杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

京都をもっと知るための仏教史

2017-02-23 18:40:43 | 仏教

 若い女優さんが仕事を放り出して出家したというニュース。浮き沈みの激しい世界に身を置く人にとっては、宗教が心の支えになることもあるだろう…と我が身に置き換え、ちょっぴり同情の念を感じてしまいました。

 自分が仏教に興味を持ったきっかけは、ミッションスクールの中学高校に通っていたころ、図書館で見つけた仏教本。毎朝の礼拝で読んでいた聖書の教えとの違いが「面白い」と感じ、やがて、日本の宗教へと関心が広がり、京都の大学に進学。20~30代は幸い仕事に恵まれ、宗教本を紐解く時間はほとんどありませんでしたが、40歳を超えたころから浮き沈みの辛さを感じ始め、再び京都へ通うようになりました。といっても特定の宗教にハマったわけではなく、歴史を知ること自体がストレス発散になったのです。現実逃避かもしれないけど(苦笑)。

 

 2月18日、JR静岡駅前の宝泰寺サールナートホールで開催された京都学講座では、花園大学文化遺産学科教授の師茂樹先生が神道と仏教の関係性をわかりやすく説いてくださいました。改めて学んでみると京という都を成立させていた宗教のキホン、ちゃんと理解していないと、ホントの京都は楽しめないと痛感しました。師先生のお話をキーワードをもとに整理復習してみたいと思います。

 

「神仏習合」「神身離脱」

 映画『沈黙』で印象的だったのは、主人公の宣教師が、奉行のイノウエ(イッセー尾形)や、日本の仏教徒になった先輩宣教師(リーアム・ニーソン)に、転宗を勧められるシーンでした。ストーリー展開は別にして、仏教の教えというのはディベート向きだと感心したのです。過去ブログ(こちら)でも触れたとおり、日本固有の神道が外来宗教である仏教とどのように融合したのかは、日本人の宗教観を理解する上で大事なポイント。師先生も「仏教は説明能力が高い。キリスト教が入ったときもGODを大自在天に置き換えて仏教の世界観に取り込んだ」と太鼓判を押しました。

 6世紀に伝来した当初、仏教は大陸からやってきた新種の神のひとつとされましたが、説明上手な仏教が「日本の神々は仏教の六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の最上位に属す」と持ち上げ、それでも輪廻転生は免れないため、天変地異や疫病がおこると「神が仏法による救済を願って苦しんでおられる」と説く。でも神は自分で読経も写経も出来ないし仏像を彫ることもできない。人間に代行してもらうしかない。それで、山岳修験者たちが中心になって、神が住まう山奥にお寺が建立されるようになったということです。お寺の正式名に山号(〇〇山△△寺)があるのはその名残り。ちなみに日本で一番数の多い八幡神の称号「八幡大菩薩」は、「菩薩」が仏道修行中の身分を指すことから、❝神様ただいま修行中❞ってこと。これぞ神仏習合の典型ですね。

 



「清水寺」「鞍馬寺」「広隆寺」「延暦寺」

 この4つは平安京が出来る前に創建された古寺ベスト4です。清水寺は778年、奈良興福寺系の子島寺(高取町)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)が、夢のお告げで現在地の音羽山で建立。当時この一帯には渡来人が多く住んでいたそうです。鞍馬寺は770年、唐招提寺でおなじみ鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)がやっぱり夢のお告げで鞍馬山に建立。この2つは南都(奈良)の僧が作ったんですね。

 広隆寺は603年に秦一族の秦河勝が聖徳太子から仏像を譲り受けて建立したといわれます(一説には622年の聖徳太子没年に供養のために建立されたという)。秦氏は歴史教科書でも習ったとおり、秦(中国)から朝鮮半島を経由して渡来した漢民族系の帰化人といわれ、今の太秦・嵐山あたりに住み着いて、養蚕、機織、酒造、治水など産業インフラを担った一族。酒造神・松尾大社は桂川の治水拠点として秦氏が建立したのです。

 延暦寺は788年に最澄が比叡山に建立。大津の坂本はもともと最澄の生まれ故郷で、唐に渡って修行して実家に戻ってきたって感じかな。広隆寺と延暦寺は同じ渡来系といえるわけですが、比叡山延暦寺の存在が際立ったのは、南都仏教からの❝独立❞を果たしたからです。

 当時、仏僧は国家資格であり「戒壇」という儀式が必要で、戒壇院は日本に3か所(奈良東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)しかありませんでした。天台宗を開いた最澄は独自に僧を育成するしくみを作ったものの、南都仏教派から猛反発を受け、最澄没後7日目に嵯峨天皇からお許しを得たとか。でもこれによって延暦寺はその後の日本仏教の総合研修大学みたいなポジションとなり、10~13世紀にかけ、良忍(融通念仏宗)、法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)等などお馴染みの宗祖を輩出しました。彼らはみ~んな延暦寺で修行したんですね。すごい!

  延暦寺戒壇院

 

 

「東寺」「神護寺」「禅林寺(永観堂)」「勧修寺」「仁和寺」「醍醐寺」

 平安時代になって仏教は国家公認となり、官寺=国立のお寺として作られたのが東寺。定額寺=天皇や権力者個人が私的に建てた寺が和気清麻呂の神護寺、清和天皇の禅林寺、醍醐天皇の勧修寺でした。その後個人から一族の寺へと定額寺を発展させたのが仁和寺、醍醐寺など。お寺を好き勝手に建てられないのは、当時、僧侶の人数や配置を国で決めていたため。今の医師免許と似ていますね。当時最高の学問を身に着け、心身の治療や癒しが出来るお坊さんって、お医者さんみたいな存在だったわけです。ちなみに京都ってたびたび戦火に見舞われていますが、創建当時とまったく同じ場所で現存しているのは東寺と神泉苑だけなんですって。

 

「顕密諸宗」

 平安末期~鎌倉時代以降、顕密諸宗といわれる南都六宗(オープンな宗派)&天台・真言八宗(密教派)が発展します。各宗寺院は「寺に土地を寄進すれば免税になるぞ」と呼びかけ、全国に荘園を拡大。なんでも今の新潟県は大半が東大寺の荘園だったそう。興福寺や延暦寺などは荘園が強力な経済基盤となって独自に武力を有し、幕府に対抗できるまでになりました。ちなみに源義経が頼朝の追手から逃れられたのもお寺がバックアップしてくれたから。弁慶のように僧兵が頭巾をかぶって顔を隠すのは「オレたちは神仏の使いだぞ」って威厳を示すためだそう。

 

「五山官寺」

 室町時代になると禅宗が興隆し、五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺/南禅寺)が顕密諸宗に並び立つ存在となります。戦国時代には本願寺教団・法華宗(日蓮宗)が力を持ち、応仁の乱や天文法華の乱(延暦寺と日蓮宗の宗教戦争)で京都が焼け野原になった後は、豊臣秀吉が今の京都の景観を創り上げました。復興工事で地面から大量に出土した石がお地蔵様に見立てられ、京都では地蔵盆が盛んになったとか。

 

「徳川幕府の教団再編」

 江戸時代、徳川政権は寺院の力を封じ込めるため、仏教の諸制度を確立させます。檀家制度、葬式の華美化、年忌法要、寺社参詣の大衆化、寺院御用書林=仏教専門書の出版事業など、現代仏教の基礎は徳川が創り上げたもの。檀家制度は戸籍の基となり、葬式や法要などの決まり事を細かく制定することでコミュニティの統制化をはかりました。

 

「神仏分離・廃仏毀釈、初詣ブーム」

 明治維新は前政権(徳川)を全否定することから始まりました。明治新政府が目指したのは神道の国教化。寺院は廃合となり、僧侶や修験者は還俗させられ、全国に廃仏毀釈の嵐が巻き起こりました。南都仏教の雄であった興福寺は僧侶全員が還俗させられ、五重塔が25円で売り飛ばされたというのは有名な話。その後再興したものの、寺にあるべき壁や塀がない。今の奈良公園のオープンな姿は、興福寺からしてみたら屈辱的なんだそうです。

 しかし神道の国教化は思うように進みません。神官は布教・宣教活動に不慣れだったため、説法慣れした僧侶の力を頼ることになり、結局、神道国教化は頓挫。修験道や陰陽道といった伝統的習俗は廃れていきましたが、仏教側も宗派別に大学を設立するなど新時代への適応をはかったのでした。

 

 ところで現代人が宗教を最も身近に感じる日と言えばお正月の初詣。これって実は明治中期に鉄道会社が仕掛けてメジャーになった習慣です。東海道線が開通したことによって川崎大師がアクセス至便となり、それまでの「恵方詣り」「21日の初大師」と差別化するため、「初詣」という言葉を創り出したんだそうです。京成や国鉄成田線が開通すると成田山新勝寺も人気初詣スポットとなり、鉄道会社が正月の参詣客を引っ張り込むため、あれこれサービス合戦を始めたとか。恵方巻やバレンタインデーもしかり、日本人は仕掛けに乗っかって、ちゃっかり習慣にしちゃう天才ですね(苦笑)。

 

 仏教が、神道と上手に融合し、廃仏毀釈の憂き目に遭っても生き残ったのは、得体の知れないパワーを洗脳するような宗教とは違い、ちゃんと「説明」できるロジックを持っていたからだろうと思います。仏教史をたどると、荘園で経済力を蓄えたり権力者にすり寄ったりして小賢しいと感じることもありますが、人間の行動原理にある意味忠実で、清濁併せ呑む懐の深さ(=したたかさ)も。泥の中でも花を咲かせる蓮の強靭さを見習いたいと思います。

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私流・藤枝道中膝栗毛

2017-02-14 20:14:15 | 歴史

 今月は東海道の宿場町に残る食文化を調査しています。江戸時代の東海道の食レポといったら、やっぱり弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』。岩波現代文庫から出ている劇作家伊馬春部さんの現代語訳を参考書代わりに通読中で、藤枝宿で御馳走詐欺に遭ったエピソードに爆笑しました。

 まず岡部~藤枝間の書き出しがこちら。

 名にしおう遠州灘は波もたいらかで、街道の並松も枝も鳴らさず、往来の旅人はたがいに道をゆずりあい、泰平の世を謳歌している。荷馬引く馬士(まご)の小室節のどかに流れ、宿場人足はその縄張りを争わない。雲助輩も駄賃を強請らずして盲目もひとりで歩き、女どうしのかよわき旅路や、お伊勢参りの子どもにいたるまで、強盗人さらいの憂き目にあわず、かかるありがたい御聖代にこそ、東西に走り南北に遊行する。漂泊のたのしみはなんとも言えぬものがある。

 

 素晴らしい書き出しですね。東海道のプロモーションビデオみたいに当時の旅人の様子が浮かび上がってきます。今の国道1号線やバイパスが何と味気のない道でしょう…。

 藤枝宿で御馳走詐欺に遭ったところを意訳すると、

○宿場の入口で風呂敷包みを肩に結んだ田舎親仁に出合い、馬が跳ねた拍子に喜多さんとぶつかって、喜多さんは水たまり(馬の小便だまり)に転ぶ。

○ブチ切れた喜多さんが親仁に田舎モンが!と罵詈雑言を浴びせ、親仁も「そこまで言われる筋合いはない」と口論になったところで弥次さんがなだめる。

○町はずれの茶屋で親仁と再会。親仁は無礼を詫び、茶屋で酒を一杯振る舞いたいと申し出る。先を急ぐからと断るが、否応なしに店の奥に通されてついつい御馳走に。

○酒の共に「たたみ鰯のせんば煮」「かぼちゃの胡麻汁」「さつまいもの和え物」「伊勢海老」「刺身」「たまごふわふわ」等々、親仁に悪いなあ~と言いつつ手当たり次第食ってしまう2人。

○親仁が便所に立った隙に、喜多さんは弥次さんに「おいらがあの親仁をいじめてやったおかげでおめえまでゴチになれたんだ、おめえの食い分はおれに払えよ」と図々しい指示。酒もありったけ吞んじまおうと茶碗に注いでグビグビ。

○親仁がなかなか便所から戻ってこない。女中に「親仁は勘定を済ませて行ったか?」と訊くと、「いいえまだです」と。「一杯くったか!」と血相変えた喜多さんが外に飛び出すが親仁は行方知れず。

○弥次さんは「てめえに意趣返ししたのだわな。うまいこと謀らみやがった」と感心し、「御馳走とおもひの外の始末にて腹もふくれた頬もふくれた」と一首詠む。

 

 ここに登場する御馳走のサンプルが、藤枝市下青島の『千貫堤・瀬戸染飯伝承館』に再現されていると知って、さっそく行ってきました。

 

  ガラス越しでの撮影で見えづらいと思いますが、今のちょっとした料亭なんかで頼んだら結構な値段になりますよね。

 

 私が注目したのは「たまごふわふわ」。これって袋井宿の名物だと思っていましたが、よくよく調べてみると卵料理の原型みたいなもので、昔は支配階級の饗応料理だったのが江戸時代には一般にも食べられていたそう。1813年頃の大阪の豪商の旅日記で、袋井宿で朝食に出てきたという記述を袋井市観光協会が見つけ、袋井の新名物にしたんですね。今ではゆるキャラまで作って地域全体で盛り上げています。

 江戸最大のベストセラー東海道中膝栗毛(1803~09年出版)にこれだけしっかり描かれていたのに藤枝市観光協会は「うちには瀬戸の染飯があるから」とスルーしちゃったのかな?

 

 

 

 同館は藤枝市指定史跡・千貫堤を活用し、江戸時代の名物・瀬戸の染飯を伝える目的で平成21年に開館。千貫堤とは再三氾濫した大井川の防波堤として、寛永12年(1635)に田中藩主水野忠善によって築かれた堤防で、一千貫(約1億円)の経費がかかったため、その名が付けられたそうな。

 染飯は瀬戸村の名物で、強飯をクチナシの実で黄色く染めてすり潰し、小判形に薄く延ばして乾かしたもの。クチナシの実には消炎・解熱・鎮痛・利尿等の薬効があって旅の携帯食としても人気だったそう。今はどうかといえば、袋井のたまごふわふわは地域の食堂や居酒屋で地元B級グルメとして積極的にアピールしているのに比べ、藤枝で染飯を定番メニューにしている店はとんと見かけません。伝承館と銘打つぐらいだから買って帰れるのかと思いきや、ウォーキングイベントのときにたま~に作るぐらいだとか。館員さんに思わず、「ここに食堂を併設するとか持ち帰り用に売るとか、もっとアピールしてくださいよー」と言わずにいられませんでした。

 

 

 同館には上青島~下青島を貫く旧東海道の歴史が写真展示で紹介されていました。千貫堤は、①瀬戸山~八幡山を結ぶ全長270m、②藤五郎山と本宮山を結ぶ全長150m、③本宮山と八幡山を結ぶ全長110mで構成されていましたが、明治以降、東海道線の敷設や田畑開墾、戦後の宅地化で大部分が消滅し、伝承館が立つ約65m幅30mの部分のみ残っています。瀬戸山と藤五郎山はすっぽり削られ、東名高速道路の建設現場で主にのり面に使われたそうです。

 千貫堤・瀬戸染飯伝承館パンフレットより

 

 弥次喜多さんは左端の「瀬戸の立場」と記された繁華街で御馳走詐欺に遭ったようです。さらに西へ進むと青島酒造があって、蔵が立つT字路を右に折れ、国道1号線をまたぐと「岩田神社」に突き当たります。

 岩田神社は西暦646年の創建。藤原鎌足が蘇我入鹿を誅抜した大化の改新の際、諸国平定鎮護のため、伊勢神宮の御分霊を勧請して建てられた神社です。江戸時代には3代将軍家光から3石5斗と竹山林を社領とする朱印状が与えられ、14代家茂の代まで続いたそう。伊勢参りの人々が大井川の川留めに遭った際、この神社に代参し帰郷したといわれ、無事、伊勢参宮を果たした人は、この神社にもお詣りしなければ「片参り」と言われたそうな。弥次喜多さんはお参りしなかったのかなあ・・・。

 青島酒造はちょうど岩田神社の参道に位置し、今でも初詣では青島酒造の酒粕の甘酒が振る舞われます。家系図や創業時の史料を預けてあった菩提寺が焼失の憂き目に遭い、昔のことはほとんどわからないそうですが、おそらく元禄期の創業のよう。岩田神社の門前蔵として地域に欠かせない存在だったと思います。

 元日も休まず酒造りを行う青島さんたちは、日中、時間を見て初詣に行かれます。こちらは以前、元日酒造に密着したときの写真です。

 

 

 青島酒造からさらに西へ進むと、一里塚跡があります。千貫堤・瀬戸染飯伝承館には昭和32年頃の一里塚付近の写真が展示してありました。こんな街道の一角に青島酒造があったんだと思うと、300年近く酒造の灯を守り続けている青島家の存在意義は途方もなく尊い、と実感します。

 

 さらに同館には「新幹線誕生の町」という興味深い写真が。

  1959年(昭和34年)7月31日16時07分30秒、瀬戸踏切付近で特急こだまが時速163㎞という当時の世界最高速度を記録しました。東海道新幹線の開業を前に、大井川鉄橋~藤枝駅区間で高速度試験を行っていたのです。志太平野がほぼフラットな土地で、東海道線も、ある程度の距離をほぼ直線で敷設できたからのようです。これはこれで、日本の鉄道史に遺る偉業ですよね。

 

 弥次喜多さんの時代には遊行や漂泊の愉しみを謳歌できた東海道。道の主役が人から鉄道、モータリゼーション、新幹線へと移り変わり、〈時短〉の替わりに得たものが本当の豊かさと言えるのか、東海道中膝栗毛を改めて読み返してみて、ちょっぴり考えちゃいました。「この町は、新幹線開通に多大な功績を残しても、新幹線が素通りしてしまって、宿場町の伝統や資産を活かす機会を失ってしまったのでは…」と。

 

 実は私がこの地域にこだわる理由は、お酒がらみでもう一つあります。

 白隠禅師のお弟子さんで、白隠亡き後、松蔭寺の住職を継いだ遂翁元慮和尚。この方、お酒が大好きで、松蔭寺を継ぐとき、本当は自分の号を「酔翁」にしたかったそうですが、大本山妙心寺から「やめとけ」と言われたとか(笑)。白隠さんのもとで修行していた頃は、坐禅もしなければお経も読まず、葦原の西青島というところに庵を構え、夜中にこっそり参禅していたという風変わりな和尚さんだったそうです。

 この葦原の西青島というのが、どうやら藤枝市上青島のことらしく、「(青島酒造のある)藤枝から(高嶋酒造のある)沼津の原まで歩いて通ってたのか!」とビックリしちゃいました。白隠さんが自分の後継者と認めた非凡な人物だったわけで、上青島のどの辺に庵があったのか、なぜ上青島に庵を結んだのか、探求してみたいと思っています。遂翁の名は白隠さんのお弟子さんたちのエピソードをまとめた『荊刺叢談』という古書にしか残っていないようですが、原も上青島も古い宿場町ですから古いお宅に何かしら残っていないかな。こういう調査をネチネチやるのがローカルライターの矜持かな、なんて思ったりして。

 

 伝承館の館員さんから、来る3月19日にこの一帯を廻るウォーキングイベントのお誘いをいただきました。まずはしっかりよく歩いてみて、道の魅力とは何かを体感しようと思います。興味のある方は是非ご一緒しませんか。(以下へお申込み下さい)。

 

 

 

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私流かしこい酒粕&活用法

2017-02-06 08:46:56 | 地酒

  新酒が続々と出回るこの時期、酒が搾られるということは、酒粕もたんまり出る!わけで、当ブログにも「酒粕」検索してこられる方も増えています。そこで改めて酒粕についての考察をまとめてみました。

 

 静岡県の酒蔵では、原料の米を徹底的に洗ってきれいな蒸し米を造り、その蒸し米からいい麹、いいもろみを醸し出す。当然、酒を搾った残りの酒粕も雑味が少なく、風味が素晴らしい。蔵元によっては、もろみ100のうち、5割以上を酒粕にしてしまい、酒は搾りに搾った真の滴だけ・・・というこだわった造り方をしています。昔は酒粕が多い=酒が少ない=下手な造り方というレッテルを貼られたそうですが、今は180度評価が変わりました。経営者が杜氏になるケースが増え、こういうぜいたくな酒造りも可能になったんですね。当然、原料にもこだわりの酒造好適米を使っていますので、酒粕がいいのも当たり前、というわけです。

 

 写真左は吟醸バラ粕。吟醸酒はもろみを酒袋に入れて積み上げ、上からゆっくり圧力をかけて、自然に搾り出てくるのを溜める、という方法をとることが多いので、酒袋に残った粕もふんわりしっとりしています。期間限定ですが蔵元や地酒専門店で入手できます。吟醸酒の風味が残っているので、私はドリンクや鍋など“汁物”に使うようにしています。冷凍すれば1年は保ちます。

 写真中央は板粕。吟醸酒よりも精米率の低い酒は、ヤブタというアコーディオンのような搾り機で強制圧縮させて搾ります。圧力が強い分、酒粕も板状になります。

 写真右は板粕を3年冷蔵保存したもの。ナッツやチョコレートボンボンのような風味になります。これが意外に調味料として重宝するんですね。味噌やチーズなど他の発酵食品との相性もGOOD! 酒とみりんを加えてペースト状にすれば、粕漬の床になります。粕漬床は冷蔵保存し、1ヶ月ぐらいで使い切ってください。

 

 

 しずおか地酒研究会では、2004年の浜名湖花博「庭文化創造館」で、真夏の『雪見の庭』を眺めながら、静岡の蔵元が持参した酒粕を使って冷やし甘酒を提供し、多くの方に喜ばれました。このとき、酒粕の効能についていろいろ資料を集め、調べてみたところ、目からウロコのネタばかり! それまでは何といっても酒が大事で、粕は眼中になかったため(笑)、猛省させられました。

 そもそも酒粕とは、酒のもろみを搾った後、役目を終えた酵母や、清酒にならなかったデンプン、たんぱく質、ビタミン類のかたまり。脳の活性化に効果のあるグルタミン酸、疲労回復に効果のあるアスパラギン酸、メラニン生成を抑制するシステイン、体内で合成できない必須アミノ酸のロイシン(肝機能強化)、リジン(脂肪燃焼や鎮静作用)、アルギリン(免疫力向上)等、20種類以上のアミノ酸がバランスよく含まれます。米に比べ、アミノ酸の総量はなんと583倍。ビタミンB2は26倍、B6は47倍というグレードです。 

 アミノ酸が豊富ということは、肌の保湿力や美白効果を促進してくれます。もちろん頭髪にもいい。さらに、アレルギー症状をやわらげ、高血圧抑制やボケ防止にも効果があるといわれる優秀な酵素ペプチド、ヨーロッパでは抗うつ剤に使われるS-アデノシルメチオニン等の有効成分も。

 

 今、酒粕の有効成分として注目されているのが、2010年秋にNHKためしてガッテン酒粕特集で紹介された「レジスタントプロテイン」。食物繊維のように消化されにくい性質を持つたんぱく質で、体内に入ると、消化されずにそのまま小腸に行き、食物の脂質と結びついて、そのまま体外へ排出させるというのです。排出=大便はいつもより脂質が多くなるので、お通じがスルッとなって、便秘改善 → ダイエットの味方!に。

 脂っこいものを食べるとき気になる“悪玉コレステロール”も、レジスタントプロテインが抱え込んで排出してくれるので、コレステロール数値が下がり、血液がサラサラ → 動脈硬化予防につながります。自分は手遅れだけど(涙)、20~30代の早いうちから常食しておけば、成人病のリスク軽減になると思います。ぜひ酒粕を常備食材にして、賢く利活用してください。

 

 

 2004年の浜名湖花博ではキッチンディレクターの田米嘉宏さん(浜名湖ロイヤルホテル調理部)が甘酒作りや酒粕デザートレシピを担当してくれました。日ごろお世話になっている蔵元の奥様たちからも、アイディアレシピを教えてもらっていますので、いくつかご紹介すると―

 

甘酒の作り方/酒粕350gに対して、水1ℓ、上白糖140g、塩小さじ2分の1を用意。酒粕を鍋に一度に入れると焦げやすいので、ボールなどで少量ずつ溶かして鍋に移し、最後に上白糖と塩で味付けすると、上手に仕上がります。最近は甘酒ブームで甘酒用麹がたくさん出回っていますので、砂糖を使わず、酒粕と麹を半々ずつにして、麹の自然の甘みで仕上げてもよいと思います。

 

☆豆乳甘酒/甘酒を作る時、水を豆乳にします。レジスタントプロテインに大豆プロテインが加わり、強力な健康ドリンクに! 私は、新鮮な吟醸粕が入手できたときは、ミキサーに豆乳200CC、酒粕20グラム、ハチミツ少々を入れて攪拌させ、スムージー感覚で飲んじゃいます。加温すると死滅しちゃう酵母が活かされるし、風味もバツグン。朝の快便間違いなし! ただし微量ですがアルコール分がそのまま残りますので注意してください。

 


酒粕ピザ/板状の酒粕にとろけるチーズを乗せてオーブントースターで6~7分。トースト代わりになります。バラ粕ならギョウザの皮に乗せて、ハーブソルトとオリーブオイルをふりかけ、トースターで3分。簡単なおつまみになります。

 


☆酒粕と味噌のカナッペ

材料/フランスパン、酒粕30g、田舎味噌20g、上白糖10g、万能ネギの小口切り大さじ1、日本酒大さじ1)

①フランスパンを5ミリ厚に切ってオーブンで軽く空焼きします。

②酒粕、味噌、上白糖、日本酒、ネギを混ぜ合わせます。一緒に呑む酒の味に合わせて甘さを加減するとよいです。個人的には、ちょっと砂糖多めにするほうが酒の味がひきたつかなあ…。

③パンに②を塗り、オーブンで焼き色が付くまで(7~10分程度)焼きます。和風に徹したかったら、パンを油揚げに代えてもOK。

 

 

酒粕サブレ(60~70個分)の作り方/酒宴向けのひと手間かけたデザート。バター60gを常温に戻し、酒粕150gとなじませ、グラニュー糖200gを加える。振るった薄力粉250gを加えて、こねずにざっくり合わせます。棒状に伸ばして適当な数に切り、160度のオーブンで10~15分焼きます。 

 

☆かんたん酒粕鍋/冬の寒さはコレでしのいでいます。土鍋に湯を沸かし、こぶ茶(だし代わり)、酒粕、味噌少々を融かし、適当に具材を煮込むだけ。とくにお気に入りの芽キャベツは甘さがグンと増します。こぶ茶をコンソメに代え、酒粕+味噌+バター+牛乳でホワイトシチューにしてもよし。

 

 

 ちなみに、酒が残っているときは、思い切って『美酒鍋』にしています。土鍋に油をひいてにんにくを炒め、香りが出たところで肉を炒め、火が通ったら野菜を加え、塩コショウする。ざっくり火が回ったところで日本酒を鍋半分ぐらい入れてだし醬油(めんどくさいので顆粒状だしの素をふりかけ+しょうゆ)で味付けし、煮込む。むちゃくちゃ体が温まりますよ。

 

 NHK『ためしてガッテン』が酒粕の有効成分について取り上げて以来、酒粕イコール健康食品のイメージが定着したことから、東広島にある独立行政法人酒類総合研究所でも酒粕の機能性成分について本腰を入れて研究し、新しい有効成分を発見しました。4年前、研究発表会を聴講したときのメモをまとめてみます。

 

 注目される高機能性成分とは、S-アデノシルメチオニン(SAM)と葉酸。SAMは清酒酵母が高含有する成分で、肝障害、ウツ、関節炎を防ぐ効果があり、欧米ではサプリメントとして広く知られています。国内産のサプリメントは2社から発売されており、いずれも清酒酵母から成分採取されているそうです。

 葉酸は欧米では子ども向けのシリアルにも使われる高機能性成分で、妊婦の滋養に効果あり。先進国では日本だけ摂取量が低いといわれるものです。

 

 酒粕に含まれるSAMは、豚レバーの約27倍(最大で116倍)、葉酸はホウレンソウの約0.8倍(最大で2.5倍)。最大値との数値に開きがあるのは、サンプルに使われた酒粕の違いによるものです。たとえば酒の主要成分であるタンパク質は、普通酒では14.4%、大吟醸では5.5%、液化仕込は25.3%というように仕込み方法の違いによって酒粕にまで成分の差がハッキリ出るんですね。とくに酒粕をあまり出さない液化仕込と、酒粕をもろみの5割以上出す大吟醸では、極端な差があります。

 そんなこんなで酒粕の成分検査は、複雑かつ判断が難しいようですが、酒粕の有効成分が話題になる中、あらたにSAMと葉酸の高含有が科学的に解明され、ますます頼もしく感じました。

 

 SAMや葉酸は、酒粕を冷凍保存(マイナス30℃)することで長期保存でも含量が損なわないようです。とくに酒粕を凍結乾燥させると安定性が劇的に向上する。凍結乾燥の酒粕が機能性食品として開発される日も必ず来るでしょう。

 後日、東京のある酒宴で、偶然、NHKためしてガッテンの酒粕特集を担当した番組ディレクターとお会いし、さっそくこの話をして酒粕特集第2弾を、とアピールしたんですが、そのディレクター氏、ほどなく異動になってしまったとか。・・・せっかくの研究成果ですから、酒類総研はうまくメディアを活用し、発信してほしいと思います。

 

 さて昨年末に発売された『杉錦生酛特別純米・しずおか地酒研究会20周年記念酒』の生原酒バージョンに続き、2月1日には加水火入れした通常バージョンが発売になりました。ラベルは、明治~大正頃、生酛を造っていたであろう蔵元杉井均乃介さんのご先祖をイメージし、鉛筆画で描かせてもらいました。冷酒でも常温でも燗でもダラダラ呑める懐の深い日常酒です。

 価格は4合瓶で1512円、一升瓶で2916円。取扱店は前回の生原酒バージョンより少し増えるようで、蔵元の方で今週中に取扱店リストをまとめてくださる予定です。追ってご連絡しますので、どうぞよろしくお願いします。

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磯自慢入手顛末記

2017-01-31 00:03:48 | 地酒

 昨年末、1年間続けた『しずおか地酒研究会20周年記念イベント』が一段落した後、緊張感が抜けたせいか風邪でダウンし、完治しないうちに忘新年会に出歩いたり、カルチャーや公民館の地酒講座をこなしたため、珍しく胃腸を壊し、ほぼ1か月ずーっと体調不良でした。

 この間、ブログ更新も滞ってしまいましたが、通常と変わらない数のアクセスで、多くの方に過去記事を閲覧していただきました。本当に心より感謝申し上げます。

 心機一転、テンプレートデザインを変えてみました。遅まきながら、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 先日、仕事でお世話になっている方から得意先に地酒を贈りたいと相談を受け、ヴィノスやまざき本店にご案内しました。そこで久しぶりに入手したのが、ヴィノスやまざきオリジナルの磯自慢撰抜本醸造。この酒にはちょっとした思い出があるんです。

 


 以下は、4年前の2013年2月1日に静岡オンラインさんのポータルサイト・日刊いーしずのコラム枠に寄稿したものです。磯自慢がなぜ入手困難になったのか、この30年の静岡の酒の歩みを踏まえ、私なりに考察したもの。一部修正し、再掲してみます。



 

磯自慢入手顛末記

 2012年末のことです。沼津の観光記事を書くため、昔からお世話になっていた沼津市内の某社長のもとへリサーチに行ったとき、その社長さんから「磯自慢が手に入らなくて困っている」と言われました。暮れのギフトでどうしても必要だが、沼津市内の酒販店では必要本数が入手できないと。磯自慢の取扱い販売店では全国どこでも「お一人様1本限り」の断り書きが貼ってあるんですね。

 今や、静岡が誇るトップブランドとなった『磯自慢』。平成元年2月に初めて取材した思い出深い酒蔵で、蔵元の寺岡洋司さんとも30年近いおつきあいになります。でも、いくらつきあいが長いからといっても、ただの酒呑みライターが「1本限り」の原則を曲げることなんて出来ません。

 沼津の社長さんからは「困っている」と言われただけで、「手に入れて」と頼まれたわけではありませんが、地酒のことで困っていると聞けば何とかしたいし、恩ある社長さんに報いるにはそれしかないだろうと、県内で磯自慢を取り扱う酒販店1軒1軒を回ってかき集められるだけ集めて社長さんに届けました。必要本数には届かなかったものの、とりあえず社長さんのホッとした表情が見られて、こちらも肩をなでおろしました。と同時に、改めて、『磯自慢』という酒のブランドパワーに息を呑む思いがしました。

 30年前は地元焼津を除けば、よほどの酒通でなければ海苔の佃煮かふりかけの名前だと思われていたかもしれません。なぜ、これほどまでに入手困難になったのか、これまでも、いろいろな人から訊かれました。某百貨店の社長さんからは直々に「なぜ百貨店で磯自慢を取り扱えないのか」と詰問され、自分が軽々に応えるのはまずいと思い、寺岡さんに「どうお返事しましょうか」と相談しに行ったこともありました。


 テレビコマーシャルで大々的に宣伝する大手ブランドとは違い、地方の、ましてや酒どころのイメージのない静岡の地酒の場合、蔵元自身の広報力だけでブランドパワーを獲得するのは至難の業です。加えて日本列島のほぼ真ん中の、東海道ベルト地帯にある静岡は物流が発達しているので、全国津々浦々から有名地酒が入ってきます。静岡県内で呑まれる日本酒のうち、県産酒のシェアは実は2割以下なんですね。

 戦後の高度経済成長時代は黙っていても日本酒が売れていた時代でした。卸問屋や小売店にしてみれば、注文した量をすぐに納入してくれる、ついでにおまけしてくれる、サービスで看板を付けてくれたりする県外の大手酒蔵を重宝します。

 一方、そんな“余力”のない県内中小酒蔵は、造った酒のうち、地元で細々売る以外は、灘や伏見の大手酒蔵に桶売り(OEM供給)するなどして、必死に生き残りを図っていました。やがて大手が輸送コストのかかる桶買いをやめて自主生産体制を整えると、桶売りに頼っていた酒蔵は自立、事業縮小、あるいは転業・廃業の選択を迫られます。

 このとき自立の道を選んだ酒蔵は、量より質にギアチェンジし、それまでコンテスト用に少量試作していた吟醸酒の市販化に取り組みました。これを強力に後押ししたのが、静岡県工業技術センター開発の『静岡酵母』。昭和50年代後半~60年代にかけ、県内酒造業がドラスティックに構造転換した時代でした。

 

 磯自慢酒造は、桶売りに頼らず、一貫して『磯自慢』として造り続け、売り続けてきた蔵でした。地元焼津は新鮮な海の幸の宝庫。口の肥えた客や料理人が集まる日本有数の港町、という土地柄も手伝い、蔵元の酒質に対する意識は大いに磨かれていたのでしょう。

 しかし焼津から一歩外へ出れば、酒の市場は荒波の渦。家業に入る前、酒の流通会社で修業をし、市場の渦の激しさを目の当たりにしていた寺岡さんは、「うちも一層、質を磨いていくしかないが、品質を上げれば黙っても売れるほど世の中は甘くない。市場に認知され、信頼される努力をしなければ」と実感します。蔵に戻るや次々と蔵の改造・改築に着手し、暖地静岡のイメージリスクを払拭するような、完璧な低温管理醸造所を創り上げました。

 同じ頃、同様に、テレビコマーシャルで名の知れた銘柄を並べておけば黙っていても売れる時代ではない、卸問屋に依存し、他店と同じ商品を並べるだけでは価格競争に巻き込まれる、と危機意識を持った小売酒販店がいました。それが、東京の「はせがわ酒店」、静岡の「ヴィノスやまざき」等、磯自慢の名パートナーとなった酒販店です。彼らは卸問屋に頼らず、小さいながらもキラリと光るダイヤの原石のような地方の蔵を自らの足で発掘し、リスクを分かち合いながら必死に営業努力を重ねました。

 自分の酒を無名の頃から買い支えると言い切ってくれた、そんなパートナーへの恩を、寺岡さんは今でも大切にし、生産量や新規取引先を無計画に増やすようなことはしません。

 

 2008年のG8北海道洞爺湖サミットの晩餐会乾杯酒に選ばれたことで、磯自慢の人気にさらに拍車がかかりました。サミット酒=日本を代表する国酒、という最上級のブランドパワーがついた以上、品質は絶対に落とせませんし、品質を落とせないという理由で量を減らすことも出来ないでしょう。

 ブランドとは、高い品質を安定供給できる信頼の証。現場の杜氏さんや蔵人衆の肩にかかるプレッシャーは相当なものだと想像しますが、現場の皆さんは蔵を訪ねるたびに意気揚々と迎えてくれます。緊張の中にも、期待されることへの充足感があるんですね。「働き甲斐のある仕事場なんだな」と、こちらもワクワクしてきます。そんな現場を作り上げた寺岡さんは、私が知る限り、国酒にふさわしい日本屈指の酒造家だと明言できます。

 

 

 2012年末、私が磯自慢を求めて県内酒販店を駆けずり回っていた頃、寺岡さんの名パートナーだったヴィノスやまざき(静岡市葵区常磐町)の山崎巽会長が亡くなりました。

 山崎さんは、私が初めて手がけた新聞全面広告のスポンサーであり、「マユミさんの思い通りに作ってみなさい」とチャンスをくれた、私にとっても得難い恩人です。毎日新聞で199798年に連載していたコラムでは静岡酒の功労店として似顔絵付きで紹介。一線を退かれた後も、時折、「最近の酒の事情を聞きたい」と連絡をもらい、お茶を飲みにうかがったりしていました。

 2013年1月8日に執り行われたお別れの会には風邪で体調を崩して参列できませんでしたが、2日後、東京の広尾へ取材に行ったとき、ヴィノスやまざき広尾店で磯自慢のやまざき限定新酒を見つけ、思わず購入してしまいました。

 取材先というのはドイツ大使館。静岡県広報誌の看板企画・川勝知事と各国大使の対談コーナー取材です。訪問時には手土産として、編集スタッフが静岡県産マスクメロンを用意するのが常でしたが、対談で食の話題になると、知事は「わが県には、洞爺湖サミットで乾杯酒に選ばれた名酒がある」と自慢げに話されることがあるので、迷惑にはならないだろう、と、買ったばかりの磯自慢を手土産に加えてもらいました。

 案の定、知事は満面得意顔で「サミットの酒です!」と大使に差し出したものの、実は、私が買った限定新酒というのは、サミットで使われた最高級の中取り純米大吟醸35ではなく、ハウスワイン価格の本醸造。ヴィノスやまざき広尾店はドイツ大使館の目と鼻の先ですから、行けば、バレバレです(苦笑)。

 それでも、磯自慢という酒は本醸造だろうと大吟醸だろうと、日本を代表する国酒に違いない、その称号にふさわしい経営努力を寺岡さんはされてきたのだという私なりの確信があってのこと。その素晴らしい酒をテーブルヌーヴォーとして手軽に味わえるようヴィノスやまざきが企画した、ある意味、お宝な逸品です。こうして取材前に偶然手にしたのは、山崎さんが天空から呼びかけてくださったのでは、と思いました。

 知事のニコニコ顔を見ていたら、磯自慢のような造り手やヴィノスやまざきのような売り手が地元に存在することが、静岡の酒全体のブランドパワーをどれだけ押し上げたのか計り知れない、と実感しました。今、磯自慢の取扱いのない酒販店の中にも、自分が惚れた酒を全力で買い支えようと努力する若い酒販店主や、彼らが開拓した飲食店主が数多く育っています。飲み手の私たちがいいお酒にめぐり合うチャンスとは、いい売り手との出会いに他なりません。山崎さんは生涯をかけ、そのことを実証してくれた先達でした。

 

 対談取材が終わって大使館の門を出たとき、夕闇に染まる空を見上げて、「今日、広尾店にはたまたま本醸造しか置いてなかったんですが、大丈夫ですよね」と、手を合わせました。山崎さんは「うちが全力で売る酒に文句は言わせない」と応えてくれるはず・・・そう、確信しています。

* 『磯自慢』の取扱い店はこちらの公式サイトをご参照ください。

 

 

 私をこの世界に導いてくれた栗田覚一郎さん(元静岡県酒造組合専務理事)、竹島義高さん(静岡県の大吟醸を初めて客に飲ませた入船鮨常務)、ヴィノスやまざきの山崎巽会長、静岡酵母の河村傳兵衛先生・・・戦前戦中生まれの骨太頑固オヤジたちは、今ごろ天国で、「次はだれがやってくるのか」と手ぐすね引きながら、杯が乾くまで酒盛りしているかもしれません。「あと30年は待たせますよ」と宣言しておきたいところです。

 

 

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河村先生の遺産(その2)伊豆のみかんワイン

2016-12-28 20:55:21 | 地酒

 今年2016年も暮れようとしていますが、私にとっての2016年は、ライターの仕事を始めてちょうど30年という節目の年でもあります。静岡新聞社発行のタウン誌のスタッフライターとしてデビューし、フリーランスになって最初に定期的に請け負った取材業務のひとつに、静岡県下の農協の直販宅配ガイド『四季ORIORI』がありました。

 平成元年(1989)8月発行の『四季ORIORI第7号』では県下10農協の特産品を紹介しており、伊豆東農協のページでは特産のニューサマーオレンジ、夏みかんサワー、そしてこの年に新発売となった『伊豆みかんワイン・ゆめ紀行』を取り上げました。

 「伊豆のみかんがおしゃれにドレスアップ」というダサいキャッチコピー(苦笑)は、当時の農協スタッフさんからなぜか気に入られ、カメラマンがイメージに合わせた写真も撮ってくれましたっけ。ちなみに真ん中のイラストマップは私の手描きです。これも今見ると、子どもの絵日記レベル(苦笑)。

 

 平成元年8月発行ですから、取材はその3~4か月前。ちょうどこの頃から静岡の酒の取材も始めていました。もっとも酒の取材は好きで始めたアテのない仕事でしたが、河村傳兵衛先生や栗田覚一郎さん(当時の県酒造組合専務理事)という面白いオジサマたちに勝手にくっ付いて行って、クセのある酒蔵や酒販店のおやじさんたちにからかわれながらも、静岡吟醸のビックリするような味わいにドキドキしたものでした。

 河村先生に「伊豆でみかんワインというのを作ったそうで、農協の雑誌の取材で行ってきました」とお話したら、「あれは私が開発したんだ」と言われてビックリ。先生から、素人が読んでもちんぷんかんぷんの技術論文を見せていただき、「まあワインも日本酒も似たようなもんか…」とスルーし、論文のことは記憶からすっかり消えていました。

 

 先月から取り掛かっているJAの情報誌で伊豆みかんワインを取り上げることになり、懐かしいなあと思っていた矢先に先生の訃報。それに呼応するように先生のみかんワインの論文のことが思い出されました。今なら多少理解できるかもと思い、頭に叩き込む意味で一部ここに書き込んでみます(具体的な数字や酵母の名称は伏せますね)。

 

ミカンワイン

 昭和47~48年、温州ミカンの農作により暴落した。このため生食以外の利用にミカンワインの試験醸造を行った。

 ミカン果汁の中には微量の酵母と細菌が存在し、殺菌剤を用いると菌を完全に殺菌することはできないが、菌の増殖を抑制した。試供した酵母はブドウ酒酵母2株、清酒酵母3株を用いた。清酒酵母は湧付が遅れたがワイン酵母は早く、ミカンワイン製造にはワイン酵母が適していた。

 温州ミカンの糖分は7~10%であるので、ワインを醸造するためには補糖し、糖濃度を26%まで高める必要がある。果皮を手で剥皮し、搾汁したパルパー果汁を用いたが、製成酒の香りはクセが少なく、味も淡麗で良好な品質であった。工場生産されているパルパー果汁、インライン果汁、逆浸透圧法果汁、真空濃縮果汁も用いてワインを醸造した。それぞれきき酒した結果、パルパー果汁のワインが最もよく、淡麗であった。インライン果汁と逆浸透圧果汁は精油分が多いため苦味を感じた。真空濃縮果汁のワインは香りが悪く酒質が最も劣った。いずれの製成酒とも酸味が強く、除酸する必要があった。

 静岡県のみかん果汁の酸度は1.0~1.2であり、他県と比較して高いため、100%果汁として飲みにくい。ミカンワインの酸度も、ブドウを原料としたワインに比較して5~6割多く、酸味を強く感じた。ミカンワインの有機酸はクエン酸が90%で、残り10%はリンゴ酸である。酸味を減ずる方法は、一般的にはアルカリ性試薬によって中和する方法である。中和剤として炭酸カルシウム、炭酸カリウム、炭酸ソーダ、アンモニアを用いてミカンワインの酸度を調製した。中でも炭酸カルシウムを添加して0.5%の酸濃度に調製したワインが最も良好であった。

 中和剤で酸味を減少させる方法では有機酸塩がワイン中に残存し、風味に悪影響を与える。ブドウ糖からのワインはマロラクチック発酵によってワイン中のリンゴ酸を乳酸やエタノールに変換し、味を丸くすることができる。ミカン果汁中のクエン酸を微生物によって分解し、減少させる方法を考え、クエン酸資化性の酵母をスクリーニングし、分離した菌株を定めた。

 ミカンワインのもろみ中にこの酵母とワイン酵母を添加してもほとんど酸度は減少しなかった。そこで先に果汁をこの酵母で発酵させ、クエン酸を消失させた後にもろみに添加し、発酵させると任意の酸度に調製することができた。製成したワインは無処理や中和法によるワインに比較して、丸みのある良質のワインとなった。

 賀茂郡東伊豆町の伊豆東ワイン㈱で昭和63年11月から製造し、現在は果汁42キロリットルで原酒80キロリットルを生産している。原酒に糖分、クエン酸、香料を添加して、アルコール8%の甘味果実酒を製造している。 

バイオテクノロジー研究調査報告書/平成2年3月 静岡県工業技術センター発行より

 

 

 

 ミカン農家に損をさせないために、なんとか売れる加工品にしよう、しかも「淡麗で丸くて良好」と、まるで静岡吟醸に匹敵するような美味しいワインを作ろうと、トライ&エラーを繰り返した河村先生の生真面目な姿が甦って来るようです。昭和40年代から始めた研究であれば、本当に地道にコツコツ研鑽を積み重ねてこられたんですね。

 

 思えば、河村先生の研究は、酒蔵やみかん農家が苦しい時に必要とされてきたものでした。農作物が原料だからすぐには成果が出ないし、研究室で成功したものを現場に落とし込んで定着させるには、現場が意識を共有してくれないと難しいでしょう。

 公務員ですから、民間企業のように結果が出なくて業績評価に響く、なんてことはないだろうし、異動になれば後腐れなし・・・で済ませることも出来たはずですが、私が知っている河村先生は、私が知っている公務員というカテゴリーには当てはまらない、妥協を許さない勝負師でした。その、他人にも自分にも厳しい生真面目さが時には軋轢を生んだこともありましたが、しっかりレガシーを残している。「公僕」という肩書が、これほどふさわしい人が官庁の研究機関にいるでしょうか。

 

 現在、温州ミカンは当時の「豊作で価格暴落した余剰ミカンを加工に回す」という状況とは打って変わり、生産農家の高齢化や産地集約等により、生産量が減少しています。というか、作るからにはしっかり品質管理&ブランド化して、ちゃんと売れるミカンを作る、という体制になっているんですね。三ケ日ミカンが生鮮品として日本で初めて「機能性食品表示」を取得したことも話題になっています。

 

 平成元年の開業時以来、28年ぶりに訪ねた伊豆東ワイン㈱では、アルコール度5~6%の甘口ワイン、10~11%の辛口ワインの2タイプ製造していました。加工用に回せるミカンの入荷量が少ないため、仕込み日も限定的。ミカン以外にアロエやニューサマーオレンジのリキュールも作るようになったそうです。直売店や工場見学コースは昔のまま。考えてみると6次産業の先駆けだったんですね、ここ。

 

 ・・・にしても、河村先生が開発に関わった伊豆みかんワインを、先生が亡くなった直後に再び取材するなんて、先生に天上から「しっかり論文を読んで取材しろ」と叱咤されたようなもの。日本酒を飲みつけている身にしてみれば、みかんワインなんてミカンジュースに毛が生えたようなもん・・・なんて見下していた自分が恥ずかしくなってきます。

 見た目はいかにも観光土産って感じですが、河村傳兵衛研究員の若かりし時代のレガシーとして飲み支えしなければなりません。このワインも「静岡の地酒」に相違ないのですから。

 伊豆みかんワインはこちらのサイトから購入可能です。

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