杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウズベキスタン視察記(その10)~国立ナヴォイ劇場と日本人墓地

2018-01-11 13:07:47 | 旅行記

 10月18日は商工会議所ミーティングを終えた後、タシケントで古くからにぎわうチョルス・バザールでお買い物。サマルカンドのジョブ・バザールはどちらかといえば観光客向けでしたが、こちらは上野のアメ横みたいな雰囲気で、衣料品や日用雑貨、生鮮食料品を買い求める庶民でにぎわっていました。

 夜は念願の国立ナヴォイ劇場で、地元バレエ団による「白鳥の湖」を鑑賞しました。1939年に着工し、戦火が激しくなった42年以降一時休止、戦況が有利になった44年から工事再開し、ソ連革命30周年記念の1947年、モスクワ、レニングラード、キエフと並ぶ“ボリショイ劇場(超一級劇場の称号)”として完成した壮麗な劇場です。当初は最終日19日の午前中に見学のみの予定でしたが、鴇田団長や通訳マフールさんのはからいでバレエ鑑賞券が急きょ入手でき、このような夜のライトアップも堪能できて、得難い思い出となりました。

 劇場内は6つのロビーがあって、それぞれ「タシケント」「サマルカンド」「ブハラ」「ホレズム」「フェルガナ」「テルメズ」とウズベキスタンの地名が付けられました。それぞれの地域に伝わる意匠が室内に施されているようです。ナヴォイとはウズベク文学の父といわれるアリーシェル・ナヴォイ(1441~1501)のこと。ティムール朝時代の宰相を務めるかたわら、数多くの詩を残した人物です。

 

 1966年4月26日、タシケントをマグニチュード5.2の直下型大地震が襲い、日干し煉瓦造りの家々8万戸をはじめ、約240の政府機関の建物、180の教育施設、250の工場施設が倒壊。町は壊滅状態となりました。町の中心にあるナヴォイ公園に逃げのびた人々は、他と同じように煉瓦造りの建造物であるにもかかわらず、びくともせずに建っていたナヴォイ劇場の姿に感動します。そして、この劇場をはじめ、ウズベキスタン全土で国土再建に関わった日本人抑留兵のことを記憶する市民が、この国を親日国にする源泉となったのでした。

 

 戦時中に建設が始まったナヴォイ劇場は、たびたび工事が中断しましたが、革命記念30周年の1947年竣工が必須であったため、大戦終結後の45年には日本人が投入されました。シベリアに抑留されていた日本人捕虜はこのときウズベキスタン全土に約3万人護送されたのです。日本とは正反対の西へ西へと送られた人々の心境はいかばかりだったでしょう・・・昨年末、別の取材で静岡護国神社を訪ねたんですが、戦争の遺品を展示する平和祈念館でシベリア抑留兵の軌跡を記したボードをみつけ、ああ、静岡からもウズベキスタンで強制労働していた人がいたんだな…と胸が熱くなりました。

 

 タシケントに送られた日本人約1000人のうち、ナヴォイ劇場の建設現場には、24歳の永田行夫隊長率いる旧陸軍航空部隊の工兵457名が入りました。現場ではロシア人技師長のもと、ウズベク人労働者とともに土木作業、煉瓦積み、板金、電気配線、溶接、指物、壁の彫刻等に従事。永田隊長は若いながらも「さすが日本人が建設したものは出来が違うといわれるものを本気で作ろう」と現場を鼓舞し、収容所での待遇改善を粘り強く交渉して部下の士気を高めたそうです。

 部下からはもちろん、ソ連側やウズベク人たちからも篤い信頼を集めた永田隊長は、ナヴォイ完成後も他の収容所で働いて、1949年にようやく帰国。2008年に亡くなるまで毎年のように第四ラーゲル会(収容所の名称)を開いていたとか。2001年8月にはナヴォイ劇場で上演された日本のオペラ『夕鶴』を当時の仲間20人とともに鑑賞し、共に汗を流したウズベクの人々との再会を果たされたそうです。

 ナヴォイ劇場が大地震でも倒壊しなかったのは日本人のおかげ、と言い切ってしまうのは誇張のようにも思いますが、当時のソ連が威信をかけて強固に築いた権威ある劇場に日本人の技能も大いに活かされ、今、こうして芸術の殿堂としてウズベキスタンの人々に愛されているという事実には感動を禁じ得ません。ときに衝突し合う民族の誇りと意地が、ここでは互いに認めリスペクトし合うダイバーシティ=21世紀型の新しい思想に早くも変換されていたのです。

 ウズベキスタン全土で強制労働に従事した日本人約3万人は、それぞれの地域で日本人としての矜持を示しました。日本人が建設に関わった運河と水力発電所は各地に点在。タシケントの南東にあるアングレン市では炭鉱の仕事に従事した日本人のことを、市史で「第二次世界大戦後、この地にやってきた日本人戦争捕虜は、町の建築整備に大きな貢献をした。彼らと一緒に働いた者たちはその勤勉さと几帳面さをいまだに覚えているくらいである。日本人収容所の規律は厳格であったが、現地の住民たちはそのころ珍しかったペン先が金メッキの万年筆を日本人から買ったり交換したりすることができた」と紹介しています。

 

 ツアー最終日の10月19日、タシケント市郊外にあるムスリム墓地の一角に造られた日本人墓地を参拝しました。タシケント地区で亡くなった日本人79名が眠っており、一つ一つの墓標には個人の名前と出身地が。静岡県出身者の墓標も2つありました。

 同様の墓地はウズベキスタン全土で13カ所。ソ連時代は現地ウズベクの人々が私費で守り、ウズベキスタン独立後、日本大使に赴任した中山恭子氏らの尽力で募金が集められ、ウズベキスタン政府を動かすことができたようです。きれいに整備されたすべての日本人墓地には桜も植樹されました。シルクロードのオアシスに咲く桜・・・想像するだけでも素敵ですね。ここでお花見ができたら、土屋さん平井さんのお墓に静岡の地酒を献上したい、と思いました。

 

 

 今、サッカーJ1ジュビロ磐田には、J1初のウズベキスタン代表選手であるフォジル・ムサエフ選手(29)が所属しています。昨年はMFとしてリーグ戦31試合に出場し、4得点をマーク。2018年1月9日付け静岡新聞朝刊には「チームをアジアチャンピオンズリーグ(ACL)に出場させたい、母国の代表にも復帰したい」と熱く語るムサエフ選手とご家族が紹介されていました。

 ウズベキスタンは今年のロシアW杯は惜しくも出場権を逃しましたが、U-20では日本代表に勝利するなど東京五輪世代では文句なしの強豪国。五輪競技では過去、ボクシング、レスリング、柔道等の格闘技で多くのメダリストを輩出していますので、2020年にはウズベキスタンのアスリートをぜひ応援しよう、静岡で事前合宿を誘致できないか等とツアーメンバーで語り合いました。

 

 今回の我々のツアーが静岡県とウズベキスタンの関係にどれほどの影響があったのかは、今まださっぱり、といったところですが、私自身は、商工会議所ミーティングの通訳ベクット氏が「人と人との交流が大事」と念を押されたように、ムサエフ選手、加藤九先生、永田隊長、ナヴォイ、ウルグベク、ティムール・・・今回出合った人物を深く知り、関心を持ち続けることで交流の新たな扉が開くのでは、と感じています。ウズベキスタンの情報は、日本ウズベキスタン協会(こちら)や日本ウズベキスタンシルクロード財団(こちら)等の交流団体から発信されていますので、それぞれの機会を活かし、今回のツアーを有意義なものにしていければと思います。

 桜が咲くころ、本当に、もう一度行きたいな!

 

<参考文献>

〇蔦信彦著『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』

〇胡口靖夫著『ウズベキスタンと現代の日本』

〇中山恭子著『ウズベキスタンの桜』

 

 


ウズベキスタン視察記(その9)~商工会議所ビジネスミーティング

2018-01-10 22:19:25 | 旅行記

 10月18日午前中はタシケントにあるウズベキスタン商工会議所で現地企業人とのビジネスミーティングを行いました。商工会議所会頭のエイクラモフ・アドハム氏や投資部長のオレグ・リジチン氏から、ウズベキスタン経済の現況について解説していただき、商工会議所の会員企業20数社の代表と情報交換を行いました。予定時間を大幅にオーバーする熱のこもったセッションで、ウズベキスタン側の期待の大きさがひしひしと伝わってきました。ここでは会頭と投資部長の挨拶(抜粋)を紹介します。

 

(会頭)日本からようこそお越しいただきました。静岡は自然が豊かで日本の象徴である富士山があり、歴史も古いとうかがっています。皆さまサマルカンドに行かれたと思いますが、文化の町であると同時に経済的にも発展した町であり、静岡と似ているところがあると思います。

 ミルジョーエフ大統領が2017年2月に発表した国家戦略では、経済の自由化を念頭に置いています。ウズベキスタンは3200万人の人口を持ち、人口の6割が30歳以下。労働人口は全体の70,4%で、GDPに占める中小企業の割合は58~60%。経済発展能力は十分にあります。2017年6月19日の大統領令では商工会議所に、政府と企業の懸け橋になるべく大幅な権限が与えられました。このタイミングで皆さまに来ていただけたのは非常によかったと思います。

 日本は、ウズベキスタンが1991年に独立宣言したとき、それをいち早く認めてくれた国の一つです。以来、経済と文化両面で交流が進み、経済交流は4億ドルまで進展しました。業種では電力、エネルギー産業、観光産業、製造業等で経済協力が進んでおり、今回お越しいただいた静岡県企業の皆さまも同様の産業が多いと聞いて期待しております。

 ウズベキスタンが独立してからこれまで、日本からは累計300~500億ドルの円借款を受け、発電所の建設や教育面で活用しております。観光産業では日本人のお客様を非常に歓迎しております。というのも、ウズベキスタンの歴史を日本に紹介した加藤九祚先生という素晴らしい研究者のおかげで、歴史や文化に関心を持つ日本人がとても多いからです。非常にありがたいと思っております。政府は観光省を新たに設置し、観光産業を発展させる権限を広く与えました。日本の旅行会社はじめ観光関連産業の進出を大いに歓迎します。

 大統領は医薬医療分野にも力を入れており、この分野での企業進出を歓迎します。貿易関連ではウズベキスタンは今後、国際競争力のある製品をどんどん輸出していきますので、貿易関連企業ともぜひつながりを持ちたいと思っております。今回お越しいただいたメンバーには金融関係の方もいらっしゃるようですが、銀行とのお付き合いは非常に重要です。今日は当会議所会員で、海外企業との連携に関心の高いメンバーが集まりましたので、ぜひ有意義なミーティングをお願いできればと思っております。

 

(投資部長)中央アジアはエリア全体で約3億人の人口を有し、ウズベキスタンは地理的にも政治的にもその中心に位置しております。当商工会議所は2017年6月19日に組織改変され、スタッフが3倍に増え、ウズベキスタン最大の企業支援組織となりました。

 ウズベキスタンの経済力について説明しますと、過去10年のGDPは7,9%の伸び。2017年2月に大統領が発表した5カ年の国家戦略では、2017年から2021年までに649の投資プロジェクト=総額40億ドルの事業計画を進める予定です。9月2日には外貨取引自由化が発令され、経済改革が進むトップクラスの国として世界銀行ほか国際機関から評価されています。これからは鉄鋼、エネルギー、自動車産業、農業、半導体等の分野をさらに発展させていきたいと考えています。

 ウズベキスタンは天然資源が豊富で、光熱費もヨーロッパに比べて3分の1程度。経済特区が現在14あり、免税、無関税というメリットがあります。外国企業は5000社ほど進出しておりますが、経済の伸びしろを考えたら、まだまだ日本企業は少ないという印象です。ウズベキスタンにおける海外ブランドの半分に、日本企業のロゴが入ってほしいと願っているところです。

 ウズベキスタンでは再生可能エネルギーに関して非常に関心を持っています。汚染物質の少ない天然ガスが豊富ですから、今後はガスバロン製造と関連部品製造、点検サービス業等の周辺産業も期待できます。化学産業ではウズベキスタン国内で製造し、海外に輸出するという外国企業も入ってきております。医薬品関連は経済特区の7地区で力を入れており、食品産業、建築業も期待されています。綿花は輸出額世界第5位の主要産業ですが、繊維産業も急激に発展し、海外から約400企業が進出しています。

 観光産業の将来性についてはすでに実感されていると思いますので、お気づきの点があれば何なりとご指摘ください。教育分野では国内に66の大学があり、外国からも韓国、イギリス、イタリア、シンガポールの大学が進出して学術交流を行っています。ぜひ日本の大学の進出を期待しております。


 帰国後、このミーティングの通訳を担当されたヌルマトヴ・ベグット氏から日本語で丁寧なお礼メールをいただきました。ベグット氏のメッセージを紹介させていただきます。

「私にとって人間関係が何よりです。ですから日本の皆さんにウズベク人をアピールしていくことが何より一番効果があると思います。日本国民とウズベク国民の共通点はたくさんあると思います。
 
1.加藤九祚先生がウズベキスタンで発掘した仏教遺跡の数々。この国がかつては仏教を採り入れていたということは大きいと思います。
 
2.ウズベク語も日本語も言語アルタイ諸語に付属しています。日本語とウズベク語の文法はほとんど一緒で、文並び(動詞が最後に来るというパターン)も同じです。
 
3.親日派であるウズベク人は日本や日本国民のことが好きで、様々な分野で日本を参考にしています。例えば文化や伝統を、日本のように守りましょうという人々も大勢います。「おしん」のような日本のテレビドラマも大ヒットし、特に地方の人々に人気でした。
 
 日本ウズベキスタン協会(こちら)で参考になる情報をたくさん発信していますので、ぜひ参考になさってください。」
 
  ウズベキスタン商工会議所の皆さま、本当にお世話になりました!(つづく)



 

 

 


ウズベキスタン視察記(その8)~サマルカンドの今昔

2018-01-10 16:37:37 | 旅行記

 サマルカンド2日目の夜は自家栽培の野菜が味わえる農家レストランで家庭料理を堪能し、二次会には夜はダンスホールに早変わりするダイナーに。意外なことに、遅い時間でも女性客が多く、しかも、幼い子どもを連れた若いママ、その母親と祖母というように、母娘3代そろってお酒を飲んだりダンスを楽しんだりしていたのです。結婚式の二次会のようなファミリーグループもいました。ふつうの女性がとにかくみんなモデルさんみたいに美しくて、同じフロアに立つのを躊躇しちゃうくらいでしたが、彼女たちは日本人にとても友好的。向こうから一緒に踊ろうとか、一緒に写真を撮ろうと声をかけられ、ツアーの男性諸氏は終始デレデレ状態でした(笑)。

 今回の旅では、ホテルでは必ずといってよいくらい結婚式、レストランでは祝宴、観光地では新婚旅行中のカップルに出合いました。平日でも休日でも年がら年中、結婚式があるんだなあと驚いたのですが、通訳のマルーフさんによると、ウズベキスタンの結婚平均年齢は男性22~27歳、女性19~22歳ぐらいで学生結婚が多いそうです。女性は25歳を過ぎると完全に晩婚扱い。そういえば私が20代のころは日本でも「女性の賞味期限はクリスマス」なんて言われて憤慨してましたっけ(苦笑)。

 とにかくこちらでは結婚式というのは大変なイベントで、朝は新婦の家でプロフ(ウズベキスタンのピラフ)を招待客の1.5~2倍分(300人招待なら400~600人分)は用意し、お昼は新婦宅で新郎が食事。夜は新郎が正式な結婚式を執り行い、真夜中まで延々と宴会になります。2日目は朝、新婦が新郎の一族1人につき3回挨拶礼をし、昼は新郎がプロフを食べながら初夜のアドバイスを受けるそう。夜、新婦は処女である証拠!を紙3枚に残さねばならず、結婚後、すぐに子どもが出来ないと病気が疑われるそうです。そう聞くと、ギョッとしちゃいますが、日本がかつてそうだったように、国が成長発展していく過程で人権に対する意識も少しずつ変化していくのでしょう。

 イスラム教では、天国へ行くには死ぬまでにやらなければならない5つのことー①神に疑いをもたない、②毎日5回のお祈り、③年1度のラマダン(断食)、④年収の4分の1を寄付、⑤死ぬまでにメッカを参拝するーがあるそうです。社会主義体制から独立し、自らの力で国を豊かにしていこうとする若い世代がこのような戒律や伝統習慣をどんなふうに継承していくのか、日本の戦後の高度経済成長時代の社会と重なるのか異なるのか、注目していきたいと思いました。

 

 10月17日、サマルカンド3日目の朝は、早起きした男性諸氏とホテルの周辺を散歩しました。

 

 新市街の中心、ウニヴェルスィチェッティ大通りとレギスタン通りの交差点に建つのはティムールの堂々とした像。その近くのルハバット廟モスクで日の出時間のお祈りに参加することができました。外をうろうろしていたら、管理人さんが入れ入れと気さくに招き入れてくれたのです。意味は分かりませんでしたが人々が唱和するコーランはとても心地のよい調べ。後で調べたら、このルハバットとは「霊の棲家」という意味で、預言者ムハンマドの遺髪を治めた箱が一緒に葬られたという言い伝えがあるそうです。ちょっとビックリ。

 

  日中は中央アジア指折りの名所・シャーヒズィンダ廟群と、中央アジア最大級のビビハニム・モスク、そしてサマルカンド観光の名所ジョブ・バザールを巡りました。

シャーヒズィンダ廟群にはティムールゆかりの人々の11の廟がほぼ一直線に並びます。メインストリートの両側に立ち並ぶ霊廟の美しさは言葉にはできないほど。サマルカンドが「青の都」「イスラムの宝石」と称される意味がよくわかりました。

 

 ウルグベクが造った入口の階段は数えながら登り、帰りも数えながら下って同じ段数だったら天国に行けるそうです。私は後ろを振り向いては写真を撮ったりしていたので、途中から数えるのをあきらめました。

 「シャーヒズィンダ」は“生ける王”という意味で、なんでもムハンマドの従兄クサム・イブン・アッバースが布教中に異教徒に首をはねられてしまうが、自らの首を抱えて礼拝し続け、深い井戸に入って眠りにつき、イスラムが危機に陥った時、復活する・・・そんな伝説が残っているそう。アッバース廟はモンゴル襲来のときも破壊されずに残ったサマルカンド最古の建造物で、ここを3回参拝するとメッカに行ったのと同じ効力があると信じられているそうで、世界各地から観光や巡礼にやってきた人々でにぎわっていました。せっかくなので我々も礼拝所におじゃまして、伝説の英雄に黙とうを捧げました。

 

ビビハニム・モスクはティムールの美妃ビビハニムゆかりのモスク。1399年、ビビハニムはインド遠征から凱旋帰国する夫ティムールのために当代随一の巨大モスクを建て始め、5年後に完成。その1年後にティムールは亡くなります。なんでもいわくつきの建物らしくて、イケメン建築家がビビハニム妃に恋焦がれ、彼女の頬にキスをしたらその後がアザになってしまい、帰国したティムールに発覚。激怒したティムールは建築家を処刑し、妃は生涯黒いベールで顔を隠すことに。落成後は礼拝中の信者の上にレンガが落下する事故が続き、度重なる地震で一部崩壊もし、現在は完成直後の60%しか残っていないとか。あらら。

 モスクの中庭にはウルグベクが寄進した大理石の巨大なラウヒ(書見台)が置かれています。タシケントのハズラティ・イマーム・モスクにあった世界最古のコーランを置くためのもので、ラウヒの周囲を3回廻ると願い事が叶うという言い伝えもあるそうです。

 ビビハニム・モスクに隣接したジョブ・バザールは庶民も観光客も楽しめる一大青空市場です。クレジットカードや日本円は使えませんが米国ドルはOK。観光客向けの店では現地通貨よりも米国ドルのほうが計算もしやすく値切りもしやすく、日本では10万円ぐらいするペルシャ絨毯を見事3万円でゲットした人もいました。なにせ現地のお札スムは、1000(約14円)、5000、10000、50000と、とんでもないインフラ通貨。その場で円に換算して交渉するなんてとても無理でした(苦笑)。

 

ウズベキスタンの人気のお土産は干しブドウとナッツ類。バザールの業者さんで一人だけ異様に売れ行きの良いおじさんがいて、自然にみなが集まって、みんなで値切り交渉をして楽しいお買い物ができました。人気店だけあって、干しブドウもナッツも日本では味わったことのない美味しさでした!(つづく)


ウズベキスタン視察記(その7)~ソグドの壁画とウルグベク天文台

2018-01-09 20:58:50 | 旅行記

 視察記その5で紹介したように、アフラシャブの丘は13世紀にモンゴル軍に破壊される以前、2000年近くサマルカンドの中心地として栄えていた場所です。今は荒涼とした砂と岩の台地ですが、アレキサンドロス大王の東征時代のコイン、ゾロアスター教の祭壇、7~8世紀にここを治めた王イシヒドの宮殿のものと思われるフレスコ壁画など数多くの出土品が発掘され、それらを収納展示するアフラシャブ歴史博物館があります。

 館内は300円程度の撮影代を払えば写真やビデオの撮影は自由といわれ、ビックリしましたが、最近はデジカメでもスマホでもフラッシュを必要としない高感度レンズが普及しているから問題ないのかな。


 まず感動したのが、宮殿の王座の間を再現したレイアウトで展示されたフレスコ壁画。イシヒド王へ嫁ぐチャンガニアン知事の娘の花嫁行列を描いたもので、行列の先頭には白象に乗った花嫁(破損していて白象しかわからないけど)、その後にラクダと馬に乗った従者が続きます。真ん中のラクダの従者2人は顔の色が違うけどソグド人の典型とか。

 一方の面には船に乗った中国人風の女性など海の交易の様子が描かれています。内陸の国なのに面白いですね。

 

 最も興味を引いたのはゾロアスター教の祭壇。風葬や鳥葬なんですね。ゾロアスター教は善と悪の二元論を唱えた世界最古の一神教。最高位の善神アフラ・マズダーが人間の肉体を保護しているのだから、清浄な死者の肉体に不浄をもたらさないよう、自然に委ねる(=風葬や鳥葬)という教えです。高温多湿な気候で、山川草木に八百万の神が宿ると考える日本では生まれてこない教えだろうと思いました。

 19世紀にはじまった発掘調査は現在も進行中。私たちが帰国した後、サマルカンドの東南約30キロにある王の離宮カフィル・カラ城遺跡で、奈良帝塚山大学等の調査団が世界で初めてゾロアスター教関連の板絵を完全な状態で発掘したと新聞記事で知りました。最上段に女神、下段に弦楽器や琵琶を奏でる楽隊が彫られ、奈良正倉院には似たような楽器が伝わっているとか。シルクロードは本当にサマルカンドと奈良をつなげていたんだな、と強く実感できました。

 平成29年11月3日(金)静岡新聞朝刊

 

 アフラシャブの北東にあるチュパン・アタの丘には、ティムールの孫で天文学者ミルゾ・ウルグベク(1394~1449)が作ったウルグベク天文台跡があり、15世紀に造られた天文台の基礎と、半径40.2m、弧長約63mという巨大な六分儀の遺構が見学できます。ウルグベクは仲間の天文学者とともに、ここで恒星年(一年の長さ)を365日6時間10分8秒と計算。今の精密機器の計算では365日6時間10分9.6秒。つまり、望遠鏡もない時代に約2秒しか違わないという驚きの成果を上げたのです。彼らはまた地球の赤道傾斜角を23.52度と計算。コペルニクスの計算を凌駕し、現在に至るまで最も正確な値とされています。

 ウルグベクは優れた天文学者であると同時に、歴史学や芸術にも造詣が深く、サマルカンドに数多くのモスク(寺院)やメドレセ(神学校)を建設。一族が眠るアミール・ティムール廟も再建しました。しかし科学を敵視するイスラム教の指導者たちがウルグベクの息子たちをそそのかして父親に刺客を差し向けさせ、彼は55歳で非業の死をとげます。天文台もその直後に破壊されてしまいましたが、サマルカンドの天文学は脈々と継承され、コンスタンティノープルに逃れた弟子たちが天文表ジドジュを守り、17世紀半ばにヨーロッパへ伝わってオックスフォード大学で出版されました。20世紀初頭には考古学者のV.ヴィヤトキンによって天文台の遺構が発見され、ウルグベクの功績に再び光が照らされたのでした。

 1941年にはソ連の学術調査団がアミール・ティムール廟の墓を調査し、遺骨の状態からティムールが足に障害を持っていたこと、ウルグベクが斬首されたことが判明しました。

 これはビビハニム・モスクの路上画家から購入した絵葉書サイズの細密画。誰を描いたのか教えてもらいませんでしたが、どうみてもウルグベクさんですよね。彼の100年後に登場したガリレオでさえ宗教裁判にかけられたのですから、やっぱり生まれる時代が早かったのかな。

 今年のお正月に私の愛読書であるみなもと太郎の歴史ギャグ漫画『風雲児たち』がドラマ化されましたが、風雲児たち海外編があればぜひ登場していただきたい!と思える人物です。(つづく)


 


ウズベキスタン視察記(その6)~自動車工場と紙すき工房を訪ねる

2018-01-09 10:00:10 | 旅行記

 ウズベキスタン4日目の10月16日は、伊藤忠といすゞ自動車が現地企業に出資した合弁会社サムオートを訪問し、生産部門責任者のアリフジャノフ氏に案内していただきました。

 サムオートはサマルカンド郊外にある敷地15万5620㎡、建屋3万7000㎡の大型自動車製造組み立て工場で、年間4000~5000台のバス&トラックを生産しています。設立した2007年当時はバス70%にトラック30%という生産比率だったのが、10年経た2017年にはバス30%・トラック70%と逆転。バスは56人乗りの低床都市型バスで、エンジンはいすゞ製。タシケントやサマルカンド市内で見かけた乗り合いバスは、100%サムオートの名前がクレジットされていました。

 この10年で生産量が激増したトラックは30車種以上を手掛け、中にはタンクローリー、救急車、ゴミ収集車のような特殊車両も含まれます。中央アジアは真夏には気温が50℃近くになり、アラル海近隣では塩害も。車輛には、日本とは違うレベルの耐久性が求められます。工場では原料の鉄はロシアから、機械はおもにドイツやイタリアから輸入し、トヨタのカイゼン方式もしっかり導入。社員は日本で研修を受けてコストダウンや職務改善の重要性を学び、生産部門のみならず事務スタッフにも徹底させたそうです。

 原料素材も本来ならば日本製がベターですが、輸入コストがかかり過ぎるため、安価で品質も安定しているロシアや最近ではスウェーデンからも導入。完成品はロシア、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン等の近隣諸国をはじめ、トルコ、グルジア、アゼルバイジャン、アフリカ等へも輸出されています。ロシアでは今はまだディーゼル車のニーズが高いそうですが、今後は天然ガス車も有望になるようです。

 事務棟の玄関には小さな日本庭園がしつらえてあり、工場内は日本の生産方式を遵守し、整理整頓が行き届いていました。流ちょうな日本語をあやつる若手通訳のファルモンさんは、日本語弁論大会で優勝したそう。前回記事で紹介したサマルカンドの複雑な歴史を顧みると、日本のやり方をよく受け入れてくれたと思います。まさにこの国が2000年以上にわたって異文化を柔軟に吸収し、折り合いをつけ、今は国自体が若く、伸びしろが非常に大きいという証拠を目の前で実感できました。

 

 午後は時空をぐ~んと遡るように、かつてサマルカンドの町が栄えたアフラシャブの丘周辺を観光しました。

コンギルメロス紙すき工房は、751年、この地に連行された唐の捕虜から伝わった紙すき技術の伝統を伝える水車小屋。19世紀半ば、紙すきの伝統はいったん途絶えたものの、1998年にこの工房が建てられ、1基だけですが昔ながらの紙漉き水車が稼働しています。

 昔、和紙の紙漉きを取材したことがあり、作り方は基本的に同じだと思いましたが、サマルカンドペーパーは養蚕に使う桑の木を原料にしていたことからシルクのような美しい光沢を持ち、細かい文字や細密画、印刷等にも最適と高く評価されているそうです。

 中央アジア随一の紙産地となったサマルカンドからはペルシャ、アフリカ、ヨーロッパへと製紙法が伝わり、シルクロードならぬ「ペーパーロード」が築かれました。事前に友人から『ペルシャ細密画の世界を歩く』(浅原昌明著)という新書を借りて読んでいたので、お土産用に細密画が印刷されたサマルカンドペーパーを購入しました。

 ペルシャ細密画は、手書きで写した書物に挿絵が入ったもので、ペルシャ3大美術(建築・工芸・写本芸術)の一つに数えられます。書は神の言葉コーランを伝えるものですから最高の芸術とされ、コーランのアラビア文字をより美しく写すことは神への善行とされました。挿絵は限られたスペースで書の意味を補完するため細密にならざるを得なくなり、それが芸術性を高め、13~14世紀には挿絵のレベルを超えた「細密画」として認知されました。

 自分用に購入したのがこれ。文字よりも挿絵の方が完全にメインになっていますから、元の絵はそんなに古くない時代のものだろうと思います。緑や青は砂漠の民ソグド人がゾロアスター教を布教させていた時代、聖なる色として珍重していたカラーだそうです。ソグド人の足跡、ほんのちょっとでも見つけられてよかった!

 イスラム教では偶像崇拝を禁じていたため、人間や動物を描く画家は書家よりも低い地位に置かれていましたが、モスクや廟といった宗教施設以外の場所=王宮内などではさかんに描かれました。一方、宗教施設では装飾芸術として人間や動物の代わりに幾何学模様、植物模様、文字文様などが発達したんですね。翌日訪ねた聖地シャーヒズィンダ廟群では、装飾アーティストが幾何学模様の制作実演を披露していました。

  自動車組み立て工場サムオートでは、ウズベク人の手先の器用さや真面目な仕事ぶりが印象的でしたが、その源泉は、ペルシャ美術に宿る「神の言葉をより正しく、より美しく、より分かりやすく伝える」という精神にあるように思えました。(つづく)