ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「戦後、日本の機軸は平和憲法だった。この国柄でいいじゃねえか」半藤一利さん

2015年01月03日 | 日本とわたし
今朝、こんな新聞の写真が目に留まりました。
東京新聞の朝刊です。


これがやりたいばかりに、意味不明の解散をし、年末選挙を強行したのですから、当たり前といえば当たり前なのですが、
どうしてもやはり、皮膚がぞわぞわするような危機感を感じます。

そこで以前読ませていただいた、半藤さんのインタビューを思い出しました。
半藤さんの言葉を載せてくださったのは、いつもすばらしい記事が満載の『マガジン9』
この『マガジン9』のスタッフの方々の活動は、読者からのカンパによって支えられています。
こちらでも何度か、カンパのご紹介をさせてもらいましたが、もう一度、いや、何度でも、このような世の中だからこそ、市民のわたしたちで支えていかなければと感じています。
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思い起こせばわたしたちの年代は、歴史をきちんと学ぶことができずに大人になったような気がします。
日本史においても、テストの点のために年代を記憶したことばかり覚えていて、特に現代史、さらにいえば日本が参戦した戦争については、全く覚えていません。
それはわたしが興味が無かったからだったのでしょうか?
世界大戦といえば、原爆のことしか記憶にありません。
そのことで、今から20年ほど前に、台湾人の友人に激しく叱責されたことがありました。
あなたはいったい、何を学んできたのかと。


半藤さんは昭和史に詳しい作家です。
その彼が、憲法の成り立ちについて語っておられました。

一昨年の5月に、このブログに書いた『憲法第九条『戦争放棄』は、世界史の扉を開くすばらしき狂人、幣原首相によって生まれたもの!』の記事でも紹介させていただいた、幣原首相について語っておられる部分がありましたので、引用させていただきます。

↓以下、引用、抜粋はじめ

平和憲法という『国柄』を、もっと大切にしなくてはならない


はんどうかずとし 作家・昭和史研究家
1930年東京向島生まれ。
東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。
著書に『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』(以上文藝春秋)、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇1945-1989』(以上平凡社)、『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)など多数。


日本国憲法成立のこぼれ話

憲法は日本とアメリカの「合作」で生まれた


憲法の草案は複数存在した。

・松本蒸治案=政府案

・GHQ案

・市民案(鈴木安蔵や馬場恒吾、森戸辰男ら在野の学者やジャーナリストたち7人が作った草案)

 これは、GHQ民政局(実際の日本国憲法草案作りに携わった部局)あたりの人たちに大きな影響を与えた。

・京都大学の佐々木惣一元教授が作ったと言われる草案
 これはまず近衛文麿国務大臣に渡り、それを読んだ天皇が、参考にしたらどうかと幣原喜重郎首相に渡し、それを幣原さんは、松本烝治国務大臣(憲法問題調査委員会委員長)に渡します。
 ところが松本さんは、なにしろ帝国憲法でいいじゃないかという人だから、なんだこんなもん、って捨てちゃったんですね。

・新聞で発表された共産党案の他、二つ三つぐらい

幣原首相は、幣原穏健外交と言われるくらいの国際協調派ですし、昭和2年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)のときの全権大使だったわけだから、
『戦争放棄』という言葉をマッカーサーとの会合の場で言ったのは、不戦の意味で言ったと思いますね。
9条の第1項は、不戦条約とほぼ同文ですからね。



戦争はもう絶対にしたくないという日本人の感情と、理想主義に燃えたGHQの若いアメリカ人との、奇跡の合作だった」

そしてその上に、

戦争の悲惨さや残酷さをよく分かっているマッカーサーと天皇の合作なんです。

戦後、日本の機軸は平和憲法だった

↑以上、引用、抜粋おわり


「戦争はもう絶対にしたくないという日本人の感情」は、このような悲惨で愚劣な史実を生き長らえた人たちの心の中に、強く芽生えたのでした。

戦争当時の国家、そして軍隊という組織が、どんなに愚かで狂っていたか、これも半藤さんの言葉をお借りして、ここに記させていただきます。

↓以下、転載はじめ

戦前の日本は、近代国家の体をなしていなかった
「戦没者230万人」という数字は、そのことを端的に示していると思います。
国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。
いつ、どこで、どのように戦没したのか。
確実に把握していなければならない。
ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。
厚生省(当時)は戦後、戦域別で、戦没者数を算出しましたが、そこまで。
死因までは分類できていない。
230万人というざっくりとした数字も、私は過小評価ではないかと疑っていますよ。


詳細が分からないということは、道義的にはもちろん、軍事的にも、非常に問題があります
前線に送り込んだ部隊のうち、戦闘に耐えうる兵士は何人なのか。
あるいは戦傷、戦病者は何人いるのか。
正確な戦力を測れずして、作戦を立てることはできません。
そもそも、前線に送らなければならない武器弾薬、糧食、医薬品などを算出するためにも、絶対に必要です。
それができていなかったのではないか。


兵站(へいたん)を軽視した、あるいは無視したのが日本軍でした。
「輜重(しちょう)が兵隊ならば チョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ言があります。
輜重とは、兵站部門のことです。
そもそも、陸軍参謀本部や海軍軍令部のエリート将校にとって、兵卒はしょせん、1銭5厘(当時のはがき代)で集められる存在
作戦時には、3日間分のコメ6合など25キロの荷物を背負わせ、前線へとおっぽり出した。
食糧がなくなれば、現地調達しろと。
降伏はありえないのだから、負け戦になれば玉砕しかありえません。
敗残兵の消息など気にもとめなかった。


これに比べ、米国の手厚さは語るまでもないでしょう。
あるエピソードがあります。
ブッシュ元大統領(第41代ジョージ・H・W・ブッシュ、第43代大統領の父)は、戦時中に、小笠原諸島の父島沖で撃墜されました。
元大統領は救助されましたが、この時に、捕虜になった同僚がいました。
戦後、米軍の調査団が父島を訪れ、彼が埋葬された墓地を掘り返したんです。
すると、遺骨の首は切断されており、日本軍に処刑されたことが明らかになった。
一兵士に対するまで、その死をないがしろにしない。
国家としての責任を果たしているんですね。

日本軍は、自己の実力を顧みず、攻勢の限界線をはるかに越えました
餓死者が続出するのは当然のことです。
私は、戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。
このような軍隊は、古今東西にありません
人間を、まるで将棋の駒のように扱っている

海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍将兵は18万人にも上る、と見積もっています。
これも、補給軽視、つまりは人命軽視の表れです。
開明的とされている海軍ですが、陸軍とそんなに違いはありません。
レイテ沖海戦で、小沢艦隊はおとりになりました。
基幹の空母4隻に搭載した航空機は、定数をはるかに下回る100機余りしかなかったのに、整備員は必要もないのに定数を乗せた。
帳簿上の員数合わせだけを気にする官僚主義、としかいいようがない。

軍の指導者たちは、無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやりました
特攻作戦も同様です。
特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した。
「日本的美学」などと言われるが、とんでもない。
立派な作戦であるような顔をして、机の上で、「今日は何機出撃」などと記していた参謀らを、許すべからずです。

集団的自衛権の行使について、容認する声があります。
何を言ってんだ、と思いますよ。
戦後の日本は平和だった。
その権利を行使しなかったため、何か問題があったのでしょうか。

太平洋戦争を巡り、これまで各国の将軍、提督たちを、数多くインタビューしてきました。
みんな、偉い人は生きているんですよ。
戦争とはそういうものです。
「戦没者230万人」の犠牲のうえに、日本は成り立っています
その数が示していることは何か、考えてみるべきじゃないでしょうか。

↑以上、転載おわり
http://mainichi.jp/feature/news/20140815mog00m040002000c.html