杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

アカデミズムのアマチュアリズム

2017-04-17 10:02:13 | 朝鮮通信使

 私は未だに遠足の日の子どもみたいに、仕事のない日に限って早起きで、日曜は早朝からNHKラジオ第一の『マイあさラジオ』を聴くのが習慣になっています。日曜日の放送では〈サエキけんぞうの素晴らしき80'S(80年代音楽の解説)〉、〈著者からの手紙(話題本の紹介)〉が楽しみで、4月16日の放送では勢古浩爾氏の『ウソつきの国』が紹介されていました。『まれに見るバカ』は面白かったなあーと懐かしく思い返し、勢古さんの本を探しに行き、図書館で見つけたのが『アマチュア論。』。2007年ミシマ社発行の本です。文字が逆さになってますがこういう装丁です。

 

 

 2007年といえば、徳川家康が駿府城に入城した1607年から400年目、そして家康が朝鮮通信使を最初に招聘した年ということで、映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作にかかわったことは当ブログでも再三ご紹介してきました。

 思えば、私が朝鮮通信使の勉強を始めたのはこの年から。専門知識があって脚本を書いたのではなく、脚本を書いた後からまともに勉強し始めたのです。日朝関係史という難しいテーマにもかかわらず製作期間が3~4か月しかないというトンデモ条件に、プロの脚本家や構成作家が匙を投げ、資料リサーチャーとして臨時雇いされていた私が書く羽目になったわけで、朝鮮通信使研究家からみれば憤懣遣る方ない話だと思いますが、監修役の仲尾宏先生、金両基先生、北村欣哉先生は辛抱強く指導・監修してくださいました。

 トンデモ条件の超ブラック業務の見返りとして、私は先生方との出合いを実りあるものにしようと本格的に勉強を始め、レポート提出気分でブログに書き続けました。幸いなことに、地方で朝鮮通信使について地道に研究されている郷土史家の先生方に目を留めていただき、「スズキさんのブログは励みになります」と嬉しいお声かけをいただくことも。私のような素人の付け焼刃でも役に立つとは、朝鮮通信使研究はまだまだ発展途上のジャンルなんだと痛感し、この分野が一人でも多くの人の目にとまって関心を持つ機会になれば、との思いで書き続けています。  

 

 さて、2007年には朝鮮通信使研究の第一人者で、通信使史料の世界記録遺産登録を目指す日本側学術委員会会長を務める仲尾宏先生(京都造形芸術大学客員教授)が、岩波新書から『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』を上梓されました。新書版だけにとてもわかりやすく、スラスラ読める内容です。映画完成は5月、仲尾先生の本は9月の発行でしたから、先生の本がもう少し早く出版されていれば脚本を書くのもずいぶん楽だっただろうと臍を噛む思いをしたものでした。

 同書のあとがきに、「通信使一行の遺した足跡や交流の実像が、日本各地にはまだまだ埋もれていることはまちがいない。その理由の一端は明治維新以後の日本の近代では朝鮮と朝鮮人に対する偏見と蔑視感情が高まり、学校教育においてもすぐ前の時代にあった朝鮮との豊かな交流のことが意図的にかき消されてしまったからである」とあります。朝鮮通信使研究になかなか注目が集まらないのは、歴史教科書にまともに取り上げられない、いや明治以降は意図的に取り上げてこなかったせいだろうと、私自身そう思い込んでいました。

 ところが10年経た今年の3月11日、福山市鞆の浦で開催された朝鮮通信使関係地方史研究部会(仲尾宏会長)で、北村欣哉先生が「明治以降~戦前の小学校国定教科書すべてに朝鮮通信使の記述は載っている」と発表。4月13日の静岡県朝鮮通信使研究会例会でも詳細に解説されました。要約するとー

 

◆明治11年(1878)『新編日本略史』・・・まだ教科書が自由出版・自由選択だった時代でしたが、「家康、対馬守宗義智ニ請テ曰ク・・・」と家康が朝鮮王朝との国交回復に乗り出し、江戸後期の文化8年まで計12回の通信使来聘を時系列に紹介。とくに正徳元年は新井白石の対通信使接遇と詩の交換について詳しく記述。

◆明治20年(1887)『日本小史』・・・初めての文部省検定済教科用書。「我ト汝ト、固ヨリ宿怨無シ、若シ好ミヲ修メムトセバ、コレヲ許スベシト、朝鮮喜ビテ、使臣ヲ送リ来聘ス、是ニ於テ、両国ノ事平ギ・・・」と紹介。ちょっと上から目線ではありますが家康が国交回復を望んで和平を実現したとあります。

◆明治36年(1903)~昭和18年(1943)の国定教科書にはすべて掲載。明治36年版では通信使行列図の挿絵入りで詳細に記述。挿絵の先頭には「巡視」「令」と書かれた旗が。これは王が属国を視察して廻るという意味があるため、明治43年(1911)版ではこれをカット。

◆大正10年(1921)版では「はじめ家康朝鮮と交を修めてより、将軍の代がはり毎に、朝鮮より使を我が国に送る定めなりき。然るに幕府の之をもてなすこと、勅使よりも厚き様なれば、白石は之が為にわが国の體面を損ずるを論じ、将軍にすすめて其のもてなし方を改めしめたり」。通信使の接待が我が国の天皇の勅使よりも盛大なのは問題だとして新井白石が接遇を簡素化したことを紹介しています。

◆昭和18年(1943)版ではさらに詳細に記述。ただし挿絵はカット。この年から「鎖国」という言葉が使われるようになりました。

◆昭和21年(1946)『くにのあゆみ』・・・戦後初めての小学生向け教科書では記述なし。

◆昭和27年(1952)山川出版の高校教科書には「1609年には日鮮修好条約が成立し、朝鮮の使の来朝となった」と表記。昭和35年(1960)版から挿絵入りで文字数も激増。

◆昭和47年(1972)東京書籍の中学教科書に42文字で登場。昭和62年には挿絵が加わりました。

◆昭和52年(1986)大阪書籍の小学生向け教科書に「朝鮮との国交もひらかれました」と紹介。東京書籍版には琉球王朝は登場するも朝鮮通信使の記述はなし。

◆平成以降は小学生、中学生、高校生向け教科書に記述が増えています。

 

 

 北村先生はもともと高校で日本史の教鞭をとっておられたので、朝鮮通信使の研究は、学校教科書でどのように書かれたかを調べることからスタートされたそうです。2001年2月、清水の興津・清見寺に、日本の朝鮮通信使研究の先駆者である辛基秀氏をお招きし、高校の同僚の中川浩一先生を交えて3人で興津駅前の居酒屋で酒を酌み交わしたとき、辛氏が「学校教科書には朝鮮通信使のことは一切載っていない」、中川先生は「いや自分が使っていた教科書には載っていた」と大激論になったとか。

 

 辛氏は著書『朝鮮通信使』(1999)でも「明治の教育は、この善隣友好の時代を黙殺し無視し、日本帝国主義による朝鮮支配を正当化するため、秀吉の朝鮮侵略は日本の国威を海外に宣揚したものであると強化し、秀吉を国民的英雄として美化し、虚偽の歴史を教えることを目的とした」と断言するほど戦前の教科書を批判し、金両基先生も「朝鮮王朝は江戸幕府が国書を交わして交流した唯一の国であるという歴史的事実が、長い間閉じ込められていた。かくしきれないほどのこの大きな歴史的事実が1910年の日韓併合条約以降消されていった」(日韓の比較文化研究2005年)と述べています。仲尾宏先生もこの論調に準じられたようです。

 中川先生は北村先生に「教科書からかき消されていたという誤解を、必ず正してくれ」と言い残して亡くなり、北村先生はその意を継ぐかのように丁寧に綿密に調査され、第一人者といわれる研究家の説を覆したのでした。

 先入観のない立場から見ると、第一人者の先生方は、戦前の教科書が朝鮮通信使をどう扱っていたのか、ちゃんと調べればわかるのに、なぜ“裏取り”をしなかったんだろうと不思議に思えます。江戸時代の日本と朝鮮半島の善隣友好の歴史を、江戸徳川時代を否定することから始まった近代日本が肯定するはずがない、その後日本が朝鮮半島にしてきたことを見れば自明だ・・・そんな思い込みがあったのでしょうか。

 

 4月15日には静岡駅前サールナートホールで開催された京都学講座を受講し、花園大学文化遺産学科の福島恒徳教授から文化財の真贋について興味深いお話をうかがいました。専門家が文化財指定のお墨付きを与えた後で、偽物コピーだったと判明する事件が時々起きる。偽物コピーだと薄々わかっていても骨董市場で平然と流通されるのは、最初にお墨付きを与えたのが第一人者といわれる高名な大学教授だったりするから・・・というきわどいお話。「〇〇先生の鑑定に異論を唱えることはできない」―そんな空気に支配されるのは、アカデミズムに限ったことではないかもしれませんが、真実を究明する精神を曇らせた歴史家はプロといえるのでしょうか。

 

 そんな、奥歯にものが挟まったような心境で巡り合った『アマチュア論。』。勢古氏は轡田隆史氏の『考える力をつける本』の一節を引用しています。

「考える力とは、実は、ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力なのだろう。僭越にもつけ加えるなら、考える力とは、結局は、一個の人間として恥ずかしくない生き方を、どう選んだらいいのかという問題にゆきつくものであるらしい」。

 この、「ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力」を、北村先生は発揮されたのだろうと腑に落ちました。

 

 勢古氏のアマチュア論は26の格言に集約されています。いくつか紹介するとー

「一流のプロフェショナルはかならず見事なアマチュア精神を持っている」

「お題目ばかり立派で実体の不明な「プロ」を目指すより、人間としてのより良き「アマチュア」を目指す方がいい」

「目前のことに反射的に反応する前に、一拍おいて目前の意味を考えること」

「世間の言葉に従って安心を手に入れるよりも、自分で考えて間違うほうがいい」

 

 歴史研究においては、アマチュアのさらに下の「素人」同然の自分が、モノカキとしては「プロ」を自認する矛盾と葛藤にどう向き合うべきか、そもそもこうやって一銭にもならないブログ書きに時間を費やす自分はプロのライターなんだろうか、良きアマチュアとはどうあるべきか・・・途方もなく大きな宿題を突き付けられた気分です。

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静岡らしさの定義~2017年静岡県清酒鑑評会をふりかえって

2017-03-24 09:25:17 | 地酒

 今年も新酒鑑評会の季節がやってきました。3月22日には静岡県清酒鑑評会一般公開&表彰式がグランディエールブケトーカイ(JR静岡駅前)で開催され、平日にもかかわらず多くの地酒ファンが出品酒の試飲を楽しみました。

 今年の県知事賞(最高位)はすでに新聞等でも報道されたとおり、吟醸の部・純米吟醸の部ともに、杉錦(藤枝)でした。しずおか地酒研究会20周年記念酒を醸造していただき、昨年夏には奈良京都の酒造聖地巡礼ツアーにも参加していただいた蔵元杜氏・杉井均乃介さんの快挙には、身内が受賞したような晴れがましい気持ちになり、一般公開会場でお会いした杉井さんに「酒の神様にたんまりお参りしたご利益がありましたね!」と冷やかしちゃいました(笑)。

 杉井さんご本人は、まさかトップをとるとは思っていなかったということを、前夜に更新されたブログ(こちら)につづっておられました。私も、杉錦のW受賞は本当にうれしいサプライズでしたが、実際に今年の出品酒をじっくり試飲して「“静岡らしさ”の定義が変わってきたんだろうか」と複雑な気持ちになりました。そんな私の胸の内を読み透かしたように「どう思う?」と声を掛けてこられた蔵元さんに、「昔の鑑評会では、静岡吟醸らしい上品な上立ち香があり、口中では香りと味のバランスが丸く調和していた。今日の出品酒で吟醸香を感じる酒はほとんどない。味と酸味のバランスがとれている酒が上位に来ているけど、香りに関してはナーバスになっている感じがします」と率直にお伝えしたところ、「静岡酵母自体が変化しているのかもしれない」と意外な言葉が返ってきました。そうか・・・酵母も考えてみれば生きものなんだから、経年変化することがあるんだとハッとさせられました。

 静岡酵母も培養されてから30年はゆうに経過しています。専門の研究機関で厳格に冷凍保存されているとはいえ、厳密にみれば、培地のどの部分から取り分け、各蔵でどのように管理し使用されるかで、河村先生が開発された当初の設計通りの機能を発揮するとは限らない。そのようなリスクに対処するため、協会酵母のベストセラーを生んだある銘醸では、『酵母の更新』をしているそうです。どのような技術を指すのか、素人には見当もつきませんが、河村先生が生きておられたら、当然見過ごさないリスクヘッジだろうと想像し、機会があれば協会酵母を管理する日本醸造協会の専門家に聴いてみたいとも思います。

 いずれにしても、今は各蔵とも、使用する米の種類、精米歩合、酒母造り、水の配合、上槽のタイミング等々、酒造工程一つ一つで差別化を図り、多様な酒質で勝負する時代になりました。酵母によって酒質が決まってしまうような単純なモノサシでは評価できなくなったようにも思います。「静岡酵母」によって吟醸王国の道を切り拓き、酒質向上を果たした静岡の酒も、そろそろ次の段階に来ているのかもしれません。

 静岡酵母が変容しているとしたら、これからの静岡の酒は何をもって静岡らしさをアピールすべきか、造り手も懸命に試行錯誤している・・・そんな印象を受けた今年の一般公開でした。

 

 さて、一般公開会場では、初めて参加したと思われる人が係の人をつかまえて、「なぜこういう酒ばかりなんだ?」と詰問している場面を見ました。そこに並んでいた出品酒が、ふだん飲んでいる酒とは明らかに違うことに違和感を持たれたんだと思います。今までは業界関係者や一部の酒通が対象だった一般公開も、多くの消費者が気軽に参加できるようになり、鑑評会出品酒がどういうものかを知らずに「タダでいろんな蔵の酒が飲める」と来た人も少なくないでしょう。

 以下、2014年4月に「日刊いーしず」へ投稿した鑑評会に関するコラムを再掲します。造り手が技と誇りをかけて醸した出品酒の価値を、ただしく理解していただけたら、と願っています。

 

 

 数年前のこと。酒造関係者の間で衝撃的な数字が話題になりました。国内で消費されるアルコール飲料のうち、日本酒のシェアは、わずか8%。静岡市の繁華街、両替町や常磐町あたりで飲み歩く人がひと晩で何人いるのか数えたことはありませんが、100人いたとしたら、8人しか日本酒を飲んでいないなんて・・・。  さらに、全国に流通されている日本酒のうち、静岡県の酒はたったの0.68%。地元なら高いだろうと思ったら県内で流通されている日本酒の中で静岡の酒は20%以下。地酒ファンが憤慨したくなる数字です・・・。

 確かに気候温暖な静岡県は、酒どころというイメージがないし、すっかり全国区のグルメスポットになった青葉おでん横丁でも、静岡割り(焼酎のお茶割り)は人気だけど、地酒をガンガン飲む客、売る店はありません。  それでも、静岡県内で生産される日本酒は、全国の酒通の間で「吟醸王国」とまで称されるほど人気があるって、信じられますか?   今回は静岡県が吟醸王国になったきっかけともいえる、新酒鑑評会=酒の品質コンテストのディープな世界にご案内しましょう。

 ◇ 

 県内の酒蔵は30社ほど。多くは江戸時代に創業した老舗企業です。東海道の宿場町整備によって消費地が形成され、どの町にも必ず造り酒屋があったんですね。中には商才に長けた近江商人が隠密活動の拠点代わりに開業した、なんて蔵もあります。

 明治以降は酒税を重要な国税にしようと、国が積極的に酒造業を奨励します。このころ設立されたのが国立の醸造試験所。酒税は国の税収の3割を占めるまでになっていましたが、当時は醸造技術が未熟だったため、品質劣化がしばしば問題になりました。宿場町の酒屋の軒先で量り売りする程度ならまだしも、大量に造って各地へ出荷するとなると品質を安定させなければなりません。税金をあてこんでいる国としても、ちゃんと造ってどんどん売ってもらわないと困るということで、国策で醸造試験所を造り、品質コンテスト=全国新酒鑑評会をスタートさせたのです。

 この、全国新酒鑑評会。今年(2014年)でなんと101回目です。休止したのは戦争中と、「独立行政法人酒類総合研究所」に移行する際に東京から東広島へ施設移転したときだけ。全国規模のコンペティションでこれだけ長く継続し、しかも内容的にも非常にレベルの高い技術コンテストというのは世界でも稀有な存在です。

 市販酒の生産拡大のために酒造技術を向上させるという目的でスタートした鑑評会は、やがて蔵元や杜氏にとって、国から優良とのお墨付きをもらい、「金賞」を授与されることはこの上ない誉れとなり、しだいに技術競争の様相を呈してきます。鑑評会の出品用に原料の米を(米の外側は栄養があるが酒にすると雑味になるため)半分以下まで精米し、特別に吟味して醸す、という意味合いの「吟醸酒」は、ここから生まれました。  さまざまな清酒酵母が生まれ、実用化されるようになったのも、鑑評会の功績です。

 7号酵母、9号酵母といった名称で知られる酵母菌の多くは、鑑評会で好成績だった酒蔵を醸造試験所の技術者が調査し、酵母を収集し、保存・育種して普及させました。優良な酵母を選抜して安全な環境で培養し、全国の酒蔵へ頒布することは、日本酒全体の品質安定につながったのです。  現在、酵母は、日本醸造協会という業界団体が専門に培養しており、実用化した順に番号を付けています。現役の協会酵母で最も古いのは6号酵母で、大正時代に秋田の「新政」という蔵から採取されました。7号酵母は昭和21年に長野の「真澄」から。9号酵母は熊本の「香露」から出た香りの高い酵母で、吟醸酒向けに一世風靡しました。みなさんがイメージする吟醸酒のフルーティーな香りは、9号酵母が定着させたとも言われ、今でも鑑評会出品酒の多くは9号系統の酵母を使用しているようです。

 ◇

 さて、静岡県。東海道の城下町を中心に、個人経営の小規模な蔵が多かったものの、交通の要所=安定した消費地という地理的条件に支えられ、そこそこ繁盛していました。しかしながら、太平洋戦争中は原料米不足の折から統廃合を余儀なくされ、生き残った蔵も、東海道線、国道1号線、東名高速道路という新たな交通の動脈が物流を加速させ、高度成長期には全国の銘醸地からさまざまな酒が流入し、地酒は存在感を失っていきます。日本酒の生産量のピークは昭和48年頃と言われていますが、静岡県の蔵元は昭和50年代前半頃まで灘や伏見の大手酒造会社の下請けで生計を立てるなど“日陰の時代”が続きました。

 昭和50年代後半から下請けの量が減り始め、さらに経営が苦しくなった県内の蔵元は、それまで経営の柱には考えなかった「吟醸酒」で生き残りを図る英断をします。

 この時に追い風となったのが静岡酵母。蔵元に技術指導をしていた静岡県工業技術センターの河村傅兵衛氏が、蔵元が自立するには他地域の亜流にならず、独自スタイルで勝負すべきと考え、吟醸酒造りの実績を持つ県内の蔵で発見した酵母菌をもとに、バイオテクノロジーを駆使して独自開発したものです。  昭和61年の全国新酒鑑評会には、県内から21銘柄が出品し、金賞10、銀賞7を獲得しました。入賞率は実に87%。2位石川県、3位福井県をおさえて全国一位という、県酒造史始まって以来の快挙を成し遂げました。

 この年、全国新酒鑑評会に出品された酒は800銘柄ほどで、うち約100銘柄が金賞に選ばれたのですが、この中の10銘柄を静岡県が占めたのです。しかも9号酵母ではなく、地方研究機関が独自に開発した酵母による吟醸酒造り。酒どころとしては無名だった静岡県は、この年の鑑評会を機に、一躍、銘醸地に名乗りを上げたのでした。

 他県の研究機関や蔵元は驚愕し、静岡酵母に着目します。「静岡で成功するなら当県だって・・・」と各県の酵母開発に勢いが付き、優良酵母の輩出県だった秋田や長野も新たに独自酵母を生み出します。長野県の「アルプス酵母」は、繊細でまるみのあるおだやかな香りの静岡酵母の酒とは異なる、香り華やかで濃厚な酒を醸し出し、その後の鑑評会で大量入賞しました。静岡酵母の酒が、薄化粧の素肌美人だとしたら、アルプス酵母は完璧な女優メイクを施した美女って感じでしょうか。

 いずれにしても、静岡県が先鞭を付けた酵母開発と吟醸酒造りの技術革新は、それまで、国の指導による“鑑評会出品酒”の規格に、新たな地方化・個性化の波をもたらしたのでした。“美女の条件”は画一じゃなくなったってことですね!

 ◇ 

 全国新酒鑑評会は毎年5月に行われます。その前に、地域国税局単位の新酒鑑評会が4月(静岡県は東海4県を管轄する名古屋国税局に所属・現在は秋に開催)、県単位の鑑評会が3月に開かれます。静岡県清酒鑑評会は、吟醸酒の部・純米吟醸酒の部と2つ部門があり、点数を付けて順位を決め、最上位の銘柄に県知事賞を授与します。順位を発表している県はあまり多くありません。

全国新酒鑑評会(東広島市アリーナ) 静岡県清酒鑑評会一般公開(グランディエールブケトーカイ)

 各県でどういう酒に県知事賞を与えるかはさまざまです。私が以前、取材に行った宮城県清酒鑑評会は、県知事賞は宮城県の米を使った酒の最上位に与えていました。さすが米どころですね。

 静岡県の鑑評会も、「県の鑑評会はあくまで名古屋国税局、全国の鑑評会の予選だ」「いや、県は県独自の基準で選ぶべきだ」等など、これまでいろいろな判断基準で審査されてきました。あくまで内々(静岡県酒造組合)の主催ですから、各組合員(各蔵元)が鑑評会をどう意義付けるかで決まる。順位付けも組合員の総意で決めている。それだけシビアに競い合おうと高い意識で臨んでいるわけです。

 飲料・食品・農産物の品質コンペの場合、食味計のような測定器を併用するケースもあるようですが、静岡県清酒鑑評会では機械類を一切使わず、人間のきき酒だけで決めます。10~11人程度の審査員(名古屋国税局鑑定官、大学の醸造学研究者、蔵元代表、杜氏代表など)が官能審査を行い、各出品酒に1点から3点までどれかを付けます。1が優秀、2が普通、3が欠点あり、というシンプルな付け方で、合計で○点以下のものを二次審査、さらに最終審査へと残していきます。

 ちなみに1000品近い出品酒を審査する全国新酒鑑評会では、どんなに優秀な審査員でも、香りが強く出る酵母の酒と、おだやかな香りの酒を続けて審査すれば、香りの強い酒を引きずってしまうということで、現在、香りの成分を事前に計測し、審査カテゴリーを分ける、という処置をとっているようです。

 ◇ 

 酒の鑑評会は、よく、ミスコンテストやF1レースに喩えられることがあります。ミスコンをきっかけに時代時代の女性の美しさが定義され、F1レースを通して自動車メーカーの技術力が見えてくる・・・最上級を競う場にはそれ相応の役割があると思います。

 市販酒の品質安定という当初目的から高度な技術競争へと化した酒の鑑評会。「造り手の自己満足にすぎない世界」「米を精米しすぎる吟醸酒は原料を無駄使いするバブリーな酒」と揶揄する声もあるようですが、昔、静岡県の蔵元から聞いた「うちは小さな蔵だが、吟醸酒に挑戦し、技を磨くことで、普通酒も本醸造も純米酒もレベルアップした」という言葉は忘れられません。

 また県外の酒の流通業者から「静岡市の繁華街で飲んだとき、高級な料亭や鮨屋ばかりでなく、ごくフツウの居酒屋でも地元の吟醸酒をズラッと並べていた。地方都市ではあまりお目にかかれない。さすが吟醸王国ですね」と言われたことも忘れられません。

 日本酒の全国シェアわずか0.7%弱の静岡県が、静岡酵母に続き、日本酒の世界をいかに変革していくか、ほんとうに楽しみです。この春社会人になったみなさんは、とくに、飲まず嫌いせず、静岡の吟醸酒をぜひオーダーし、「素肌美人の酒ですよね」なんてウンチクたれてみてください。先輩や上司から一目置かれるはずですよ!

 

 

 なお、4月から朝日テレビカルチャー静岡スクールで、日本酒初心者を対象にした新しい地酒講座がスタートします。4~9月まで半年間、毎月第一土曜日の13時30分からの開催です。

 5月には、県の審査員を務めた松崎晴雄さん(酒類ジャーナリスト・日本酒輸出協会理事長)をお招きし、日本酒業界における静岡の酒の特徴や位置づけについて、丁寧に解説していただき、6月には今年の県知事賞受賞の杉井酒造を訪問する予定。日本酒初心者には王道の情報を的確にお伝えし、鑑評会に関心のある方には他では聞けない貴重な情報をご提供できると思います。興味のある方はぜひカルチャーHP(こちら)からお申し込みを。

静岡県清酒鑑評会審査員を務める松崎晴雄さん
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「Tabi tabi」創刊~港が生まれた日

2017-03-20 21:09:31 | 歴史

 3月17日に静岡新聞社から新しい旅の情報誌『Tabi tabi』が創刊されました。すでにお手に取ってご覧になった方もいらっしゃると思いますが、出版不況といわれる昨今、オール広告のフリーペーパーでもなく、クーポン付きのガイド本でもなく、プロの編集者とライターとデザイナーとカメラマンががっつりスクラムを組んで制作し、営業スタッフがまっとうに広告を集め、書店に売り込んで発売にこぎつけた雑誌。地元で踏ん張るクリエイターたちが力を発揮できる媒体を…と切望していた身としては、待ちに待った創刊でした。

 創刊号のテーマは「今日は、渚へ。」海岸線が延べ500㎞もある静岡県の海辺にスポットを当てた“読ませる旅ものがたり”が凝縮されています。佐野真弓さん、永野香里さん、鈴木ソナタさん、増渕礼子さん、山口雅子さん・・・ライター陣はほぼ同世代で、それぞれに静岡のこの業界で踏ん張ってきた“同志”たち。各ライターの特性を知り尽くした編集リーダー田邊詩野さんのキャスティングが奏功し、各コーナーをキラキラ輝かせています。匿名での請負業務が多い地方のクリエイターにとっては、全頁、署名記事にしてくれた静岡新聞社の“英断”にも心から感謝です。


 さて私は、キラキラとした海辺の美観満載のメインスキームから外れた、巻末の「しずおか今昔物語」という歴史コーナーを担当させていただきました。他のページのことは完成本を見るまで知らず、書店で初めて手に取ったときは、自分のコーナーのあまりにも異質な印象にビビッてしまいました。内容が硬質だし文章もとっつきにくいのは他ページと比べても顕か。全体の足を引っ張っているんじゃないかと冷や汗をかきましたが、私の原稿にGOサインを出してくれた詩野さんの“英断”には感謝の言葉もありません。

 『杯が満ちるまで』の担当でもあった詩野さんは、当時、容赦のないダメ出しで鬼編集者ぶり(失礼!)を発揮されましたが、今回はほぼノーチェック。面倒な写真収集もほとんど一手に引き受けてくださいました。調査と執筆には半年ぐらいかけましたが、ほとんどストレスを感じることなく校了でき、待ちに待った創刊の日。仕事帰りに書店に立ち寄ってパッと開いて絶句して冷や汗かいて(笑)、それでも少し時間が経つと、こんな硬い記事にもページを割いてもらえたことにジワジワ感激がこみ上げてきました。

 ちょうど主宰する駿河茶禅の会で、会員から寄せられた「MY禅語」を編集しており、自分は何にしようかと書棚を探して見つけたのが、菜根譚のこの言葉でした。


「文章做到極處、無有他奇、只是恰好」

(ぶんしょうは、きょくしょになしいたれば、ほかのきあることなく、ただこれ、かっこうのみ)

「人品做到極處、無有他異、只是本然」

(じんぴんは、きょくしょになしいたれば、ほかのいあることなく、ただこれ、ほんぜんのみ)

 文章というものは、最高の域に達すると、特別に珍しい技法があるものではなく、ただぴったり合った表現をするだけである。人格も、最高の域に達すると、特別に変わった点があるものではなく、ただ自然のままだけである。(岩波文庫「菜根譚」今井宇三郎訳注より)

 

 自分の文章が硬いだとか、他の人と比べてどうだ・・・なんてことにこだわっているうちは、良き書き手にはなれないなあと自戒の念。求められたテーマに、すんなり合う表現で、読み手にもすんなり読める・・・これを目標に、これからも頑張っていきたいと思います。

 

 

 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたのは清水港の歴史。明治39513日、日本郵船神奈川丸が清水港に入港し、静岡茶を積載して北米に向け出港した日を「港が生まれた日」として、この日を迎えるまでの清水の人々の物語を駆け足で紹介しました。紙面の都合で、その後の清水港の変遷については割愛しましたが、せっかく調べたので少し付け足してみると―

 お茶輸出第1船が出港した翌明治40年、清水港は第二種重要港湾に指定され、同時期、静岡と清水港を結ぶ軽便鉄道が完成。馬車や大八車で細々運ばれてきた茶が鉄道輸送に切り替わりました。

 港の周辺には“殖産興業”を追い風に新しい工場が次々と誕生。巴川の河口に近い向島には「東海セメント」が創業。清水町の望月万太郎が明治20年個人で起業し、30年に天野久右衛門らが引き継いで、本格的なポルトランドセメントの製造販売を手掛けます。原料の石灰石は榛原郡萩間村女神産、粘土は不二見村南矢部の有度山中から採掘されたものだそうです。

 明治45年には「清江下駄」が創業。江尻町の三嶋屋下駄店を営む2代目井上半蔵が、北海道産の木材を小樽港から運び、日本楽器ピアノ部長河合小市が発明した機械を導入して下駄を作ったんだそうです。ピアノ製造技術を応用した当時の先端技術を駆使したいわばベンチャービジネスで、開業間もなく年間300万足、一日平均1万足と日本一の生産量を上げ、販路は朝鮮半島、台湾、樺太、満州にまで及んだそうです。

 三嶋屋はもともと明治の初め、初代半蔵が創業した下駄問屋で、下駄の生地に漆で模様や絵付けをする女性用塗下駄を日本で初めて作りました。考案者は静岡の漆職人だったそうですが、当時、引き受け手のなかったこの新製品を半ば人助けのつもりで引き受け、東京で売り出したところ大成功。2代目半蔵は安倍川上流の杉材を原料にした生地作りを静岡監獄の囚人労働でまかない、静岡から27人の塗師を転住させ、日産2500足の下駄づくりを実現させました。

 半蔵は儲けた金で男子工員を遊郭で遊ばせたり、清水の事業家とともに運送会社を設立するなど清水のビジネスリーダーとして活躍。しかし北海道材への先物取引に失敗し、大正121月、突然休業し、解散してしまったとか。それでも彼のベンチャービジネスはほかの地場産業にも大きな影響を与え、従来、手動の座ぐり機で糸を紡いでいた製糸工場には電動機械が導入され、製紙工場でも機械化が進展。港の設備が整うと、生糸、タオル、麻製品など輸出向け商品を作るメーカーが続々誕生し、他県からの移住者も増えました。

 中でも目覚ましい発展を示したのが製茶工場。輸出用の茶を大量生産するには人手で揉んでいたら間に合いません。カビを防ぐための処理も必要。記事でも触れましたが、長年清水港から直輸出できなかったのは地元に優れた製茶工場がなかったためで、清水港から茶の直輸出の道が拓かれてからは、横浜・神戸の外国商館が競って静岡へ本拠を移し、製茶工場の機械化が進みました。製茶機械の発明者で名高いのは埼玉の高林健三。茶の葉を蒸し、焙り、揉捻の3工程の機械化を実現するため12年の歳月を投じたそうです。

 

 ミカンは明治年間、ずっと茶の後塵を拝してきましたが、明治17年にアメリカへ輸出した記録があり、日露戦争後の明治3839年頃からロシア、カナダ、アメリカ向けの輸出が継続的に行われるようになります。ミカン輸出に先鞭をつけたのは興津の青木周作。町議や町長を務め、37年にアメリカに200箱ほど出荷したのを手始めに地元ミカンの輸出に尽力。しかし到着までに鎖や病虫害が発生し、荷揚げを拒否されたり輸入規制にあったりするなど苦労を強いられたようです。

 本格化したのは専門の輸出業者が参入した大正に入ってから。大正2年、清水港からの輸出品目別ランキングで2位にあがります。江尻の望月兄弟商会の兄平吉・弟正治郎はオレンジキングとしてアメリカの新聞にも紹介されました。


 ちょうど運よく、JA静岡経済連の情報誌スマイルで静岡みかんの輸出状況について取材しましたので、補足するとー

 静岡みかんは120 年以上前からカナダを中心に輸出し、クリスマスシーズンの到来を告げる“テーブルオレンジ”として親しまれてきました。もともと明治時代にカナダ西海岸のバンクーバー近郊に移住した日本人が栽培を始めたとされ、現地のオレンジよりも皮が剥きやすいこともあって人気を集め、日本からの輸出も増加したようです。

 日本国内では昭和30年代、米の生産調整(減反)の一環として果物への転作を促す「果樹農業振興法」が成立し、各自治体が稲作農家にみかんへの転作を指導したことで、みかん産地が全国に拡大しました。みかんの収穫量は急増し、ピーク時の昭和50年には年間360万トンと現在の4倍強にもあたる量を生産し、需給バランスが崩れて値崩れを起こします。みかんも生産調整の対象となり、丹精込めて育てたみかんを間引く摘果(てきか)をせざるを得ず、農家にとって辛い時代を迎えます。そんなとき活路となったのが、日本のみかんを長年テーブルオレンジとして親しんできたカナダへの本格的な輸出だったのです。

 国際貿易港清水を有する静岡県でも北米向けのみかん輸出が本格化し、みかん農家の窮地を救う一助となりました。収穫後、カナダの店頭に並ぶまでには約1か月かかるため、青島温州の前身で高い貯蔵性を持ち、青島よりも早い時期に収穫できる「杉山温州」「尾張温州」の2種が主体となりました。 

 カナダと並んで有力な輸出先だったアメリカは農産物の輸入規制が厳しくなり、輸出量は激減しています。一方、急増しているのはニュージーランドと東南アジア(シンガポール、マレーシア、タイ等)。「他の外国産みかんと比較し、果肉が軟らかくジューシーでとても甘味がある」「通年購入できるオレンジと違い、季節限定で希少価値の高い商品」「外見が美しく、剥きやすくて食べやすい」という評価を得ており、従来、売り場を占めていた低価格の中国産かんきつ類に取って替わる勢いを見せています。

 

 

 「港が生まれた日」があまりにも硬い記事なので、少しでも柔らかくなればと、50年前に妹と清水港で遊んだときの写真を詩野さんに見てもらったところ、光栄にも文頭に使っていただきました。撮影場所ははっきり分からないのですが、FBで紹介したら数人から「袖師海岸じゃない?」とのアンサーコメントが。50年後の清水港がこうなって、妹は海の向こうに嫁いで、私がこんな仕事をしているなんて、ホント、不思議なものです。

 

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しずおか地酒研究会20周年記念酒(通常版)販売先のご案内

2017-03-08 11:33:27 | しずおか地酒研究会

 しずおか地酒研究会の20周年記念酒、杉錦の生酛純米・通年バージョンが2月1日に発売になりました。蔵元杜氏の杉井さんから、3月7日時点での販売先をお知らせいただきました。「本来なら直接営業に回ってお願いすべきところ、とりあえずチラシ案内だけでご注文くださったお店」だそうです。昨年末の生原酒発売のときも、「しずおか地酒研究会20周年」という余計な冠が付いたPBにもかかわらず、当会とご縁のない酒屋さんもご注文をくださいました。今回も初めてご縁をいただく酒屋さんがいらっしゃって感謝感激です。

 どの販売先も、これまでも杉錦を大切に取り扱っておられた酒屋さんだと思いますが、今回初めてうかがった某酒屋さんは、店頭の一番目立つコーナーに固めて陳列してくださっていました。杉井さんからつねづね、「取引先店の限られた陳列棚のどこに置いてもらうか、静岡銘柄は競争相手が多いからシビアなんですよ」とうかがっていたので、余計に感激してしまいました。

 日頃、「いい地酒との出会いは、いい売り手との出会い」と力説している身としては、この酒を通して一店でも多くの、町のがんばる酒屋さんの存在を知ってほしい。当会のようなマイナーな愛好会のPBでも杉錦の力を信じて注文してくださったからには、酒を見る目は確かなお店ばかりだと確信しています。

 酒屋さんと仲良くなれば、酒の会や蔵見学のようなお店独自の限定企画に参加できる機会も増えるでしょう。県外のお店ならば、その土地に仕事や観光で訪ねる機会があったら、ぜひ訪ねてみたいですね。地元の専門店ですから美味しいお店や観光情報も把握しているはず。地域同士がそんなふうにつながるのも素敵だなって思います。

 頑張る個人商店がキラキラ輝く地域であってほしい・・・心底そう願わずにいられません。

 

◆静岡県東部
 
丸茂芹澤酒店(沼津市吉田)HPはこちら
 
松浦酒店 (沼津市大手町)HPはこちら
 
リカーズハウスたけなか(沼津市下香貫)HPはこちら
 
内田酒店(三島市)HPはこちら

吟酒むらため(東伊豆町稲取)HPはこちら 

 

 
◆静岡県中部
 
とみた屋 (静岡市葵区駒形通り)HPはこちら
 
松永酒店 (静岡市葵区五番町)HPはこちら
 
篠田酒店 (静岡市清水区入江岡)HPはこちら
 
アヴォートルサンテ (静岡市葵区茶町)HPはこちら
 
野中酒店 (静岡市駿河区鎌田)HPはこちら
 
長島酒店(静岡市葵区竜南)HPはこちら
 
鈴木酒店(静岡市駿河区豊原町)HPはこちら
 
栗田酒店(静岡市葵区大岩)HPはこちら
 
長谷川和洋酒(静岡市葵区新通)店情報はこちら
 
森藤酒店(静岡市葵区七番町)HPはこちら
 
酒蔵いとう(焼津市保福島)店情報はこちら
 
リカーズグリーン(焼津市中新田)HPはこちら
 
萩原酒店 (焼津市小土) 店情報はこちら
 
青野酒店(焼津市本町)HPはこちら
 
増田酒店(焼津市五ケ堀之内)店情報はこちら
 
ときわストア(藤枝市岡部)TEL 090-3953-4395
 
ワイン&リカーズSONE(藤枝市駅前2丁目)HPはこちら
 
ちろりん村(藤枝市五十海) 店情報はこちら
 
酒のケント(藤枝市南駿河台) 店情報はこちら
 
 
 

◆ 静岡県西部地区

酒のバオオ(浜松市北区三方原)HPはこちら

 
 
 
 
◆静岡県外
 
福島酒食料品店(群馬県渋川市)HPはこちら
 
菅野酒店 (神奈川県鎌倉市大船) HPはこちら
  
藤川酒店 (愛知県豊橋市)HPはこちら
 
久田酒店 (愛知県名古屋市中川区)HPはこちら
 
SAKEBOXさかした(大阪市此花区高見1丁目)HPはこちら
 
たがしら酒店(大阪府守口市) HPはこちら
 
山枡酒店(鳥取県倉吉市)HPはこちら
 
酒蔵なりよし(福岡県福岡市城南区)HPはこちら

 

 
 
  
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たまごふわふわ、飽くなき挑戦

2017-03-07 10:27:33 | 本と雑誌

  3月6日発行のdancyu4月号は「たまごと料理」特集。私は袋井市が江戸時代の名物料理としてB級グルメで売り出し中の『たまごふわふわ』を紹介させていただきました。

 

 卵白を撹拌し、黄身を混ぜたものを出汁に流し込み、ふわふわっと軽めに凝固させる。口中に広がる摩訶不思議なスフレ感。卵料理の原点にしてシンプルの極みともいえる『たまごふわふわ』。記事でも触れましたが、この名を初めて耳にしたのは2004年のNHK大河ドラマ『新選組!』でした。

 江戸の貧乏道場・試衛館の近藤勇(香取慎吾)が、将軍上洛の警護役として募集した浪士組の参加を決意する大事な夜。江戸で穏やかな暮らしを望んでいた妻つね(田畑智子)は募集チラシを戸棚に隠したんですが、食いしん坊の原田左之助(山本太郎)が何か食べるものがないかと戸棚を家探ししていたとき、チラシが落ちて、それを偶然、勇が拾って・・・という展開。妻の切ない思いを知ってか知らずか、浪士組参加を決意した後の夕餉で勇が所望したのが「ふわふわたまご」でした。ところどころにコメディ要素を挟まずにはいられない?脚本家三谷幸喜氏のお遊びかと思いきや、本当にそういう料理があって、近藤勇の好物だったんですね。

 

 江戸時代の料理の伝承記録をまとめた『日本料理事物起源』によると、「玉子ふわふわ」は1626年、徳川家が二条城に後水尾天皇を招いての饗応料理に初お目見え。その後、茶人松屋久重や尾張徳川家家臣の日記にも登場し、江戸中期までに玉子焼き、玉子とじ、茶碗蒸し等々に発展したそうです。そう、茶碗蒸しの原型なんですね。先月のこちらの記事でも書いたとおり、東海道中膝栗毛では弥次喜多さんが藤枝宿で味わっています。

 

 で、平成になってご当地グルメとして掘り起こしたのが静岡県袋井市。2006年放送の東海道の歴史番組で、大阪の豪商升屋平右衛門の旅日記『仙台下向日記』(1813年)に、袋井宿の大田脇本陣で朝食の膳に載っていたと紹介され、これに着目した袋井市観光協会が翌年のB‐1グランプリに出品し、ブームに火をつけたのです。

 袋井市観光協会では、一定の条件を満たした飲食店や菓子店に「たまごふわふわ」の認定書と登り旗を貸与。江戸時代の味を再現したお店から、デザートやスイーツ等新しい味を創意工夫したお店まで、いろいろな味を食べ比べできるようPRしています。登り旗のある店はこちらのサイトで紹介されていますのでぜひご参考に。


 私が今回取材させていただいたのは袋井駅前の「とりや茶屋」の松下善行さん。メニューの筆頭に「たまごふわふわ400円」と気合が入っています!

 卵白を撹拌するとき、ハンドミキサーを使うお店がほとんどですが、松下さんは「江戸時代に電動器具はないだろう」と、菜箸で丁寧に撹拌させます。だし汁は店名からして鶏だしかと思いきや「袋井はその昔、昆布と鰹節を江戸城へ献上していたという記録があるから」と和食の基本だし。ここまで徹底して江戸時代のたまごふわふわを再現しているお店はここだけだそうです。

 だしを沸騰させ、メレンゲ状態の卵をざっと流し込んで蓋をするだけ。シンプルゆえに素材、味付け、火の加減が大事。料理人の矜持が伝わって来るようです。

 取材後、私もさっそく100均で土鍋(径口15センチぐらいの小さいサイズ)を買って、自宅で何度もトライしてみたんですが、松下さんのようなふわふわ感がなかなか出ません。食感はふわふわですが見た目がイマイチ…。ネーミングや食感の緩さからは想像できない奥の深い料理なんだなあ~としみじみ実感です。


 取材した日の夜は、燗酒の酒肴にしたところ、まろやかな純米酒との相性バッチリでした。東海道宿場町では朝食膳の定番メニューだったことに倣い、このところ飲み過ぎた翌朝も、気合を入れる意味で「ふわふわ」再現にトライしています。素人が松下さんの領域まで達するのは不可能ながら、卵1個でも満腹感があってとにかく胃腸に優しい。とりや茶屋では宴会メニューの〆に大変喜ばれているそうですから、東海道筋の居酒屋さんでもぜひメニューに加えてほしいです。作り方はdancyuの記事をぜひ!

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