ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「今こそ東京大空襲を問う-アメリカは戦争犯罪を謝罪すべきだ」by 守田敏也氏

2015年03月11日 | 日本とわたし
先日もこの、東京大空襲についての記事を書きました。
その記事に、友人のかわちゃんが、こんなコメントを書いてくれました。

『姫路市は二度の空襲を受け、うちの母は二度とも被災してます。
空襲で無くなった方を慰霊する「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」があります。
国会議員って靖国神社には参るけど、こっちにはほとんど来ません。』

http://www.taiheiyou-ireikyoukai.jp/ireitou.htm

わたしはこれを読んでハッとしました。
そして思い出したんです。
そうや、伯母も空襲の話をしてくれてた!と。
伯母が乗っていた電車に、機銃掃射の弾が打ち込まれ、2列のつり革につかまって立っていた伯母のすぐ後ろの男性が、撃たれて亡くなりました。
また、ある日などは、田んぼのあぜ道に身を伏せて、難を逃れたとも聞きました。

誰彼なしの殺人行為だった。
本当にそう思います。
これがまさしく戦争。
正義面して、国家のため、あなた方ためと取り繕って、研究と実験と生産に大金を使い、その総額を超えて余りある巨額な儲けを生み出す『戦争』という世にも醜い暴力を振るう。

わたしたちはもう、戦争など、まったくしたくないし、されたくないし、巻き込まれたくない。
戦争をするな!
戦争を企てる者を裁け!


今こそ東京大空襲を問う-アメリカは戦争犯罪を謝罪すべきだ(上)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/bb9bac0219b9462e38961db5bab20b56

今こそ東京大空襲を問う-アメリカは戦争犯罪を謝罪すべきだ(下)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/56c9fe1fc7b6c00eea0057508af98348
2015.3.10
                             
守田です。 

今日、3月10日は、東京大空襲から70年の日です。
この日未明、アメリカは、東京に住まう人々を空から襲い、10万人以上を焼き尽くしました。
今こそ東京大空襲を問い直し、アメリカに戦争犯罪への謝罪を求めたいと思います。

この間、放射線防護活動ばかりでなく、中東の問題や集団的自衛権に関する講演を、依頼されることが増えてきました。
僕が強調しているのは、大量破壊兵器などなかったのに一方的に攻め込んだ、イラク戦争の犯罪性を捉え返すことです。
さらに私たちは、イラク戦争だけでなく、これまでアメリカが繰り返してきたさまざま戦争犯罪に、目を向ける必要があります。
なぜそう思うかと言えば、アメリカが横暴を繰り返す理由のひとつに
わたしたち日本人が、広島・長崎原爆や、沖縄戦、東京・名古屋・大阪をはじめとした、都市空襲での民間人の大量殺戮への、まっとうな批判を怠ってきたことがある、と思うからです。

中国や朝鮮をはじめとするアジアの人々と対話するとき、わたしたちは、かつての侵略戦争のことを思わないわけにはいきません。
それを無視しては友好も成り立たないし、むしろ捉え返しの中でこそ、友情を深めることができます。
おなじことがアメリカ人との間にもあっていいし、もっとそんな機会を作らなくてはならないと思います。
私たちは、アメリカの人々に対して、「あなたたちは過去の民間人大量殺戮をどう考えますか」と問わなければいけないのです。
過去の戦争を捉え返すことは、何よりもその国の人々のためになります。
アメリカ人もまた、酷い殺人に何度も加担させられる苦しみを、背負ってきているからです。
ベトナム戦争でもイラク戦争でも、戦死者を退役後の自殺者が上回っています

この点を強調するのは、私の亡き母が、東京・深川の出身で、大空襲の中を逃げ惑い、機銃掃射などにさらされながら、辛くも生き延びた経験を持っているからでもあります。
母方の実家は生粋の江戸っ子の家で、親戚の皆が、映画『男はつらいよ』の登場人物のようなしゃべりかたをするのですが、
その人懐っこい東京庶民の頭上に、アメリカは容赦なく、大量の爆弾を降り注いだのでした。
陸軍中尉だった亡き父も、香川県善通寺に本体のいた陸軍船舶隊で、原爆の報を聞きました。
部隊は救援のために呉まで行き、偵察隊が広島市内に入って、二次被曝で亡くなりました
父は入市はしませんでしたが、放射能は呉まで届いていました

若き娘だった母は、いうまでもなく民間人でした。
父は軍人でしたが、すでに日本軍は、抵抗力のほとんどを奪われていました。
その無抵抗の人々を、無差別かつ組織的に大量殺戮したのが、アメリカの都市空襲であり、原爆投下だったのです。
アメリカは、沖縄では地上戦をしかけました。
軍人と民間人を区別なく攻撃し、島民の四分の一を死に至らしめました
にもかかわらずアメリカは、民間人大量殺戮の繰り返しを、ただの一度も、反省も謝罪もしていません
日本政府も、一度も批判をしていません
私の命は、東京大空襲と広島原爆の狭間から生み出されたものです。
だから私には、平和を守り創造していく責務があると思っています。
この観点から、70年目のこの日に、東京大空襲を問い直してみたいと思います。


3.10大空襲の実態

そもそも米軍による東京への空襲は、合計で106回も行われたのですが、最大のものが3月10日未明に行なわれた、いわゆる3.10大空襲でした。
空襲の実態は、自らも被災した早乙女勝元さんの『東京大空襲』(岩波新書)や、『東京が燃えた日』(岩波ジュニア新書)に、その断片が記録されています。
日本政府は、戦後、東京空襲をはじめ、都市被害の実態把握を推し進めようとはしませんでした
そのため公式記録があまりに少ないのですが、自ら空襲をうけた早乙女さんは、執念をもって聞き取り調査を行い、これらの書物を執筆しました。

3.10空襲の概要は、以下の如しです。
10日未明零時過ぎに、東京上空に、約300機のB29が飛来しました。
従来の高高度からの爆撃ではなく、まず数機が超低空で侵入
深川区(現在の江東区)、本所区(現在の墨田区)を皮切りに、爆弾を投下しはじめました。
使われたのは、M47ガソリン焼夷弾とM69高性能ナパーム性油脂焼夷弾
のちに、ベトナムなどで繰り返し使われた、悪名高い爆弾でした。
米軍はまず、M47ガソリン焼夷弾の投下によって、目標地点に予備火災を起こしました。
当日は、非常に激しい北西風が東京に吹き付けていましたが、米軍はこのことを事前に察知して、この日を選んで攻撃をしかけたのでした。


米軍は、激しく燃える初弾の投下地点に集結した消防車を、直接に攻撃し、防火体制を一蹴しました。
それから、東京の下町一帯に、焼夷弾で火の壁を作りはじめました。
群集を逃がさないためにでした。
下町一帯は、たちまち灼熱地獄と化しました。
その後、後続のB29が、1機あたり6トンも積載された、M67ナパーム焼夷弾の爆撃を開始
編隊は、巨大な火の壁に閉じ込められて逃げ惑う群集の上に、繰り返し超低空で襲いかかっては、雨あられと焼夷弾をばら撒いたのでした。
このM69は、アフガニスタン空襲で使われたクラスター爆弾(収束爆弾)と同じ構造の、クラスター焼夷弾でもありました。
「モロトフのパンかご」と命名され、空中で、48ないし72個の小型焼夷筒にわかれ、それぞれが落下して猛火を発生させました。

早乙女さんは、自分の直前を避難していた男性が、爆発音に上空を仰ぎ見た間際に、のど元に焼夷筒が突き刺さるのを見た、といいます。
米軍はそれだけでなく、ガソリンのような液体も直接に空から撒いたと、多くの避難民が証言しています。
銃座からの機銃掃射も行いました。
総計で2000トンの焼夷弾を落とし、わずか2時間半あまりの攻撃で、10万人以上を焼き尽くしたのでした。
猛火に耐え切れず、人々は水を求めて川に殺到しましたが、その川の上をも、火炎が巨大な火の玉となって覆いつくし、隅田川や江戸川は累々たる死骸で埋まりました。

私のは母はこのとき、烈火が大きな火の玉をつくり、機関車のように町の中を横に駆け抜けたことを見ています。
そんなものを目にした彼女が生き延びたのは、奇跡としかいいようがありません。
避難中に家族と離れ離れになった祖父は、翌朝、川に浮かんだ死骸をひっくり返しながら、離散した家族を探したそうです。
結局、家族は無事だったので見たのは他人の遺体ばかりでしたが、ホッとすると同時にハッとして、ナンマンダブと唱え続けたそうです。
この日の火災は、人類史上記録に残る、もっとも甚大な都市火災でもありました。
死者の数は、一晩では、広島、長崎における原爆投下で亡くなった方の数をも上回っていました。


空襲指揮官を賞賛した戦後ニッポン

東京大空襲という全くもって非人道的な都市空襲を考案し、指揮したのは、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ少将でした。
戦闘機パイロットから爆撃機に移り、やがて爆撃部隊の指揮官となった人物でした。
第二次世界大戦へのアメリカの参戦とともにイギリスに渡り、ドイツへの戦略空襲を指揮
多数のB17を使ったハンブルグ空襲で、6万人とも10万人ともいわれる死者を出した爆撃を実行しました。
対日戦参戦以降は、日本の諸都市空襲の指揮をとり、広島、長崎への原爆投下にも関与しました。

ルメイは、日本の防空体制の研究から、超低空での本土進入を考案し、
アメリカ空軍が行っていた、軍事基地や工場などを対象とした高高度からの「精密爆撃」方法を一新して、
住宅地への無差別徹底攻撃を編み出し、実行に移した
のでした。

自伝の中で彼は、本土空襲を、次のように肯定しています。
「私は、日本の民間人を殺したのではない。
日本の軍需工場を破壊していたのだ。
日本の都市の家屋は、すべてこれ軍需工場だった。
スズキ家がボルトを作れば、隣のコンドウ家はナットをつくり、向かいのタナカ家はワッシャをつくっていたという具合に。
これをやっつけて、なにが悪いことがあろう」


彼は、爆弾投下を指揮した地域には民間人はいなかった、と豪語したのでした。
日本の諸都市には、民間人は皆無だった、だから爆撃したのだ。何が悪いんだと。

その後もルメイは、米空軍に居残り続け、朝鮮戦争を経て、61年には参謀総長に就任し、キューバ危機に際しては、ケネディ大統領にキューバ空襲を強く進言しました。
アメリカ軍は、ソ連がまだ、キューバに核ミサイルを搬入していない、先に叩けば反撃も受けない、と判断していたのですが、
実際には、すでに多数の核ミサイルが設置済みであり、ルメイの進言をケネディが採用すれば、核戦争になった可能性がありました。


その後ルメイは、ベトナム戦争に参戦
B29を、「黒い殺人機」と呼ばれたB52にかえて、北爆を指揮しました。
この時彼は、「ベトナムを石器時代に引き戻してやる」という言葉を残しています。
ジェノサイドといわれたベトナムへの猛爆は、日本本土大空襲の経験の蓄積のもと、同じ司令官によって行なわれたのでした。
ルメイは1965年、北爆の最中に引退しましたが、式典ではなぜか、アメリカ軍の軍楽隊が、「君が代」を演奏しています。

そのルメイに対して、なんと日本政府(佐藤首相)は、1964年7月に、「勲一等旭日大綬章」を授けています
「日本国天皇裕仁」の名の下にです。
理由は、「航空自衛隊の育成に功労があった」からだそうです。
何十万の国民を無差別に殺戮した、残虐きわまる戦闘を指揮したルメイに、何の批判も行なわないばかりか、
感謝の大勲章を与えたのが、私たちの国
なのです。
「自虐的」という言葉は、使うことがあるとすれば、こういう卑屈な態度に対してなのではないでしょうか。
実はこの時、昭和天皇は、勲章授与を一度は拒否したそうです。
戦中に、日本が、「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と呼んだ相手だっだからです。
嫌がる昭和天皇を説得したのが、自民党の小泉純也防衛庁長官でした。
後の、小泉純一郎首相の父親です。

NHKが、70年代に作成した番組「東京大空襲」に、カーチス・ルメイが登場しています。
NHKの取材に対し、退役してプール付の豪邸に住まう彼は、「戦争のことはもう忘れたい」と言い、インタビューも映像も「NOだ」と、轟然と言い放ちました
「そのかわり勲章なら撮影してもよい」と指差した勲章陳列棚の真ん中に、日本から授与された勲章が、光を放っておかれていました
ルメイは、民間人の大量虐殺を、ついにただの一度も反省せぬまま、数々の勲章を自慢に余生を送ったのでした。
僕には、このように虐殺者を賞賛した日本の姿勢が、アメリカのその後の中東での横暴な振る舞いに繋がっていると思えてなりません。

なお、この映像がネットにアップされていたので、ご紹介しておきます。番組の一部です。
https://www.youtube.com/watch?v=ThvwC3XkgCo


(*まうみ注・9:55あたりから、その勲章の映像が観られます)


アメリカに法的裁きを

この東京大空襲を記録し、広くその惨劇を世の中に訴える目的で、2002年3月9日に、東京都江東区に、「東京大空襲戦災資料センター」がオープンしました。
4000人から1億円の寄付金を集めて建てられた同センターに、早乙女氏が館長として就任しました。
僕もその年の夏に訪れました。
資料センターは3階建て。
当時は1階に研究所と資料室、2階にミーティングルームとおのざわさんいちさんの空襲の絵、3階に大きなB29の模型とさまざまな展示品がありました。
おのざわさんの絵からは、すべてが焼き尽くされたがゆえに映像の残っていない、空襲の様子を垣間見ることが出来ました。

印象的だったのは、3階に展示されていた、M69ナパーム焼夷弾の残骸でした。
さび付いたおよそ高さ50センチ幅10センチぐらいの六角の筒でした。
これが、1機あたり5000発も、あの人懐っこい江戸っ子たちの頭上にばら撒かれたのだと思うと胸がつまりました。
同時に資料センターには、空襲に対する聞き取り調査や、アメリカの図書館の公文書の分析から得られた資料など、実にたくさんのものが蓄積されていることを知りました。
政府がサボタージュした空襲の被害調査が、東京のみならず、各地の空襲を記録する会等々の人々によって行われてきたのでした。
これをなんとかして、アメリカやひろく世界に知らしめたいと思いました。

東京大空襲や諸都市の空襲に対して、まだまだ知られていない事実もあることでしょう。
犠牲者の名もすべてが明らかになったわけではなく、各地で聞き取りなどの調査も継続中のようです。
こうした資料を積み重ね、戦争を後世に語り継ぐことは大事ですが、
より大事なのは、今からでも、70年前のアメリカの戦争犯罪を世界に向かって告発していくことだ、と僕は思っています。
真っ当な告発がなかったために、アメリカの中に今も、無差別大量虐殺肯定の思想が強烈に残っているからです。
これを正すことが、戦争を食い止める道です。
同時に、多くのアメリカ人をも、殺人の大罪から救うことにもなります。

アメリカで、2001年に、911事件が起こった際、キッシンジャー元国務長官は、
「これはパールハーバーだ。あのときパールハーバーを襲った国民と同じ思いを、敵に味あわせてやる」と発言しました。
「パールハーバーを襲った国民と同じ思い」、すなわち広島、長崎原爆であり、東京大空襲など諸都市の空襲であり、沖縄上陸戦です

アメリカは今なお、これらを正義と考え、アフガニスタンでもイラクでも空襲を繰り返し、秩序をめちゃくちゃにした上で、今また同じことを繰り返しています

この、非道の限りを尽くすアメリカの「正義」に待ったをかけ、
同時に、アメリカが行っている戦争に、自衛隊を積極的に参戦させようとしている、安倍政権の戦争政策を止めるためにも、
日本本土空襲におけるアメリカ軍の戦争犯罪を告発することが、とても重要です。
先にも述べましたが、このことは、多くのアメリカ人をも救うことにつながります。
アメリカの戦争犯罪が正されてこそ、新たなる殺りくに参加させられる人々をも減らし、やがては皆無にしていく道が開かれるからです。

私たちは、アメリカのためにも、アメリカが今日まで繰り返してきた戦争犯罪を告発し、止めさせていく必要があるのです。
東京大空襲から70年を迎えた今、不戦の心、すべての戦争を無くす決意を新たにしたいと思います。


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守田敏也 MORITA Toshiya
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6 コメント

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Unknown (かわちゃん)
2015-03-14 21:08:21
奇しくも大阪の最初の空襲は3月13日深夜から14日未明です。
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かわちゃんへ (まうみ)
2015-03-15 01:59:52
大阪空襲のこと、ちゃんと知らんと今まで生きてきたことが、なんかほんまに信じられへん。
なんでなんやろう…。
大阪でずっと暮らし続けてなかったからやろか…。
それとも、それでも知らん人もいはるんやろか…。
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Unknown (かわちゃん)
2015-03-15 07:13:58
姫路が空襲にあったのは僕が生まれる10年前。
たった10年前に姫路は焼け野原やったはずやのに子供の頃の僕は全く知らなんだなぁ。
それでも街には傷痍軍人が居て少しは戦争の残り香があったと思う。

空襲も父や母から聞いてるから知ってるけど知らん人の方が多いと思うわ。
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かわちゃんへ (まうみ)
2015-03-17 10:30:21
そうやねんな、生まれるほんの10年ぐらい前に起こったことやなんて、ほんまに信じられへん。
でも、わたしも町の通りで何人もの傷痍軍人さんを見たことがあるわ。
いったいどないしたらええのやろと、出会うたんびにまごまごした。

自分ももちろんのこと、知らんかった人がこれほど多いのは、やっぱり問題やな。現実に起こったことをちゃんと学んでへん。
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Unknown (トトロ)
2017-07-14 09:55:46
自分の親父も子供の時、川で遊んで居たら、アメリカの機銃掃射を受けた。脚の悪い友達を二人で引き摺り石で出来た橋の下に逃げ込み難を逃れた。
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トトロさんへ (まうみ)
2017-09-04 09:56:44
返事が大変遅れてしまい、申し訳ありませんでした!

そして、貴重なお父様の恐ろしい体験談を、教えてくださったことに感謝します。
どんなに恐ろしかったことかと、場面を想像しながら読ませていただきました。
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