『ふんばろう東日本支援プロジェクト』代表の西條剛央さんが、『構造構成主義から考える原発再稼働について』という意見を連続ツィートで述べられていました。
西條さんは震災後、『ふんばろう東日本支援プロジェクト』を立ち上げた方です。
プロフィール
1974年、宮城県仙台市生まれ。
早稲田大学大学院(MBA)専任講師(専門は、心理学と哲学)。
日本の心理学者、哲学者である。また、絵本作家としてもデビューしている。
「ふんばろう東日本支援プロジェクト」代表。
2011年3月に発生した、東北地方太平洋沖地震では、伯父を失う。
「構造構成主義」の理論を用い、ボランティア未経験ながら、
日本最大級のボランティア・プロジェクト「ふんばろう東日本支援プロジェクト」をを立ち上げる。
『原発については、あえて発言してこなかったけど、この再稼働決定は、おかしすぎると思う。
目が悪いのに、バスを運転していて、とりかえしのつかない大事故起こした人が、
「数年後にはよくなる予定なんで」と言ったから、運転再開を許可するのと同じぐらいバカなこと。
これでは、何でもありではないか。
それをやったらおしまいよ、ということをやった、という意味では、
世界中が反対したのに、生物兵器があるとかでっちあげて、イラク戦争に突入したときのアメリカと同じ。
少なくとも僕は、死ぬまで、ブッシュの悪口を書き続ける、と心に誓った。
そのときは、パワーで押し切っても、暴挙は、汚名として、歴史に刻まれる、ということを、為政者におもいしらせる必要がある。
暴挙を語り続けること。
それは、こうした“暴挙”に対して、市民が生み出せる、抑止力なのだと思う。
その意味で、野田さんの、このたびの、再稼働の決定については、僕は死ぬまで、度の過ぎた愚行として、悪口を書き続けよう、と心に決めた。
僕は、どこの党を応援しているとか、そういうのはまったくないのだけど、
イラク戦争に踏み切ったアメリカが、必ず失敗して、後悔することになると確信して、まさに、その通りになったように、
民主党は、この決定によって、必ず敗北して、後悔することになるだろう。
震災が教えてくれたのは、常に、想定外のことが起こる、ということです。
~さえなければ、といった、事後的な言明には、意味がないんですよ。
↓下記のツィートに対して
@fukushimanohito 電源さえ喪失しなきゃ今回だって事故に至らなかった。……電源確保の道筋が立ったら再稼働するべきでは。
『人を助けるすんごい仕組み』の、最後には書いたけど、賛否の信念対立に陥らないための、構造構成主義の考え方はこうです。
リスク管理や安全に関心がある人は、原発をすぐに止めるべき、という意見になる。
他方で、電気や経済を回すことに関心のある人は、原発は再稼働すべき、という意見になる。
こうした議論は、すぐに、賛否両論に二極化しがちだが、それ以前に、重きを置いている関心が、異なるのだ。
その関心が、暗黙裏に前提となっていて、どちらの方が良いとか悪いとかいう話になる。
では、どちらの関心が妥当なのか?
あるいは、双方の関心を、うまく満たすことはできないのか?
双方の関心を、包摂したものとして、
「安全に、電気を充足させることができれば、それにこしたことはない」という見解には、利権のある人以外は、同意するところだろう。
そして実際、この厳しい冬を、原発54基中、2基しか動いていないのに、余裕で越してしまった。
節電やオフピークで、十分夏も越せるだろう。
震災直後の節電は、本当にすごかった。
5割以上は、カットしていたのではないか。
原発なくても、電気は大丈夫、ということだ。
電気が足りない、というのはへ理屈だ、というのはもうわかっているけども、結局、利権のある人の生活を、どうするのか、ということなのだろう。
それで生きている人がいる以上、そうした関心を持つ人がいるのも、自然なことだ。
ではどうするか?
再稼働させなくとも、すぐに安全になるわけじゃないので、補助金は減額しても、打ち切らないようにする。
原発の隣に、火力発電所でも立てることで、送電線等のシステムはそのまま使って、電力を確保する。
そうすることで、利権を守りたい人の関心と、安全確保の関心の、双方を満たすことも可能になる。
このように、構造構成主義の考え方にのっとって、考えていけば、信念対立に陥ることなく、
原発の問題を、建設的に進めることができるのではないか、と思うわけです。
それはそれとして、さすがに、今回の再稼働は、その決定内容もさることながら、決定に至るまでのプロセスと手続きが、無茶苦茶すぎる。
安全対策を終えてからならまだしも、そのうち対策する予定です、という段階で、
国民の同意も得ずに、再稼働させるのでは、それこそ、なんでもアリになる。
僕は、単純な賛否の話をしているのではない。
個人の思いを語っているのでもない。
そうではなく、構造構成主義の観点から、異なる関心を調停した上で、話を建設的に進める方法について、書いている。
もちろん、いろいろな見解が、あってもよいと思うが、こうした理路に対して、単なる反対や、感情論をぶつけても、あまり意味はない。
ここで書いたような関心を、調停しながら進める方法よりも、より妥当な方法があれば、
それを提案しあうことで、物事を、先に押し進めることができる。
「方法の原理」に沿って、状況と目的を踏まえて、より有効な方法を、提案しあうこと。
また、物事の善し悪しを論じたり、価値判断をするときは、必ず、特定の関心を、前提としているということを自覚しつつ、関心の妥当性を、問いあうこと。
あるいは、双方の関心が、一定妥当な場合には、それらの関心を、うまく包摂するような問いを立てて、進めること。
そうした、理路に基づく民主主義こそが、ポスト311の時代に生きる僕らが、実現すべき「民主主義2.0」だと考えている』
以上が連続ツィートの内容です。
日本に存在する原発が、一日でも早く、廃炉に向かうプロセスに踏み出すことを祈ってやまないのに、
いったいどうしたら、そういうことが実現するのか、一年以上も毎日考えているのに、手段も方法も見つけられないままでいる。
その存在や意味がどんなに歪で正しくないものでも、一旦成立してしまった法律やシステムを、撤回や廃止に持ち込むことはとても難しい。
だからこそ、慎重になるのだし、一歩踏み込む勇気も削がれてしまう。
そして、西條さんが言われているように、そのいろいろな見解に対して、単なる反対や感情論が、雨あられのように降り注ぐ。
かく言うわたしも、この西條さんの意見に、すべて賛成しているわけではない。
けれども、それはそれ、これはこれ、彼の提案の中に、頷けることがあった。だから紹介した。
より妥当な方法、より有効な方法を提案し合うこと。
特定の関心を前提としているということを自覚しつつ、その関心の妥当性を問い合う。
そういうことが一個人としてできるほど、日本の大人の多くは、まだ成熟していない。
そう言う人がいる。
そうかもしれない。
だから、こんなことは理想論であって、実際的ではないと考える人がいる。
では、日本は、成熟していないから、このまま原発と一緒に、揺れる大地に埋もれていくしかないのか。
わたしはそうは思わない。
成熟していないのなら、成熟しようではないか。
ひとりの大人として、世の中に関心を持ち、それを言葉にしてきちんと表現し、自分と異なる関心を持つ人と、冷静な話し合いができる。
その練習を積もうじゃないか。
確かに、その実行は難しい。
かつて、意見の合わない人とは、口論になり易く、会話とは呼べない不毛な言い合いの最後に、「もうええわ」と捨て台詞を吐き、部屋から勝手に出ていくことが多かったわたしが、
とりあえず、どんな意見や関心の持ち主でも、相手が話したいだけ話せるように、じっと聞くことぐらいはできるようになり、
たとえ、折り合いのつけようがないまま話の終わりが来ても、「いい話し合いができたね」と相手に言える中年になった。
正直言って、かなり時間がかかったのだけど、大人だってまだまだ学ぶし、成長するのだ。
今回の場合、活断層が活発に動き始めているので、学びと成長に、わたしのようにダラダラと時間をかけるわけにはいかないだろう。
自然には感情がない。
自然は待たないし、加減もしない。
なるようにしかならない。
そんなものに、祈りや交渉は通じない。
わたし達は今、学びと成長を必要としている。
学びながら、成長しながら、日本という国を真っ向から見つめ、考えて欲しい。
あなた方が、望む望まないに関わらず、息をして食べて排出をして生きている場所なんだから。
西條さんは震災後、『ふんばろう東日本支援プロジェクト』を立ち上げた方です。
プロフィール
1974年、宮城県仙台市生まれ。
早稲田大学大学院(MBA)専任講師(専門は、心理学と哲学)。
日本の心理学者、哲学者である。また、絵本作家としてもデビューしている。
「ふんばろう東日本支援プロジェクト」代表。
2011年3月に発生した、東北地方太平洋沖地震では、伯父を失う。
「構造構成主義」の理論を用い、ボランティア未経験ながら、
日本最大級のボランティア・プロジェクト「ふんばろう東日本支援プロジェクト」をを立ち上げる。
『原発については、あえて発言してこなかったけど、この再稼働決定は、おかしすぎると思う。
目が悪いのに、バスを運転していて、とりかえしのつかない大事故起こした人が、
「数年後にはよくなる予定なんで」と言ったから、運転再開を許可するのと同じぐらいバカなこと。
これでは、何でもありではないか。
それをやったらおしまいよ、ということをやった、という意味では、
世界中が反対したのに、生物兵器があるとかでっちあげて、イラク戦争に突入したときのアメリカと同じ。
少なくとも僕は、死ぬまで、ブッシュの悪口を書き続ける、と心に誓った。
そのときは、パワーで押し切っても、暴挙は、汚名として、歴史に刻まれる、ということを、為政者におもいしらせる必要がある。
暴挙を語り続けること。
それは、こうした“暴挙”に対して、市民が生み出せる、抑止力なのだと思う。
その意味で、野田さんの、このたびの、再稼働の決定については、僕は死ぬまで、度の過ぎた愚行として、悪口を書き続けよう、と心に決めた。
僕は、どこの党を応援しているとか、そういうのはまったくないのだけど、
イラク戦争に踏み切ったアメリカが、必ず失敗して、後悔することになると確信して、まさに、その通りになったように、
民主党は、この決定によって、必ず敗北して、後悔することになるだろう。
震災が教えてくれたのは、常に、想定外のことが起こる、ということです。
~さえなければ、といった、事後的な言明には、意味がないんですよ。
↓下記のツィートに対して
@fukushimanohito 電源さえ喪失しなきゃ今回だって事故に至らなかった。……電源確保の道筋が立ったら再稼働するべきでは。
『人を助けるすんごい仕組み』の、最後には書いたけど、賛否の信念対立に陥らないための、構造構成主義の考え方はこうです。
リスク管理や安全に関心がある人は、原発をすぐに止めるべき、という意見になる。
他方で、電気や経済を回すことに関心のある人は、原発は再稼働すべき、という意見になる。
こうした議論は、すぐに、賛否両論に二極化しがちだが、それ以前に、重きを置いている関心が、異なるのだ。
その関心が、暗黙裏に前提となっていて、どちらの方が良いとか悪いとかいう話になる。
では、どちらの関心が妥当なのか?
あるいは、双方の関心を、うまく満たすことはできないのか?
双方の関心を、包摂したものとして、
「安全に、電気を充足させることができれば、それにこしたことはない」という見解には、利権のある人以外は、同意するところだろう。
そして実際、この厳しい冬を、原発54基中、2基しか動いていないのに、余裕で越してしまった。
節電やオフピークで、十分夏も越せるだろう。
震災直後の節電は、本当にすごかった。
5割以上は、カットしていたのではないか。
原発なくても、電気は大丈夫、ということだ。
電気が足りない、というのはへ理屈だ、というのはもうわかっているけども、結局、利権のある人の生活を、どうするのか、ということなのだろう。
それで生きている人がいる以上、そうした関心を持つ人がいるのも、自然なことだ。
ではどうするか?
再稼働させなくとも、すぐに安全になるわけじゃないので、補助金は減額しても、打ち切らないようにする。
原発の隣に、火力発電所でも立てることで、送電線等のシステムはそのまま使って、電力を確保する。
そうすることで、利権を守りたい人の関心と、安全確保の関心の、双方を満たすことも可能になる。
このように、構造構成主義の考え方にのっとって、考えていけば、信念対立に陥ることなく、
原発の問題を、建設的に進めることができるのではないか、と思うわけです。
それはそれとして、さすがに、今回の再稼働は、その決定内容もさることながら、決定に至るまでのプロセスと手続きが、無茶苦茶すぎる。
安全対策を終えてからならまだしも、そのうち対策する予定です、という段階で、
国民の同意も得ずに、再稼働させるのでは、それこそ、なんでもアリになる。
僕は、単純な賛否の話をしているのではない。
個人の思いを語っているのでもない。
そうではなく、構造構成主義の観点から、異なる関心を調停した上で、話を建設的に進める方法について、書いている。
もちろん、いろいろな見解が、あってもよいと思うが、こうした理路に対して、単なる反対や、感情論をぶつけても、あまり意味はない。
ここで書いたような関心を、調停しながら進める方法よりも、より妥当な方法があれば、
それを提案しあうことで、物事を、先に押し進めることができる。
「方法の原理」に沿って、状況と目的を踏まえて、より有効な方法を、提案しあうこと。
また、物事の善し悪しを論じたり、価値判断をするときは、必ず、特定の関心を、前提としているということを自覚しつつ、関心の妥当性を、問いあうこと。
あるいは、双方の関心が、一定妥当な場合には、それらの関心を、うまく包摂するような問いを立てて、進めること。
そうした、理路に基づく民主主義こそが、ポスト311の時代に生きる僕らが、実現すべき「民主主義2.0」だと考えている』
以上が連続ツィートの内容です。
日本に存在する原発が、一日でも早く、廃炉に向かうプロセスに踏み出すことを祈ってやまないのに、
いったいどうしたら、そういうことが実現するのか、一年以上も毎日考えているのに、手段も方法も見つけられないままでいる。
その存在や意味がどんなに歪で正しくないものでも、一旦成立してしまった法律やシステムを、撤回や廃止に持ち込むことはとても難しい。
だからこそ、慎重になるのだし、一歩踏み込む勇気も削がれてしまう。
そして、西條さんが言われているように、そのいろいろな見解に対して、単なる反対や感情論が、雨あられのように降り注ぐ。
かく言うわたしも、この西條さんの意見に、すべて賛成しているわけではない。
けれども、それはそれ、これはこれ、彼の提案の中に、頷けることがあった。だから紹介した。
より妥当な方法、より有効な方法を提案し合うこと。
特定の関心を前提としているということを自覚しつつ、その関心の妥当性を問い合う。
そういうことが一個人としてできるほど、日本の大人の多くは、まだ成熟していない。
そう言う人がいる。
そうかもしれない。
だから、こんなことは理想論であって、実際的ではないと考える人がいる。
では、日本は、成熟していないから、このまま原発と一緒に、揺れる大地に埋もれていくしかないのか。
わたしはそうは思わない。
成熟していないのなら、成熟しようではないか。
ひとりの大人として、世の中に関心を持ち、それを言葉にしてきちんと表現し、自分と異なる関心を持つ人と、冷静な話し合いができる。
その練習を積もうじゃないか。
確かに、その実行は難しい。
かつて、意見の合わない人とは、口論になり易く、会話とは呼べない不毛な言い合いの最後に、「もうええわ」と捨て台詞を吐き、部屋から勝手に出ていくことが多かったわたしが、
とりあえず、どんな意見や関心の持ち主でも、相手が話したいだけ話せるように、じっと聞くことぐらいはできるようになり、
たとえ、折り合いのつけようがないまま話の終わりが来ても、「いい話し合いができたね」と相手に言える中年になった。
正直言って、かなり時間がかかったのだけど、大人だってまだまだ学ぶし、成長するのだ。
今回の場合、活断層が活発に動き始めているので、学びと成長に、わたしのようにダラダラと時間をかけるわけにはいかないだろう。
自然には感情がない。
自然は待たないし、加減もしない。
なるようにしかならない。
そんなものに、祈りや交渉は通じない。
わたし達は今、学びと成長を必要としている。
学びながら、成長しながら、日本という国を真っ向から見つめ、考えて欲しい。
あなた方が、望む望まないに関わらず、息をして食べて排出をして生きている場所なんだから。