杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿河白隠塾まち歩きツアー~かぐや姫のまちで白隠を学ぶ

2017-06-26 09:44:00 | 白隠禅師

 6月4日、駿河白隠塾開催のまち歩きツアーに参加しました。舞台は富士。「かぐや姫のまちで白隠を学ぶ」というのがツアータイトルです。かぐや姫と白隠さんってどんなつながりがあるんでしょう。

 最初に向かったのは富士山かぐや姫ミュージアム。今回のツアーのコーディネート役である木ノ内義昭館長が、館内を直接ご案内くださいました。1年前に富士市立博物館からリニューアルしてから初めての見学。イマドキの展示スタイルというんでしょうか、前回記事で紹介した岩手のもりおか歴史文化館もそうでしたが、テーマや時代ごとに“編集”され、ビジュアル効果も意識したスタイリッシュな見せ方に魅了されました。むかしの素朴な博物館に馴染んでいた身としては複雑な思いもありますが(苦笑)。

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは富士山麓の暮らしの歴史や文化をさまざまなテーマで紹介しています。なかでも富士山南麓に残るかぐや姫伝承をクローズアップし、竹取物語が描かれ伝承されてきた経緯を丁寧に解説しています。

 ちょうどリニューアル1周年記念展『富士登山列伝~頂に挑むということ』が開催中(8月27日まで)で、馬に乗って富士山頂に舞い降りたという聖徳太子から、修験道の開祖・役行者、山頂に大日如来を祀った末代(富士上人)、富士講の先駆け長谷川角行、富士山に初めて登ったお殿様・本庄宗秀(宮津藩6代藩主)、初めて登った外国人ラザフォード・オールコック(初代駐日英国大使)、明治時代に夫婦で富士山頂での越冬気象観測に挑戦した野中至・千代子夫妻など、富士登山史に登場する開拓者たちのユニークな軌跡が展示されていました。富士山の世界遺産登録前、必死に取材調査して様々な媒体に執筆した内容がわかりやすく紹介されていて、最初からこういうのを見せてもらえたら楽な取材だったのに…と臍を噛む思いでしたが(笑)、夏休みに子どもたちと一緒に見るといいんじゃないかな。

 

 ツアー参加者の関心はやはり白隠さん関連の展示物。1階の展示室1「富士に生きる」の一角に、白隠禅師の墨蹟と、白隠画の最高傑作とされる富士大名行列図が実物の5倍尺でパネル展示されていました。駿河白隠塾長の芳澤勝弘先生も、この大きさで見るのは初めてだそうで、行列に描かれた人々の視線等をこと細かく解説してくださいました。白隠さんはこの5分の1サイズの紙に描いたのに、5倍に拡大しても遜色がない…というか、その意図がますます顕在化するという意味で、すごい画力の持ち主なんだと再認識させられました。

 

 パネルの向かい側には、白隠さんが生きた当時の吉原宿や間宿の本市場のにぎわいが再現されていました。私が以前、調べた富士の白酒もしっかり(こちらを参照)。・・・こうなると展示だけじゃなくて試飲もしたくなりますね!

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは西富士バイパス広見インターから降りてすぐの広見公園の一角にあります。公園内は多目的広場、バラ園、芝生広場のほか、ふるさと村歴史ゾーンに「大淵の大家」と呼ばれた旧稲垣家住宅、明治の洋館・眺峰館など地元に残る歴史的建造物を移築保存しています。稲垣家住宅では以前、富士に残る天下一製法茶の実演を取材しに来たことがあり(こちらを参照)、文化財が市民に開放され、活用されている姿が羨ましく、こういう場所で地酒の会がやれたらいいなあと妄想しましたが、今回は白酒を飲みながら白隠禅画を語り合えたらいいなと妄想しました。

 

 お昼は田子ノ浦漁協食堂で生しらす丼を味わい、すぐ近くに新たに整備されたふじのくに田子ノ浦みなと公園を散策しました。山部赤人の句碑、富士山を模した展望台に加え、4月にオープンしたばかりのロシア軍艦ディアナ号が3分の1のスケールで復元され、内部が歴史学習館になっていました。

  ご存知ディアナ号は1854年に日露和親条約締結のため下田に停泊中、安政の大地震による津波で大破し、修理のために戸田村に向かっていた途中で強い西風に襲われ、宮島村(現富士市)沖で沈没。2つあった錨のうち、一つは昭和29年に引き上げられて沼津市造船郷土資料博物館に、もう一つは昭和51年に引き上げられ、田子の浦の三四軒屋緑道公園でプチャーチン像とともに展示されていました。これを新たに整備したもの。この日の富士山は雲に隠れていましたが、万葉から幕末までの人々の営みを、大いなる富士が包み込んで見守る、そんなスケール感を感じる清々しい公園でした。

 

 午後いちで訪れたのは滝川神社。周辺一帯は竹採塚をはじめとするかぐや姫伝説が色濃く残る地です。主祭神はコノハナサクヤヒメですが、かつてはかぐや姫の養父・竹取翁が「愛鷹権現」として祀られていたそうです。鷹を可愛がっていた人だったとか。

 ミュージアムでの解説によると、竹採塚一帯に残るかぐや姫伝説では、かぐや姫は富士山信仰と深いつながりがあり、天子様の求婚を振り切って月に帰ったのではなく、天子様とめでたく結ばれて富士山に登り、富士山の洞穴から続く神仙世界に入って浅間大菩薩になったとのこと。つまり富士山の女神はコノハナサクヤヒメではなく、かぐや姫なんだとか。・・・なんかそのほうがロマンチックですね!

 

 滝川神社に次いで訪れたのは、「滝川の観音堂」として知られる臨済宗藤沢山妙善寺。臨済宗になったのは江戸時代になってからで、もともとは富士宮の村山浅間神社の山伏・頼尊が建てた修験道の修行道場だったとか。室町時代には浄瑠璃や歌舞伎のモデルにもなっている小栗判官が愛馬鬼鹿毛と妻照手姫とともに隠れ住んだという伝説が残ります。

 観音堂には本尊十一面千手観音坐像(室町期作)をはじめ、たくさんの仏像が安置され、年に一度の例祭のときだけ御開帳されます。この中に木造の女神を象った白山妙理利権現があり、照手姫をモデルにしたのではと言われています。製作年代不明&かなり古いようで、白山妙理利権現がそもそも山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神として信仰されていた神様だけに、モデルは照手姫ではなく、かぐや姫ではないかという説も。

 木ノ内館長がご用意くださったレジメには「(妙善寺は)臨済宗に改宗以降は富士山信仰の道場としての色彩が薄れ、江戸時代に入り庶民の文化が隆盛するとともに、妙善寺が整えられていく中で布教活動の一環として、説教節小栗判官を援用し、この地域ならではの照手姫と鬼鹿毛伝承を再構築されたのではないか」とあります。説教節というのは中世末~近世にさかんに行われた“語りもの”。もともとは仏教の唱導師が唱える声明がベースになって成立した民衆芸能です。小栗の説教節では小栗と照手姫は藤沢の遊行寺の助けを受け、照手姫は晩年遊行寺内に草庵を結んで夫を慰霊したそうですから、妙善寺の藤沢山という山号にも何やら関連性がありそうです。

 

 観音堂の入口には、白隠さんが(もちろん江戸時代に)書いた『常念閣』という扁額が掲げられています。

  白隠さんは、かぐや姫生誕地とされる比奈の里にある古刹無量寺を、無量寿禅寺として再興しました。無量寿禅寺は残念なことに明治の廃仏毀釈で廃寺となり、最後の住職のご子孫岡田家が跡地を『竹採公園』として整備。園内で「竹採姫」と刻まれた卵型の石と、白隠禅師のお墓を大切に保存しています。ちなみに白隠さんのお墓はここと、住持を務めた原の松蔭寺、三島に修行道場として開いた龍澤寺の計3か所にあります。

 

 竹採公園のすぐ近くには白隠さんのスポンサーだった医師石井玄徳の墓所があり、白隠さんが書かれた墓碑銘が残っています。碑文には玄徳が無量寿禅寺の造営に尽力したことも記されていました。この日は子孫にあたる石井義昭さんが特設解説版を用意し、石井家に残る白隠書画を丁寧に解説してくださいました。芳澤先生がまとめられた白隠禅師年譜にも、石井玄徳の名前が再三登場し、白隠さんを資金面でバックアップしていたことがわかります。

 

 廃寺となった無量寿禅寺の器物の一部は、富士市神谷にある臨済宗少林山天澤寺に受け継がれました。天澤寺本堂前に置かれた六角灯篭型六地蔵は白隠さん自ら彫られたもので、本堂で今も使われる磬子(けいす)は無量寿禅寺のものだそうです。

 

「達磨を描いてほしい」とリクエストされ、富士大名行列図を描いた白隠さん。芳澤先生によると「“達磨”は、禅の祖・達磨大師を指すと同時に、Dharma(仏法)そのものを指し、白隠さんは聖なる仏法の世界の象徴として富士山を描き、俗世の象徴として大名行列を描いた」のですから、富士山の女神とされるかぐや姫のパワースポットに惹かれ、この地に足跡を残したのも無理ありません。

 木ノ内館長のレジメには「『真名本曽我物語』では浅間大菩薩の本地は大日如来ではなく、千手観音菩薩。千手観音菩薩は正式には千寿千眼観世音菩薩といい、千眼大菩薩=浅間大菩薩となった」とありました。かぐや姫そのものを描いた白隠禅画を、私は観たことがありませんが、白隠さんはたくさんの観音さま描いておられますから、比奈の人々はかぐや姫の写しとして信仰していたのかもしれませんね。

 

 天澤寺境内には白隠さん手彫りと伝わる版木の写しも設置してありました。この観音さまをかぐや姫と重ねて拝むのは・・・ちょっと無理があるかな(苦笑)。

 比奈という地名は、平安時代「姫名郷(ひめなのさと)」と呼ばれていたと和名類聚抄に書かれているそうです。・・・伝説が生まれた背景には、必然のリアルがあるはず。そう考えると興味は尽きません。

 

 

 

 

 

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南部杜氏、時空の旅

2017-06-16 16:16:42 | 地酒

 5月下旬、2年ぶりに岩手県の南部杜氏の故郷を訪問しました。「萩錦」「富士錦」の杜氏を務めた小田島健次さんが酒造人生にひと区切りつかれるということで、慰労と感謝を伝えるべく遠野市のご自宅にうがかいました。

 

 一昨年訪れたときは、小田島さんと後輩の蔵人小林一雲さんと3人で花巻の居酒屋で盛り上がりましたが(こちらを)、今回は嬉しいことに萩錦の蔵元夫人萩原郁子さんも来てくださり、ご一緒に小田島家に泊めていただけることになって、従前に増して賑やかな慰労会となりました。

 

 5月24日、まず東名高速バスで東京へ行き、東京国立博物館で「茶の湯展」、三井記念美術館で「奈良西大寺展」を鑑賞。新宿から盛岡行きの夜行高速バスを乗り継いで25日朝6時過ぎに盛岡駅に到着。早朝営業の入浴施設を見つけてリフレッシュした後、盛岡城址公園を散策し、9時開館のもりおか歴史文化館をのぞいてみました。6年前に開館したフィールドミュージアムで、盛岡の歴史文化をわかりやすく紹介しています。駿府城公園にもこういう施設が欲しいなあ…!

 同館で開催中の企画展『盛岡南部家の生き方』では、経済を支えていた金山が枯れたり天候不順による不作凶作、自然災害等に再三見舞われた地方大名の艱難辛苦がうかがえました。天下泰平と謳われた江戸時代も半ばを過ぎる頃には全国各地でこのような綻びが生じ始めていたんですね。

 胸を突かれたのは、享保21年(1736)1月に発行された『南部利視宛江戸幕府老中連署奉書(手伝普請命令)』。幕府から遠州大井川の河川整備を命じられたものでした。もちろん静岡の大井川のことです。会場では実際の絵図面も展示されていました。

 私は真っ先に、大井川の伏流水で酒を醸す志太の酒蔵に長年奉職した南部杜氏のおやっさんたちのことを思い出しました。おやっさんたちのご先祖様もこうして大井川を守ってくれていたんだ…と。

 南部家当主に宛てた江戸幕府老中連署奉書(手伝普請命令)は他にもたくさんあって、日光、仙洞御所、甲州など各地のインフラ整備に駆り出されていたようです。これは盛岡藩に限らず、全国のあらゆる藩に義務付けられていて、各藩主は苦しい財政を立て直すために必死に藩政改革を行った。そういう中から上杉鷹山(米沢藩)、細川重賢(熊本藩)、松平治郷(松江藩)、佐竹義和(秋田藩)といった後に名君といわれる逸材が生まれました。逆に言えば、幕府の直轄地だった駿府のようなところには、改革も名君も必要がなかったわけですね。

 

 お昼前に新花巻まで移動し、小田島さん夫妻、萩原さんと合流。花巻空港のレストランで盛岡冷麺をいただいた後、遠野市にある小田島家に向かいました。その途中、かつて小田島さんの下で頭(かしら)として働いていた菊池一美さんが入所しておられる介護施設にお見舞いにうかがいました。

 小田島さんは頭の菊池一美さん、釜屋の菊池正雄さん、まかないの菅原テツさんの4人でチームを組み、20年前に初めて取材させていただいた当時は萩錦、葵天下、曽我鶴、小夜衣の4蔵を掛け持ちしていたのです。そのことを書いた毎日新聞連載コラム『しずおか酒と人』1998年2月5日付け記事のコピーを小田島さんに託して駐車場で待っていたのですが、窓越しに、萩原さんとの再会を破顔一笑で受け入れた菊池さんを目にし、イラストで描かせてもらった面影がしっかり残っていて、胸が熱くなりました。

 毎日新聞連載コラム『しずおか酒と人』1998年2月5日より

 

 自宅のある長野県から車で掛けつけた小林一雲さんや小田島家のみなさんがバーベキューの準備をしてくださっている中、私と萩原さんは小田島家から車で数分の宮守川上流生産組合加工所を訪問しました。どぶろく特区で知られた遠野市にある4軒のどぶろく醸造所のうちの一つです。

 ここでは地元農産物の加工品(ジャム、ジュース、味噌など)のほか、自社栽培の酒造好適米「吟ぎんが」100%使用の『遠野のどぶろく』を造っていて、突然の訪問にもかかわらず加工部長の桶田陽子さんが丁寧に案内してくれました。市内4軒あるどぶろく醸造所の中では平成16年開業の最も新しい加工所で、仕込み蔵は建物も機械もまだ新しく、萩原さんも「うらやましい」を連発。どぶろくは甘口(アルコール度12%)と辛口(同15%)の2種類あって、辛口は吟ぎんが精米50%と大吟醸並みのスペック。どぶろくとは思えないスッキリ感と口当たりの柔らかさ&甘酸っぱさで、冷やして飲めばクイクイ行けちゃいます。 

 夜のバーべーキューでは、この辛口どぶろくと地元特産の馬肉をたっぷりご馳走になりました。明治元年に建てられたという小田島家は民宿が経営できるほどの広さで、小田島さんは趣味のジャズ音楽を聴くために音楽教室にあるような特大サイズのアンプをお持ち。「いずれはこの家をリフォームし、酒友が集えるサロンにしたい」とおっしゃっていました。実現のあかつきには写真付きで大々的にご紹介したいと思います!

 

 翌26日は朝7時30分から始まる南部杜氏自醸清酒鑑評会一般公開に参加しました。南部杜氏協会加盟の杜氏が平成28酒造年度中に醸した酒ー吟醸の部は全国(北海道~岡山)124蔵328品、純米吟醸の部は109蔵245品、純米酒の部は71蔵154品を対象にしたもの。吟醸の部トップはあさ開(岩手)の藤尾正彦さん、純米吟醸の部トップは三春駒(福島)の齋藤鉄平さん、純米酒の部トップは陸奥八仙(青森)の駒井伸介さんでした。

 静岡で活躍中の南部杜氏は小田島さん(萩錦・富士錦)をはじめ、山影純悦さん(正雪)、多田信男さん(磯自慢)、八重樫次幸さん(初亀)、菅原富男さん(臥龍梅)、伊藤賢一さん(富士正)、葛巻文夫さん(天虹)、日比野哲さん(若竹)、増井美和さん(出世城)等、静岡酒の屋台骨を支える方々ばかり。昨今のトレンドである高カプロン酸系酵母の香りと高糖タイプがやはり幅を利かせる中、入賞せずとも静岡らしさを堅持した銘柄がいくつもあり、ホッとしました。とくに、長年能登杜氏の蔵として認知されていた初亀に2年前に移り、それなりにご苦労もあっただろうと思われる八重樫さんの酒は、私の脳裏に焼き付いていた南部杜氏の醸す静岡吟醸のイメージを見事に体現していて、初亀の水や蔵のしくみを完全にご自分のものにされたんだろうと嬉しくなりました。

 静岡タイプでは上位入賞しないだろうと予想できる鑑評会に出品する杜氏さんたちの心境を慮ると複雑な気持ちになりますが、全国規模の鑑評会のような場で呑み比べてみるとやはり静岡酒の特徴がよくわかるし、審査員ではなく消費者の方を向いて造れと指導されていた亡き河村傳兵衛先生の教えが継承されていることを確認できるのです。

 

 一般公開は10時に終了。富士宮から駆けつけた富士錦酒造の清信一社長と合流し、南部杜氏自醸会吟醸の部でトップをとったあさ開(盛岡市)の蔵見学に向かいました。この蔵は20年前にしずおか地酒研究会の南部杜氏の故郷ツアーで訪問したことがありますが、当時の素朴な酒蔵の面影はなく、現在は見学者用コース&試飲お土産店&併設レストランが整備された立派な観光蔵に。静岡の蔵元には参考にならないくらいの規模で、いちいちため息をつくばかりでした(苦笑)。

 あさ開の併設レストランで昼食を済ませた後、帰りの新幹線まで時間があったので盛岡市内の報恩禅寺を訪ねてみました。広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で知られ、 宮沢賢治が盛岡高等農林学校時代に参禅したそう。受付にいらした和尚さんが「どこでも写真を撮ってかまわんよ」とおっしゃってくださったので、木彫りで499体が現存しているという羅漢堂をのぞいてビックリ!胎内の墨書銘から、1731年(享保16)に報恩寺代17世和尚が大願主として造立し、京都の9人の仏師によって4年後に完成し、京都から盛岡に運んだ輸送用の箱を台座として再利用しているとか。五百羅漢は全国で50例ほど現存が確認されていますが、木彫りで499体が現存し、造立年代が明確にわかるのは全国的にもまれだそうです。「こんなお寺があったなんて知らなかったなあ」と小田島さんも感心しきり。

 この羅漢さんたちが作られた享保=江戸中期といえば、前述した盛岡藩が藩政改革で苦労をしていた時代。辛い時代でも、いや、辛い時代だからこそ、人々は仏堂に救いと望みを寄せていたのでしょう。

 

 南部杜氏は、近江商人村井権兵衛が紫波郡志和村に大坂の池田杜氏を招いて酒造りを始めたのが源流とされています。村井家は信長に滅ぼされた越前浅井長政の家臣村井氏の子孫で、慶長年間に金山開発に沸いていた遠野に移住し、盛岡で「近江屋」を創業。当時最先端の酒造技術者を大坂から招いたことで、優秀な技術が根付き、多くの酒造職人が育ち、大消費地だった仙台藩へ出稼ぎに赴いた。江戸後期の文化文政年間には、米の収穫後に脱穀・籾摺りを簡便にした千歯扱き(せんばこき)が岩手にも普及し、年内に脱穀作業を終えることができるようになって冬場の出稼ぎが可能になったのです。

 静岡の酒を美味しくしてくれた南部杜氏のふるさとには、出稼ぎの酒造りで生きていかねばならなかった人々の歴史があり、南部に酒造りの技術が根付いた理由もちゃんとあった。東北の厳しい環境であったがゆえに地方自治や地域文化の根が張り、競争力のある優れた技や創意工夫の暮らしが育まれた・・・。小田島さんを道案内に、歴史の時空を超えた酒造の旅が出来た2日間でした。

 

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龍王丸の黒印状

2017-05-16 13:03:30 | 歴史

 この春から社会人向けの教養講座にいくつか通い始めています。古文書解読は以前から真剣に学びたいと思っていて、昨年度は京都の花園大学へ月1で通っていたのですが、時間や交通費がネックで途中挫折。今年度は5月から始まった島田市博物館の今川古文書講座に通い始めました。講師は島田市博物館学芸員の岡村龍男先生。静岡新聞社刊『Tabi-tabi』で「港が生まれた日」を書いたときにご指南いただいた気鋭の歴史家です。会場は机が置けないほど満員盛況ぶりでした。

 5月14日第1回の教材は、今川氏親(1471~1526/幼名・龍王丸)が島田の東光寺に充てた黒印状。内容は〈寺の(所領に関する)願望を認め、もし違反者がいたら処分するからちゃんと報告せよ〉というもので、特段、重要な機密文書というわけではないようですが、歴史ファンの中では『龍王丸の黒印状』として知られているそう。戦国大名が印を使用した文書としては日本第1号なんだそうです。差出人本人を特定する花押(サイン)入りの文書は戦国ドラマなんかにも出てきますが、サインではなくて印を使った最初の印判状(=現時点で最古の印判状)ということ。それが島田のお寺に残っているなんてヘエエー!でした。

鈴木正一著「今川氏と東光寺」より

 

 もちろん、重要な文書なら印ではなく本人の花押入りの文書(判物)で、印判状というのはあくまで事務書類的なものゆえ調査の手が進んでいないだけのことかもしれませんが、岡村先生は「この黒印状から、今川氏親が足利幕府から駿河国の差配を任されていたことがわかる。氏親は当時、今川の実権を握っていた一族の小鹿範満と家督争いをしていて、幕府のお墨付きを得たことで小鹿を討つ大義名分を得た」と読み解きます。その後、氏親は小鹿氏征伐に成功したようですから、一般的な事務書類でも歴史を紐解く深読みができるんだなあとワクワクしました。

 今川氏親は6歳の時に父義忠を亡くし、急きょ家督を継いだものの成人するまで小鹿範満が後見につき、氏親が成人した後も実権を返そうとしなかったためお家騒動に発展。母の北川殿の実兄北条早雲が加勢して小鹿を討ち、今川家第7代に就きます。東日本では最も古い分国法(自治法)といわれる「今川仮名目録」を制定し、検地を実施するなど今川家を戦国大名へと押し上げた功労者で、妻はおんな戦国大名で知られる寿桂尼。今川仮名目録も寿桂尼も、現在放送中の大河ドラマにも出てきますよね(ホントは井伊直虎より寿桂尼のほうが大河の主人公にふさわしいんでは?と岡村先生。確かに!)。

 戦国時代、大名は地域の寺社や国衆たちに権利と義務を通達する文書を多数発給しました。敵味方グチャグチャな時代ですから、とりあえず契約書を乱発して勢力保持していたんですね。江戸の泰平になると、武力に替わって文書が世の中を支配します。岡村先生によると、現存する江戸時代の古文書の数は戦国時代の1万倍だそう。年貢の計算なんかで必要書類が膨大に増え、識字率も飛躍的に向上しました。

 公文書には漢字、一般の文書には仮名やくずし文字というように、いろんな文字を使い分けていた国柄ゆえ、必要に迫られた人や向上心のある人など、さまざまなモチベーションで書に触れる機会があったでしょう。お寺の檀家制度が地域で機能し、寺子屋などで学習の機会が確保されていたこと等も大きいと思います。

 以前、このブログの『駿河の仏教宗派』という記事(こちら)にも書きましたが、家康が確立した本山松寺制度=今の檀家制度の原型は、寺が同一宗派で組織的に機能し、各末寺が地域の区役所・学校・生涯学習センター・かかりつけ医のような役割を果たしました。

 

 識字率が8割ともいわれた江戸時代の日本人は、当然のことながら書に対する意識がものすごく高かったと思います。渇望といってもいいくらいでしょうか。映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』のシナリオ制作時に調査した史料によると、朝鮮通信使は日本国内で書籍の売買や出版が盛んなことに驚きます。とくに中国や朝鮮の翻訳本が人気で、中には壬辰丁酉の乱にかかわる両国間の裏事情を暴露した本も多く出回っていました。柳成龍(ユソンヨン)の『懲毖録』を翻訳した貝原益軒は、序文に「秀吉の出兵は大義名分のない、おごりたかぶったものだ」とはっきり書いています。

 こういう状況を通信使からの報告で知った朝鮮王朝は「朝鮮の史書および文集類はいっさい輸出禁止」の措置を取りましたが、禁止されたことで朝鮮本人気はいっそう高まります。そこへ通信使がやってくるのですから、日本人の期待感はふくらむ一方。通信使は日記に「大坂は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときにいたっても寝られず、まさに食事を中断するありさまである」と吐露するほどです

 以前、静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生が発表された調査によると、現在、大河ドラマの舞台で人気沸騰の引佐町井伊谷の龍潭寺の山号額「萬松山」と寺号額「龍潭寺」は、第6回朝鮮通信使(1655)の写字官・金義信の書です。扁額の裏に『明暦元乙未仲冬の日朝鮮国の官士雪峯老人、江府において寺・山の両号を書く』とあり、1655年11月に雪峯(金義信のペンネーム)が近江国彦根で書いたということが判明しています。

 龍潭寺は通信使行列が通った東海道筋からはかなり離れていますが、新しい山門を作った時、当時、文化知識人の憧れの的だった朝鮮通信使にぜひ山号寺号を書いてもらいたいと熱望。でも通信使の書や絵は大変な人気で、おいそれと頼めない。そこで、彦根の井伊の殿様に口利きをしてもらおうと、宗元という寺男が彦根まで出向いて、憧れの通信使の書を無事ゲット。ご住職や井伊谷の人々は「歴却不壊、高着眼看、至祝不尽珍重」と大いに感激したそうです。

 

 今川氏親の時代から約500年、朝鮮通信使の時代から約300年。日本で使われる言語は日本語だけではなくなったにもかかわらず、古文書講座がこんなに盛況だなんて、日本人はやっぱり書が好きな国民なんですね。ちょっと前まで日本語ブログの投稿数は英語と並んで世界一だったとか。私自身、SNS全盛時代になっても飽きもせず長文ブログを10年近くダラダラ書いていて、我ながら可笑しくなります。

 古文書の学習は一定の決まり事を頭に入れたうえで、とにかく数を読みこなすことだそうですが、漢字の楷書で書かれた公文書や高僧の墨書に比べ、私文通信はくずし文字が多くて読みにくい。でも、くずした文字に書き手の人となりや心持ちを読み解く面白さって、文字を手で書かなくなった現代人ーとりわけ作家やライターは失ってはならない皮膚感覚のような気がします。

 そのうち、AIが古文書をいとも簡単に翻訳するようになるでしょうけど、書に対する感覚って五感と同じくらい大切にしたいですね。

 

 

 

 

 

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河村先生の遺産(その3)静岡吟醸一家の家長

2017-05-10 10:08:53 | しずおか地酒研究会

 ゴールデンウイークの終盤5月6日に、「しずおか地酒サロン~松崎晴雄さんと振り返る河村先生の功績」を開催しました。会場は平野斗紀子さん(たまらんプレス代表・元静岡新聞出版局)の自宅兼ゲストハウス「あくび庵」。平野さんは今年1月、料理達人の同級生と手作り惣菜屋を創業し、あくび庵で予約販売or配達を始めました。

 あくび庵の室内は江戸時代の長屋風古民家をイメージした板の間のワンフロア。ここに松崎晴雄さん、杉井均乃介さん(「杉錦」蔵元杜氏)、青島孝さん(「喜久醉」蔵元杜氏)をはじめ、地酒研発足当時からのベテラン会員さんを中心に20名の酒友が河村先生への献杯酒を持ち寄り、あくび庵のお惣菜を酒肴に、先生との思い出話に花を咲かせました。

 松崎さんは「日本酒の歴史に残る革命的技術者を挙げるとしたら、吟醸酒の父といわれる広島の三浦仙三郎(1847~1908)と河村傳兵衛しかいないと思う。三浦仙三郎が生み出した吟醸酒をさらに進化させた河村先生は、まさに昭和平成の三浦仙三郎です」と語りました。先生のことをこのように評価できる人は静岡にも全国にもいないだろうと胸が熱くなりました。

 

 杉井さんは若かりし頃、河村先生に縁談を世話してもらったことがある(残念ながら破談)というトリビアを披露。青島さんは、県沼津工業技術センターで研修を受けたとき酒袋の洗浄の重要性を叩き込まれたにもかかわらず、自蔵で先生から酒袋に臭いが残っていたことを指摘・叱責され、悔し涙を流し、今現在、酒袋をひたすら洗う蔵人たちに、酒造りで最も大事な作業を任せていると激励している最中です、としんみり語ってくれました。

 私はこのブログのこちらこちらの記事をコピーして参加者に配り、自宅の押し入れから掘り出してきた地酒番組の録画ビデオを皆さんに鑑賞してもらいました。ビデオは1989年1月24日放送のSBS『静岡発そこが知りたい~静岡は地酒ブームの火付け役』、同年3月2日放送のNHKモーニングワイド『ハイテクが銘酒地図を変える』、1993年放送のSBS『もっと知りたい東海道(地酒編)』ほか。テープはかなり劣化し、見づらかったのですが、約30年前の40代の河村先生、現役バリバリの波瀬正吉さん(能登杜氏/開運)や大塚正市さん(志太杜氏/満寿一)の雄姿に大盛り上がりでした。

 

 すっかり忘れていたのですが、96年3月のしずおか地酒研究会発会式を取材してくれた静岡第一テレビのニュース映像も入っていました。当時の顔パンパンの私のドアップに一同大爆笑!なんだか亡き家長を偲んで大家族や親戚一同が集まって、家族ビデオを見ながらワイワイくっちゃべってるって雰囲気でした。・・・そう、河村先生は静岡吟醸一家の家長だったんだなあとしみじみ。

 

 みんなから、お宝ビデオなんだから、劣化したまま放置せずちゃんと保存しておけと言われ、そういえば昔の河村先生の講演録を書き起こした原稿も、当時使っていたワープロ感光紙の劣化でところどころ読みにくくなっていたことを思い出し、再度、書き起こしてみました。

 以下は、たぶん録音テープをお借りして書き起こしをさせていただいたものだと思いますが、いつどこでの講演か不明です。内容からして先生が母校磐田農業高校の同窓会か何かで語った講演のようです。全文はA4で9ページほどありましたので、ここではかいつまんでご紹介します。

 

  ◆

 

 私は磐田農業高校の出身ですが、高校3年生の1年間はほとんど学校に行きませんでした。なぜかと申しますと、私が在学していた昭和33年から35年頃というのは農業が曲がり角といわれた時代で、私自身も農業ではとても生活できないと思っていました。大学進学を考えていましたが、私は工学ーとくに機械科を志向していたものですから、学校での農業の勉強は放ったらかしにして家で数学にかじりついていた。出席日数が足りなかったにもかかわらず卒業できたのは担任の平野先生のおかげで、最近になってようやく恩師への感謝の気持ちをしみじみ感じるようになりました。

 たまたま同じ高校に従兄が勤めており、農学部でも工学的なことをやる農芸化学という学部があることを教わり、静岡大学農学部農芸化学科に進み、農産加工の食品色素などを研究し、大手食品会社に内定をもらいました。しかし昼夜三交替勤務でかなりハードだと聞いてキャンセルし(笑)、大学からはもう推薦状は書かないと怒られましたがこのまま大学に残ればいいと腹をくくっていたところ、県の工業試験場の製紙部門と醸造部門でそれぞれ1名欠員が出たと知らされ、どちらか選べと言われて即座に酒の方を選びました。

 このようないきさつでこの世界に入ったものですから、酒造りに最初から特に思い入れがあったわけではありません。昭和40年に試験場に入庁してから新酒鑑評会で初めて吟醸酒に出合い、世の中にこんなに香りがフルーティーで素晴らしい酒があったのか、どうしてこういう酒が出来るのだろうとビックリしました。その感動と疑問が私を酒造りにのめり込ませたのです。


 工業試験場は昭和28年に開設され、当時は現在の駒形にある県防災センターの場所にありました。醸造部門には名古屋国税局の出雲永槌先生、国税庁醸造試験所から齋上先生が赴任し、昭和35年に実験工場が出来ると7名のスタッフで酒を優先に研究していました。酒の研究が急がれていた理由は、当時の酒造業界が大きな曲がり角にあったことが挙げられます。

 県内の酒造メーカーは製品の大半を灘や伏見の大手メーカーの請負で生産し、その残りに自社銘柄を付けて売っていました。酒造従事者を今も蔵人と呼んでいますが、多くは南部(岩手)、新潟、能登あたりから呼ばれ、蔵の主人は彼らに酒を造らせ、出来た酒を大手に納めるという気楽な商売をやっておったのです。しかし大手のほうで生産技術が上がり、自社内で造るほうが安くて良い酒ができるようになり、県内メーカーが徐々に取引額を減らされていきました。自社銘柄でも思うように売れず、昭和40年代から50年代半ばまでそんな状態が続いていました。

 同じころ、広島県や石川県を中心に吟醸酒が売れ始めました。吟醸酒は鑑評会出品用にどの蔵でも造っていましたが、蔵の主人の晩酌用か特別なお客さんに出す程度で、商品として出すものではありませんでした。昭和50年代の初めだったでしょうか、「菊姫」「天狗舞」の吟醸酒が東京市場で話題を呼び、県内メーカーもこれで生き残るしかないと、次第に吟醸酒に目を向け始めました。

 酒造りの基本を成すものは2つの微生物、すなわち麹菌と酵母菌です。酵母にはブドウ糖からアルコールを作るという大きな役割があり、吟醸酒の場合は香りを作る役目もあります。酵母が生成する吟醸酒の香りはエステルといい、酵母の種類によって香りの大小さまざまです。広島の吟醸酒は香りと味が非常に重厚で、石川を中心とした北陸の吟醸酒は香りが華やかで味が丸いタイプ。ではわれわれ静岡はどういうタイプの吟醸酒にするか。人気のある広島や石川と同じタイプを狙うのが常套手段ですが、これとは少々異なる、香りは華やかでも味が軽快な酒にしようと考えました。こうして生まれたのが有機酸生成の少ない静岡酵母です。これで早い時期に試作してもらった県内4~5社が全国新酒鑑評会で全社入賞したため、昭和60酒造年度では県内大半のメーカーに配布しました。

 その過程で痛感したのは、杜氏さんは若手でも50代でほとんどが年配の職人。彼らはこちらの話を聞いてはくれるものの、なかなか実行に移してくれないということでした。そんな中、ある蔵の40代の若い杜氏さんが、蒸した米一粒に一点くっきりと麹を生やすという神業をやってのけていました。その秘密が知りたくて早朝5時に蔵に行き、いったん職場に出勤して昼頃また見に行き、夜は夜でまた見に行った。そんなことを毎日やっていたので、蔵の主人が体を壊すから泊って行きなさいと言ってくれまして、泊りがけで作業を観察し、自分でも造ってみたのですがうまくいきません。

 優れた麹造りは麹室の作業だけでなく、酒造り全体の流れの中に秘訣があったのです。そのひとつに最初の工程である米洗いがあります。洗米した米を顕微鏡で見ると、洗い方によって表面の形状がまったく異なります。よく洗った米は六角形の構造を持ったデンプン粒が列をなしており、よく洗わない米は餡かけにしたようにドロッとしています。これを蒸すとドロッとした部分がネバネバになり、そこに麹菌を付けたとしても菌がくっきり食い込まず、ダラダラと広がってしまいます。酵母が品質に与える影響は3割くらい。後の7割は米洗いであると痛感しました。現場で杜氏さんに初めて教わったことです。教育もそうですが、良い師に指導を受けるということが非常に重要です。

 県内の比較的大手のメーカーを巡回指導したときのこと。吟醸酒の品質について聞かれ、私ははっきり「箸にも棒にもひっかかからない。こんな酒はみたことがない」と答えました。杜氏さんはブルブルと震え出し、「ならばどうやって造るのか」と詰問した。普通の巡回指導ではそれ以上のことはしないのですが、私も後に引けなくなり、彼のもとに4~5泊して麹造りを徹底指導しました。

 一点くっきりの理想的な吟醸麹は簡単にはできません。2時間おきぐらいに麹室に入り、様子を見る。私は合間を見て風呂に入り、仮眠をとりますが、杜氏さんたちは私より10歳以上年上にもかからわず、ほとんど不眠不休です。結局この蔵は全国の金賞をとるまでそれから3年ぐらいかかりました。麹造りだけ覚えてもほかにたくさん課題があるのです。私の仕事は県内メーカー全体のレベルを引き上げることですから、この蔵ばかり偏った指導をするわけにもいきません。後は現場の奮起に期待するだけです。

 私は冬、朝3時ごろに起きてまず風呂に入ります。風呂と言ってもわが家は古い借家で、風呂釜の火は外で点けます。タイルの風呂の湯はなかなか沸かず、湯船に浸かっていても1時間もたてば水のようになってしまいます。ぬるい湯に長く浸かっているとついつい寝込んでしまいますが、風呂の中ではあの蔵のもろみの状態はどうか、というふうに、その日一日の指導予定を立てます。静岡市を中心に、大井川から富士川の間を毎日、今日は東、明日は西というようにメーカーを指導して廻ります。朝、メーカーに着くのは5時。各蔵を廻って杜氏さんたちの動きをじっくり見ます。酒造りの秘密は非常に厳しく守られていますが、腕の良い杜氏さんがどんなふうにやっているのか、技術的なことをいろいろ学び、それを他のメーカーの杜氏に教える、というのが私の役割です。

 1社2社だけ良い酒ができても、地場産業としての発展にはつながりません。現在、不況産業といわれる業種がありますが、その中でも左団扇といわれる企業が1社2社はあるはずです。われわれがやることは、そういう成熟産業の掘り起こしです。昭和61年に県内の蔵が大量入賞し、一躍静岡の酒が脚光を浴びたことが、これをよく物語っています。

 現在、注目を集めているバイオテクノロジーの歴史を見ますと、古来より連綿と続いているのは酒造業ただ一つです。バイオの基本は日本の酒から来ていると言ってもよいでしょう。私が就職に醸造を選んだのは、学生時代にアミノ酸発酵の研究がかなり進んだためです。アミノ酸発酵は微生物の働きによるもので、日本独自の技術です。従来はグルタミン酸ソーダにしても小麦から抽出分離したものが主体ですが、アミノ酸発酵の研究は酒造技術を移転して進められ、微生物は何でも頼めばやってくれるということを学びました。

 われわれがやっている酵母改良技術も、自然界の中で選びだした微生物の方が優れたものが多い。香りの高い酵母の改良をいろいろやってみましたが、酒の酵母というのはバランスをとるのが難しく、化学方程式の上ではこの微生物とあの微生物の相性がいいからと合わせてみても、人間の口には合わない酒になることもあります。食品の場合、すべてをバイオ技術で解決できるわけではないのです。

 昭和61年、静岡県が酵母の改良をして全国新酒鑑評会で大量入賞したのを機に、全国各地で酵母の開発がさかんになり、非常に香りの高い酒を造り始めました。鼻の高いクレオパトラは美人の代名詞ですが、酒の世界ではタブーです。静岡には良水があり、美人顔を作ると喜ばれていますが、酒飲みには淡麗な酒が好まれます。

 県内では中部地区のメーカーがとくに熱心に酒造りに取り組んでおられるようですが、他県のように他者と競い合うということは少ないですね。静岡県というのは紳士の集まりと申しますか、他と争い合うことを嫌うようです。しかし県の鑑評会で順位をつけることによって、よい意味で競争し、技術向上に努めるようになりました。東海4県では今までどの県も、県の鑑評会で順位付けするのは嫌がってやりませんでした。このエリアでは岐阜県が酒どころとして名を馳せており、静岡県は昭和40年代から全国に50社出品して1社入賞できるかどうかという状況が続いていましたが、現在は逆転しています。

 その意味でも競い合うということは必要です。それも価格競争ではなく品質競争。これで成功したのが新潟の「越乃寒梅」です。戦後の米のない時代、越乃寒梅(新潟)、若竹(静岡)、浦霞(宮城)の3社が醸造試験所のある研究室で同じ釜の飯を食べていました。その時、研究室長が「これからは品質の時代だ、米を磨け」と言って、精米技術が15~20%程度だった当時、70%磨けと指導され、これを実行したのが越乃寒梅の石本酒造でした。酒蔵にとって米のない時代に7割も磨いてしまうのは大変な決断だったと思いますが、苦労して品質を高めたことが後々の名声につながったといえましょう。私は酒の世界では、一度名声を得ると50年は続き、一度失敗すると一夜にして酒の価値が下がると考えています。現実に、一度の失敗がタンク全体に影響し、一年間その蔵の酒を悪くし、翌年からすっかり売れなくなったメーカーがありました。

 したがって、県内メーカーに指導しているのは、とにかく品質を上げることです。県内産の吟醸酒の品質が非常に良いと評価されるのは、市販される酒が鑑評会用の酒と同じ造りをしているからです。酒の世界はタブーが多くてなかなか表立っていえないのですが、現在市販されている「平成5年度金賞受賞酒」の中には鑑評会会場にあった酒と雲泥の差のものもありました。鑑評会用に出品する酒はほんの数本で、他の酒とは別の造り方をしているのです。

 私は指導する立場として、県産酒の市場における品質の安定を第一に考え、滝野川(国税庁醸造試験所のある場所)に出す酒も、市場に出す酒も、同じ造りをしてくださいと言い続けています。静岡市内ではメーカーの努力のみならず、やまざき酒店のような小売店や、入船鮨ターミナル店の竹島さんのように、県産酒を真剣に応援してくださる人々に支えられ、安定した品質を保つことが出来ています。

 静岡の酒の特徴をもうひとつ加えさせていただけるなら、酒は一般に1年間流通させるため出荷前の酒は寝かせておくものですが、熟成が進むうちに品質が低下するという難点がありました。吟醸酒の香りも老ねた香りになってしまうんですね。そこで静岡では熟成の貯蔵を低温化させるという、全国の大手メーカーでもやらないことを進めています。酒の先進県と言われる広島や石川と同じようなことをやっていても、いつまでたってもかないません。

 さらにわれわれの県の特徴としては、メーカー全体がまとまり、団結して進んでいるということ。お隣愛知県ではメーカー同士がバラバラで市場も混乱しています。これでは業界は発展しにくい。その点、静岡県は一致協力していますので、安心しています。

(河村傳兵衛氏講演録 タイトル・日時・場所は不明)

 

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 文中に平成5年度という年号が出て来たので、1993年頃の講演録かと思われます。もし内容に記憶のある方がいらっしゃったら、いつどこの講演だったか教えていただけるとありがたいです。また劣化テープの適正な保存法を教えてくださる方がいらっしゃったらお願いします。

 

 

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八十八夜の活かし方

2017-05-01 10:23:38 | 農業

 52日は八十八夜。立春から数えて88日目ということで、茶どころ静岡では新茶シーズン到来のシンボリックな日とされていますが、本来は、お茶だけでなく農作業全般にとって大事な季節の節目。

 「米」という漢字を分解すると八十八になる。88歳のことも米寿と言いますね。そんなことから、農業に携わるすべての人にとって重要な日とされてきました。


  お茶摘み唄に「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る~♪」と歌われるように、春から夏に移る時期にあたり、八十八夜を迎えたら夏の準備を始めます。昔は八十八夜を目安に種まきなどをしていたそうで、今でも農家では、霜よけのよしずを取り払ったり、苗代の籾巻きを始めるというような慣しを行っているところが多いよう


 ・・・というような話を、5月2日18時30分からオンエアのかみかわ陽子ラジオシェイク(こちらのネットラジオで聴けます)で話そうと下調べしていたら、幸運にも、前回ブログで紹介した『地産地消の歴史地理』の著者有薗正一郎先生から、近世農書が記述する水稲耕作暦のコピーが届きました。同書に、全国43の近世農書を元に先生ご自身で制作された暦を希望者に送る、と書かれてあったので、試しに希望の手紙を差し出したらすぐに送ってくださったのです。


 

 有薗先生作・水稲耕作暦の「播種日」の一覧を見たら、ありますあります、「八十八夜」の記述が。ほかに「春土用」「3月中旬」「4月初め」等々。遠江の農書〈報徳作大益細伝記〉では「寒明70日目頃」とあります。寒明けが立春だとすると、今の暦で言えば4月下旬に種まきしたわけです。

 田植えは播種日から約40日ぐらい後。有薗先生の暦では「小満」「夏至」「半夏生」の記述が並びます。二十四節気の言葉ってやっぱり当時の生活用語だったんだなあと改めて感心しました。



 八十八夜は農業のみならず、瀬戸内海では豊漁の続く時期としての「漁の目安」とされたり、沖縄地方の島では「とびうお漁」の開始の時期ともされたそうです。漁業にとっても大切な節目の日だったんですね。

  静岡で、八十八夜の日を何かの記念日にしている漁港があるのかなとネットで検索してみたんですが、ヒットゼロ。やっぱりお茶の八十八夜のイメージが強すぎるんでしょうかね・・・。でも静岡県ほど八十八夜という日が県民に認知されている県はほかにないだろうと思えますので、これを活かし、漁業と茶業の関係者がコラボして、この日にとれた魚と新茶を、それこそ米寿のお祝いにする、なんて仕掛けを考えたらどうでしょうか。


 田んぼでも、田植えや稲刈りはわりと絵になる作業ですが、播種ってあまり絵にならないせいか注目されませんね。でも種をまいて苗を育てる作業ってとても大事だと思います。八十八夜という日を、農作業一つ一つの価値を見直し、季節の暦の意味を再認識する、そんな学習の機会にできたらいいなと思います。

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