杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

清澤の大公孫樹~尾崎伊兵衛伝を読んで

2016-09-14 10:21:36 | 歴史

 静岡の近代偉人伝のつづきです。

 今回紹介するのは尾崎伊兵衛さん(4代目・1847~1929)。静岡市商業会議所会頭や静岡三十五銀行(現・静岡銀行)頭取を務め、静岡茶業組合の設立者として茶業の発展に尽くした功労者です。尾崎家三代の偉業を記した郷土史家齋藤幸男氏の著書『清澤の大公孫樹~尾崎伊兵衛伝』をつまみ読みしながら、主に近代静岡茶の歴史を振り返ってみたいと思います。

 

 県指定天然記念物「黒俣の大イチョウ」として今も親しまれる清澤の大公孫樹。尾崎家の祖はここ安倍郡清沢村黒俣小沢戸の豪農助兵衛の弟・伊兵衛。文化元年(1804)に分家して駿府府中の安西に居を構え、出身地名にちなんで茶商「小沢戸屋」を興しました。3代目尾崎伊兵衛(1820~1890)は駿府土太夫町の佐野屋忠左衛門の二男で、2代目伊兵衛の長女むらの婿となり、伊兵衛を襲名しました。

 

 この3代目伊兵衛の時代に、前回記事で触れた萩原四郎兵衛(鶴夫)が中心となって再興した駿府国茶問屋に加わりました。茶問屋側は、山元(生産者)で茶の直売をされると営業妨害になるため、山元直売禁止願を奉行所に提出。一方、黒俣の本家助兵衛は安倍郡足久保村外62カ村の生産者代表として問屋側と真っ向から対立し、訴訟を起こす。入り婿である伊兵衛は難しい立場にあったと思われますが、茶問屋小沢戸屋の利を優先し、禁止願に名を連ねたのでした。

 安政5年(1858)、日米修好通商条約の調印によって横浜港が開港されると、駿河国茶問屋は外国商館への直売をもくろみ、横浜に出店します。伊兵衛は、のちに日本を代表する茶貿易商となった岡野屋利兵衛に横浜での直売を託したものの、短期間で終わり、地元で製茶に専念し、より高品質な茶を馴染みの直売店へ供給するほうを優先します。似たような「選択」が、今、日本酒の世界で見られる現象ゆえ、とても興味深いですね。

 横浜に出店した茶問屋は、和紙、竹細工、漆器といった駿府の特産品も店に並べ、外国の貿易商にアピールしました。安倍川や藁科川流域はミツマタやコウゾ等、和紙の原料となる植物の産地で、鎌倉時代から良紙ブランド「駿河半紙」として浸透していたんですね。伊兵衛も黒俣特産の和田半紙を茶に添えて横浜に送っています。

 

 4代目尾崎伊兵衛は、3代目の二男に生まれ、幼いころから父の茶業を手伝い、横浜にも徒歩で再三往来し、海外事情をよく学びます。根っからの明るい元気者で、茶問屋仲間から「善吉(伊兵衛の幼名)がいるといないとでは気分が違うな」と慕われたそう。21歳の時に明治維新を迎えます。

 製茶の質を磨くという父の信念を継いだ伊兵衛のもと、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品された尾崎家の茶は花紋褒章を、明治14年の第2回では有効三等賞、明治23年の第3回では有効二等賞を授与されました。

 静岡の製茶技術は江戸後期の天保~弘化年間、志太郡伊久美村が宇治の茶師を、榛原郡上川根が信楽の茶師を招き、茶揉みと乾燥のテクニックを学びました。安倍郡清沢村では慶応2年(1866)に滋賀の朝富から茶師鉄五郎を招いて製茶講習会を開催。明治初年には小笠郡尾美山に達人前島平九郎が招かれ、彼の技術を習得した赤堀玉吉が駿府の小鹿、聖一色、内牧等へ指導に出向くなどして静岡茶の品質向上に努めました。

 伊兵衛は明治7年(1874)に小鹿村の出島団四郎の協力を得て「宇治茶伝習所」を設立し、ここで学んだ養成員を千葉と鹿児島へ派遣し、日本茶全体の品質向上と国内販路拡充に努めます。また明治10年には中国人茶師を招いて「紅茶伝習所」を設立。明治12年には安西の尾崎家の敷地内にも紅茶伝習所を作って自ら紅茶会社を設立します。これも、茶生産者の収益を少しでも上げる方策でした。

 問屋業で儲けるばかりではなく、品質を磨く努力を惜しまず、茶業界全体の共存共栄を見据えていたという点に、この人物の高潔さを感じますね。

 

 さて、明治4~5年にかけて茶の輸出量は急激に増加します。当時、静岡の茶は牛車や荷車で清水港に運ばれ、昼夜問わず和船で横浜に届けられ、外国船に積み替えられていました。しかし和船では急増する需要がまかなえず、他産地に商機を奪われるリスクが生じたため、明治8年(1875)、伊兵衛は廻船問屋の天野久右衛門(清水)、石橋孝助(横浜)等と共同出資で汽船会社「静隆社」を設立。イギリスから150トンの蒸気船を購入し「清水丸」と命名し、清水―横浜間を約18時間で航行させ、荷主を喜ばせました。明治15年の静隆社汽船搭載貨物一覧を見ると、清水から横浜へは茶、和紙、塗物が圧倒的に多く、横浜から清水へは石油や砂糖など。旅客も扱い、清水横浜間は大人一人1円35銭(現在の価格で約5万円)だったそうです。

 明治22年(1889)に東海道鉄道本線が開通すると、船便に頼っていた茶荷物は鉄道便に切り替えられましたが、伊兵衛たち茶商、そして天野久右衛門や鈴木与平ら清水の廻船業者は、輸出茶を横浜を通さず、清水港から直接海外に輸出できるよう熱心に働きかけ、明治32年(1899)、清水港は開港外貿易港の指定を得ます。明治41年には横浜港を、42年には四日市を抜いて日本一の茶貿易港になりました。

 伊兵衛はその間、小沢戸屋を「合名尾崎国産会社」に組織改変。黒俣の本家助兵衛らも加わり、黒俣特産の和田半紙や干し椎茸も扱うようになりました。明治18年(1885)にはアメリカ向け直輸出茶を専門に扱う静岡製茶直輸出会社を新設(のちに静岡県製茶直輸出会社に改変)。明治21年には合資会社富士商会を設立し、横浜で扱う貿易茶全般を扱いました。

 前年の明治17年には静岡、安倍、有度の一町二郡で「静岡茶業組合」が結成され、初代組合長に推されて就任。同年に発足した静岡県茶業組合会議所の常議員を明治23年から14年間務め、明治37年(1904)には会議所議長に就任します。

 

 明治22年、それまで紺屋町の代官屋敷で暮らしていた徳川慶喜が西草深に移ると、旧代官屋敷の土地と家屋を徳川家から譲渡してもらうため、保徳合資会社という組織が創られました。伊兵衛はこの代表も務め、旧代官屋敷跡を会社でいったん保有管理し、伊兵衛の妻かつの生家だった辻治左衛門が借り受けて割烹料理店を始めました。これが現在の浮月楼。治左衛門には後継者がいなかったため、伊兵衛の娘はなが茶町の北村彦五郎を迎えて辻家を継ぎます。明治25年の大火で全焼してしまいますが、呉服町の文明堂杉本徹道の協力で再建。保徳合資会社は杉本徹道に浮月の運営をまかせ、徹道の子宗三に売り渡して会社は解散したということです。

 

 伊兵衛は明治22年に初めて行われた静岡市会議員選挙に立候補し、当選します。議員活動のかたわら、静岡生糸会社(明治26年)の特別発起人、株式会社静岡米穀株式取引所(同年)の理事長、日本製茶株式会社(明治27年)の取締役、静岡電灯会社(明治30年)の取締役、東陽製茶貿易株式会社(明治31年)の発起人、日本楽器製造会社(明治30年)の監査役など数多くの役職を歴任しました。

 明治30年には普通銀行として発足した株式会社三十五銀行の監査役に迎えられました。もとは国立三十五銀行だったものが「国立」の看板を外され、折からの金融恐慌で厳しい経営が続いたため、伊兵衛は県知事の亀井栄三郎から頭取を託されます。

 頭取就任直後に日露戦争が始まり、長男元次郎を満州の戦場に送るなど、自らも戦地に赴く気概で取り組んだ銀行経営でしたが、艱難辛苦の末に立て直しに成功。三十五銀行はその後、旧国立三十五銀行出身の小林年保が野崎銀行(野崎彦左衛門ら静岡市民有志が設立した民間銀行)と合併して作った静岡銀行と統合し、「静岡三十五銀行」になり、昭和18年に遠州銀行と合併して現在の「静岡銀行」になります。

 

 伊兵衛は明治38年(1905)、静岡商業会議所の第4代会頭にも選ばれ、昭和4年(1929)まで24年間勤め上げました。

 

 こうしてみると、明治大正の激動期に静岡の政治経済を支え、静岡茶を日本代表の輸出品に育て上げようと努力し続けた生涯ですね。ふつうなら家業の継続に手一杯のところ、同業者、取引先の生産者や貿易業者、地域経済全般に目を配り、手を差し伸べ、組織の役員や調整役も厭わず引き受ける。これだけ懐の深い人物なら、自分の会社を大きくして大企業の大社長になることも、政治の道に進んで大臣になることも出来たでしょう。でも彼はひたすら、地域のために働いた。

 静岡はお人よしが多く、有能な政治家やカリスマ経営者は輩出できないと揶揄されることもありますが、今、静岡がそこそこ豊かで暮らしやすいと思えるのは、地域のために地道に働いたこういう先人たちのおかげ。私自身も身の丈に合ったフィールドで、自分を育ててくれたふるさと静岡のために働きたい・・・そんなふうにしみじみ思います。 

 

 



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2 コメント

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子孫です。 (尾崎健悟)
2016-09-29 17:05:59
はじめまして。
尾崎伊兵衛の曾々孫です。ブログで取り上げて頂き有難う御座います。静岡県を離れ、現在は兵庫県西宮市に暮らしていますが、大人になってから先祖の事を研究しています。尾崎家は、伊兵衛の長男元次郎(国会議員、静岡市長)、元次郎の次男忠次(日本ボーイスカウトでは有名)が出ましたが、今は全然駄目です。

同じ曽々祖父である野崎彦左衛門も静岡市では力を持っていた方ですが、あまりネット上に情報がありません。ちなみに独自の調査で野崎彦左衛門の息子は綾部九鬼藩の最後の藩主九鬼隆備の娘を妻に娶っているので、現熊野本宮大社宮司家の九鬼家が親戚になります。また野崎彦左衛門の弟である野崎衛七の曾孫が歌手で作曲家の平尾昌晃です。

ちょっと嬉しくてコメントしてしまいました。

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ありがとうございます (鈴木真弓)
2016-10-16 09:50:06
尾崎家のかたにお目に留めていただき、大変光栄です。現在、清水港の歴史について執筆中で、静岡茶史の文献を読み漁っていて尾崎伊兵衛氏にたどり着きました。野崎彦左衛門のこともぜひ調べてみたいと思います!
まちづくりというと、とかく目先のことばかりですが、このような素晴らしい先達の業績を学ぶ機会を市民が自主的に作らねばと痛感します。これをご縁に今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
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