大声で連呼される「絆を深めよう」については、少なからず違和感を覚えてしまう。
絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。
それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。

つながりとしての絆は優しく温かい。
利害や対立を越えて、絆は人々をひとつに包み込むだろう。
しかし、しがらみとしての絆はどうか。
それはしばしばわずらわしく、うっとうしい『空気』のように個人を束縛し支配する。
たとえばひきこもりや家庭内暴力は、そうした絆の副産物だ。

もちろん危機に際して第一に頼りになるものは絆である。
その点に異論はない。
しかし人々の気分が絆に向かいすぎることの問題もあるのではないか。

絆は基本的にプライベートな『人』や『場所』などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。
つまり絆に注目しすぎると、『世間』は見えても『社会』は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。
これを仮に『絆バイアス』と名付けよう。

絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。
たとえ社会やシステムに不満があっても、「社会とはそういうものだ」という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。
そう、私には絆という言葉が、どうしようもない社会を前提とした自衛ネットワークにしか思えないのだ。

それは現場で黙々と復興にいそしむ人々を強力に支えるだろう。
しかし社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。
対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない。

なかでも最大の問題は『弱者保護』である。
絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが『家族の絆』にゆだねられてしまいかねない点だ。

かつて精神障害者は私宅監置にゆだねられ、高齢者の介護が全面的に家族に任された。
いま高年齢化する『ひきこもり』もまた、高齢化した両親との絆に依存せざるを得ない状況がある。
そして被災した人々もまた。

さらに問題の射程を広げてみよう。

カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインが提唱する『ショック・ドクトリン』という言葉がある。
災害便乗資本主義、などと訳されるが、要するに大惨事につけ込んでなされる過激な市場原理主義改革のことだ。
日本では阪神淡路大震災以降になされた橋本(龍太郎)構造改革がこれにあたるとされ、
さきごろ大阪市長選で当選した橋下徹氏の政策も、そのように呼ばれることがある。

人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。
政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、
人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。

もはやこれ以上の絆の連呼はいらない。
批評家の東浩紀氏が言うように、本当は絆など、とうにばらばらになってしまっていたという現実を受け入れるべきなのだ。
その上で私は、束縛としての絆から解放された、自由な個人の『連帯』のほうに、未来を賭けてみたいと考えている。

以上、毎日新聞 東京朝刊にて毎週日曜日掲載の『時代の風』12月11日の記事を転載させていただきました。



みんな、
お手上げを決めてかかってる政府の肩代わりさせられてんねんで。わかってる?
「助け合おう」やの「応援しよう」やの「絆を大切にしよう」やの、あいつらはそんな言葉で自分らの嘘や過ちや無能を包み隠して、ほんまは自分らがせなあかんことを全部、みんなに押し付けてるねん。
『絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。
それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか』
ほんまそう思うわ。余計なお世話やわ。
国民を散々騙して、核兵器のための劣化ウランやらプルトニウムやら、非核三原則なんかそっちのけで米軍のご機嫌とって、
その間、金をわんさか儲けて高笑いしてたんは誰?
電力会社なんかもう会社とちゃうわ。役員は阿呆揃い。詐欺に隠匿に汚染事故のオンパレード。
おかげで日本列島、核物質の宝庫になってもうた。
今でも日本中の原発(というてもたった8基やけど)で事故が頻繁に起きてるねんで。放射能漏れも然り。
今までは完全に隠し通せてきたけど、もうそうはいかんわ。
原発狂団の連中は、金儲けには長けてるけど、原発に関しては阿呆丸出し。

なあ、どういうことを助け合うて、どういうことを応援していかなあかんか、それを考えるぐらいできるやろ?
裏であの連中が「ひひひ」とほくそ笑むようなこと、もうせんとこうな。
あの連中の裏かいて、ギャフンと言わしたろうな。
あいつらがせなあかんことをあいつらにさせる。
自分らの過失も責任も労働も、全部みんなに押し付けて知らん顔してる恥知らずのあいつらに、『絆』なんて言葉を口にされとうないと思わんか?

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6 コメント

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Unknown (かわちゃん)
2011-12-15 15:42:14
江戸時代の「五人組」や戦争中の「隣組」は強制された「絆」やな。
相互扶助であると同時に相互監視やったわけや。何しろ連帯責任やから。

僕が住んでる地域は古いところでいまだに「隣保」と言うのが地域生活の基本単位や。
さすがに相互監視ではないけど、やっぱり「人の目」を気にすると言うことはあるわ。
反面、うちみたいに年寄りが居る家には近所が気を使ってくれて便利な面もある。

中国語では「絆」は「じゃまをする」とか「からみつく」「雑事に縛られる」と言うような意味らしいわ。
絆、柵、枷… (よもぎ)
2011-12-15 17:43:11
まうみさん、こちらではお久しぶりです。

ほんとうにあの日以来、壊れたものは物理的な物ばかりではない…と思い知らされる日々です。

インターネットのおかげで、まうみさんをはじめ多くの心ある人々に出会い、
さらにツイッターで、これほど存在するなんて思いもよらなかった深い考えを持つ人々に出会い…
私も一度だけ「絆」という言葉を使ってしまったことがあるんです。
名前も顔も知らないまま、思いだけで繋がれることがうれしかったんですけれど、
それが一転、今のような使われ方になってしまうなんて……

まうみさんほどではないけれど、私自身も世間の柵や枠、足枷から逃れようとし続けて、
ようやく逃げきれたかなと思った頃にまた絡めとられそうな気持ちを立て直し、
そんな矢先の3月でしたから、それからの日々は複雑すぎる気持ちでいっぱいです。

それでも希望はあると確信はしてますし、
生きている間はできるだけのことはしておきたい、伝えておきたいと考えているのですけれど。

「月の光」での、まうみさんのピアノの、いえ、音楽そのものの伝え方、
とても素敵だなぁ…と感動してました。
まうみさんのブログもツイートもそうですね。
緩急のリズム、激しさとユーモアそして静謐さのバランスが絶妙!

私ももっと軽やかに、緩急自在に、
守・破・離を往来できるようにならなくっちゃと、
しばらくはネットの外でも努力中で~す(^ ^;)
かわちゃんへ (まうみ)
2011-12-15 22:51:58
そうか、ほな、中国の人に『絆』っていう漢字を見せたら、しかめっ面されてまうのかもね。
気をつけよっと。
生徒に何人か中国の人がいるから。
確かに、牢によう似たんが右横にある。
今までこの字見たら心がキュンとしたもんやけど、ちょっと違う見方があるってことを知ることができて良かったわ。

かわちゃんとこ、隣保の精神が残ってるんや!
わたしな、自分の常識と闘いながら(大げさではなく)12年半暮らしててんけど、
好きになってきててん。古い習慣や隣近所との強い繋がりが。
それにあの素晴らしい自然。新鮮な食べ物、自家製の味噌やこんにゃく作り。

それをあの産廃が一気に破壊した。

かわちゃん、物事にはいつもいろんな面があるな。
よもぎさんへ (まうみ)
2011-12-15 23:28:23
よもぎさん、褒め過ぎです……まったくもって、この言いたい放題書きたい放題のおばはんに、もったいないです、はい。

よもぎさんのように、身体的に過酷な状況を抱えながら、
それでもなお、精神が弱らず、すっくと竹のように立っておられる強さを、わたしは持ち合わせていません。

ピアノを教える時に、ああいう話ができる生徒というのはなかなかいないので、
わたしにとってもすごく楽しい時間なのです。エラに感謝です。
わたしはよく曲の中に話を作って、その情景を想像しながら弾くのですが、
一度学生の時に、これは荒波に揉まれて恋人のところに辿り着こうとしている男、
そして辿り着いて、二人で抱き合ってイチャイチャしているところ、などという話をして、
師匠にポカリと頭を小突かれたことがあります。
生々し過ぎると……。がはは!

わたしもふと、3.11以降のネットと自分の関わり、世界の変化に思いを馳せることがあります。
戸惑ったり悩んだりもしたけれど、
わたしもよもぎさんのような方や、他の大勢の、
ツィッターやブログ、Facebookを媒体にしていなければ決して知り合うようなことが無かったすてきな人達を知ることができて、とても嬉しいです。

これからもぼちぼち、一緒にやっていきましょ!

Unknown (Unknown)
2011-12-16 15:55:07
>物事にはいつもいろんな面があるな。
震災の後よく流れてた公共広告機構のCMが面白いで。

http://www.youtube.com/watch?v=GdLRnJ9coU4

まぁ、うちのあたりは旧城下で農村ほど濃厚な関係やないからええ関係やと思うけど。
年寄りばかりで若い家族の少ない地域やからうちなんかは一時は興味の的やったらしいわ(笑)。
かわちゃんへ (まうみ)
2011-12-17 11:04:00
なるほどな……親切とお節介……ほんま、境界線が微妙。
受け取る側によってもちゃうやろし。

わたしはそれでよく、旦那から注意されるねん。
それでいっつもハッとする。
今だにどっちかわからん時もある。

興味の的、うんうん、その感じわかる!
うちも、大津の旧町で、興味の的やった。
夕飯何食べてんのん言うて、いきなりズカズカ家の中に入ってくるおばちゃんやらおっちゃんがいた!
まあ、どっから見てもけったいな(多分旦那のせい)家族やってんけど……。

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